りゅこ倫

■■1999年02月11日■■

「地獄」と「リアリズム」

 前章では、「浄土」と「理想の世界」について書いたので、今回はその逆、つまり「地獄」と「リアリズム」について書こうと思う。

 あまり正確な言い方ではないが、とりあえず「極楽(浄土)」の反対は「地獄」である。「苦楽」の「楽」の極限が「浄土」であり、一方「苦」の極限が「地獄」になる。しかし、どういうわけか「地獄」の描写は「極楽」の場合に比べて、より具体的であり、キリスト教でいう「地獄」とは違って、「地獄」にいる期間も限定されている。

 「極楽」の描写が曖昧なのに比べて、なぜ「地獄」の描写が具体的なのか。私の考えでは、人間は「楽」を求めるのに際限がない一方で、際限なく「苦」を求めることが(普通は)有り得ないからだと思う。つまり「苦」に関しては、身に覚えのありそうな(もしくはそれに類似の)苦痛を具体的に示す方が効果的であり、説得力を持つのだろう。そういう意味では「地獄」の持つ「苦」の極限性は、「極楽」のそれとは異質であって、正確に言えばこれは「極限」ではない。つまり、「地獄」と「極楽」とは、非対照的な存在である。

 ではなぜ、「地獄」が具体的な「苦痛」を示すことで説得力を持つのかというと、これはしばしば、この世が「地獄」だからではないか。生老病死の「四苦」に、求不得苦、愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦(後述)を加えて「八苦」という。これを「四苦八苦」というが、前半の「四苦」は後半の「八苦」の、いわば内数である。合わせて「十二苦」というわけではない。しかし、この世は「苦」に満ちている。ならば「地獄」とは「彼岸」ではなく「この世」のことだといってもよいだろう。

 これは比喩で言うのではなく、人間も含めた動物の身体が持っている「感覚」というものが、そういう条件を作っていると思う。動物は、ある一定の条件下でなければ生存できない。その条件から外れれば、それは例外なく「苦痛」として感じられる。暑い、寒い、痛い、ひもじい等で、「地獄」もちゃんと(?)そうした具体的な苦痛に対応して、複数用意されている。「楽」の方は、そうはいかない。

 こうした感覚は、生存のために必要なものであり、しかも「苦痛」として感じられる必要がある。こうした感覚がなければ、自分にとって有害な環境や状況を察知する事が出来ない。また、それを察知しても「苦痛」として感じられなければ、それを逃れようと思わないだろう。前者の例としては、生まれつき痛覚がない無痛症や、ハンセン病などによって痛覚が失われた場合、自分が怪我や火傷をしても気がつかずに被害を大きくしてしまうということがある。むろん、こうした感覚がない以上、そういう危険な状況に対して「懲りる」ということも出来にくい。だから苦痛がないというのは、生命の危険につながる。

 後者の例として、もし痛いや熱さが「苦痛」ではなく「快感」として感じられたらどうか。頭では判っていても、危険を避けるどころか、好んでそういう状況に身を投じるようになるかも知れない(麻薬の常用者などは、この例に近いと思う)。

 また、「苦痛」が大切だというのは、他の感覚と比べてみても判る。例えば味覚や嗅覚は、ある程度の時間持続すれば慣れてしまって感じなくなるが、痛みに関してはそういう事がない。ありがたみなら、すぐに忘れる。度重なるとそれが当たり前になって、忘れるどころか、最初から感じなくなる。つまり、私が恩知らずなのは、生理学的には正しい。正しいから、生理学の観点からは責められないが、他の面から責められる。

 要するに、この世は「苦」に満ちている、というよりも、そう感じるように身体がつくられているのである。これを仏教風にいえば、「五蘊盛苦」という事になる。

 これは肉体的な苦痛だが、精神的な苦痛も基本的には同じ、もしくは類比的(アナロジカル)なものと考えられる。後者については、とりあえず人間特有のものと考えてもよいと思うが、求めるものが得られないとか(求不得苦)、別れたくない人(もの、こと)との別離だとか(愛別離苦)、逆に会いたくない人と会わなくてはならないとか(怨憎会苦)、フロイト流に言えば、さまざまな「自我」の危機が「苦痛」として感じられる。

 肉体的な苦痛であれ、精神的な苦痛であれ、人間はなんとかこれらの「苦痛」から逃れようとする。逆に言えば、人は常にエロス(快、真、善、美)を求める方向に動こうとする(快感原則)。現実の「苦痛」から逃れるには現実の工夫が必要で、「理想」を思い描いても仕方がない。

 ところが、人間が求める事というのは、必ずしも実現可能な内容ばかりとは限らない。例えば人間には、買い物に行くのに「次の角を曲がったらコンビニがある」と、まだ実際には見えていないコンビニを思い描いて、そこを目指す能力がある。しかし、実際にはそこにコンビニがなくても、「今夜は寒くてあまり歩きたくないから、本当はこれから行くコンビニはもっと遠いんだけど、次の角を曲がったところにコンビニがあればいいな」と考えることも出来てしまう。

 つまり、人間の欲望というのは、「実現可能」なもの(こと)だけを対象にするのではなく、「実現不可能」であっても「思考可能」であれば欲望の対象として想定することが出来てしまう。ここに問題があると思う。

 もっとも、そのこと自体が悪いというつもりは、私にもなくて、そうでなければ、苦しい状況にあっても希望を持ち続けるという事も出来なくなってしまう。あるいは、空想に耽ることすら「悪」だということにもなり兼ねない。これは困る。しかし、「想定」と「現実」の区別がつかなくなるのも困る。「理想」というのは、ここで言う「想定」が極限の形を取ったものである。

 なぜ、「想定」と「現実」の区別がつかないと困るかというと、例えば現実には「地獄」にいるにも関わらず、「極楽」を夢見て「地獄」に生きるための覚悟や工夫をしないとしたら、どうか。私は「極楽」を夢見ること、それ自体はよいと思う。しかし、「地獄(現実)」に生きるための覚悟や工夫をしないというのは、これは「現実」上の新たな問題を引き起こす。つまり、悪循環に陥ってしまう。それがまずいと思う。

 人間がもつ「リアリティ」というのは意外に不安定なものらしく、ある「想定」について、他人と意見を交わさずにいたり、あるいは同じ「想定」を認める者同士の集団内で、「これは単なる『想定』ではなくて『現実』だよね」と確認しあっていると、実在しない単なる「想定」に対しても「リアリティ」が付着するようになる。これは特にイデオロギーだけの問題だというのではなくて、私達の日常の中にも例があると思う。

 そもそも、「社会」というものがそうである。実は「社会」というのは「もの」ではなく「こと」なのではないか。つまり、「社会」とは約束事ではないか。だから、犯罪という形で約束を破る人間がいて、一方では、社会という「想定」の破綻を繕う人間がいる。社会を何か実体のあるもののように考えて、社会構造がどうのという話になると、とたんにリアリティが失われる。「もの」ならともかく「こと」に構造があるはずがない。だから、そういう話をする場合の「構造」とか「しくみ」というのは、あくまでも比喩である。時々、それを比喩だと思わない人がいる。だから、話がおかしくなる。

 この世は地獄である。だからこそ、みんなでルールを作って、この世が地獄であることから目をそらそうとする。それが「社会」という現象であろう。社会とは一種の幻想であり、人工空間といってもよい。物質的にもそうなる。だから、東京に住んでいると、1時間かけて移動しても、その途中で地面を踏むという事が、まずない。踏むのは地面を覆うアスファルトである。あるいは電車の床である。

 人工空間である社会は、当然の事ながら、自然を排除することで成立する。自然とは、上にいう「地獄」に他ならないからである。ここにそもそもの矛盾が生じる。自然を排除しようとする人間の身体も、自然だからである。もちろん、「性」も自然である。私達 T's が、「社会」の中で異端視されるのは、この意味では当然であろう。T's は、「性」という自然の問題を社会に突きつける。だから、犯罪と違って法律に触れなくても、存在自体がどこか反社会的だとみなされるのである。T's とは、社会の破綻の一部であり、社会(人工)に対する自然の反乱という面を持っている。

 だからといって、T's がこの社会の中で、何か特権的な位置を占めているわけではない。T's も人間である以上、「社会」なしに生きることが出来ないからである。つまり、社会を壊せば救われるというような存在では、断じて、ありえない。

 ならば解決策は、「性」という自然を、「社会」という人工の中に、いかに繰り込むかを考えるより他にないと思う。そうでなければ、「T's は皆殺しにしてしまえ」という話になる。そうならないような解決策とは、「社会」の中に存在していながら隠蔽される、その置かれ方の問題である。この問題は、これまで長い間「そういうものは社会にない」とみなすことで対処されて来たような気がする。つまり、社会的に無視され、表れれば叩かれる。しかし存在するものは仕方がない、と考えるのがリアリズムというものだと思う。

 こういう社会の在り方に、最も適しているのは TS だろう。何よりも、本人達がさっさと変性して、その後は「そういう事はなかった」ことにしたいと願っているのである。ならば手術も戸籍の変更もさっさと認めてしまうほうが、「社会」にとっても、当事者にとっても好都合であろう。

 これは、生まれた時のままの性別で一生を送ろうという、非 T's にとっても、他人事ではなさそうな気がする。「性別の自己決定」という事を考えると、これは単に「性転換する権利」なのではない。裏返してみれば、生まれた時のままの性別でいたい人が、その性別でいられる権利でもある。つまり、本人の意に反して性転換されない権利でもある。ならば、これもルソーのいう「一般意志」であり、「人権」になりうるものではないか。

 かつてならばこんなことを、わざわざ「人権」として定める必要はなかったであろう。今では事情が変わった。変えたのは私ではない。医療技術の進歩である。だから、性転換に限らず、臓器移植や脳死の問題でも、もめる。技術の進歩が現実を変え、現実の変化が「性別の自己決定」という人権を要請するようになった。そう考えればよかろう。そう考えないと、倫理が技術においてきぼりをくう。現に、しばしばそうなる。これは「社会」にとっても問題ではないか。

 だから、安定した社会、理想社会というのは絵空事だと、私は言い続ける。安定した社会を作るなら、技術の進歩も、その根元である人々の欲望も禁止しなければなるまい。それで安定はするだろうが、果たしてそれが「理想的な社会」といえるか。

 この世が「地獄」だといっても、ありのままに地獄として「在る」のは、やはり問題がある。だからといって、地獄が極楽になるわけもない。ならば、地獄と極楽の折り合いをどこでつけるのかという話にならざるを得ない。これを日本では「死中に活を求める」という。自分で考え、自分で動くしかない。それが基本であろう。ファウストが最期に気付いたのも、そのことであった。

知恵の最期の結論はこういうことになる。
自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、
これを享受するに価する人間といえるのだ、と。
従って、ここでは子供も大人も老人も、
危険に取りまかれながら、有為な年月を送るのだ。
おれもそのような群集をながめ、
自由な土地に自由な民と共に住みたい。

(「ファウスト」、ゲーテ・岩波文庫)

L.Jin-na


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