りゅこ倫

■■1999年02月25日■■

生と死

 T's の問題について掘り下げて考えてゆくと、どうしても性別以前の問題としての「人間そのもの」に行き着いてしまう。では「人間」をさらに掘り下げると、どうなるか。いろいろな意見があると思うけれど、最終的には「生きる」という事、そしてそれと一緒に「死」の問題が出てくると思う。

 ハイデガーは、人間という存在には、常に死がつきまとっていると考えた(らしい)。これは単に、人間は必ず死ぬという事ではなくて、人間はいつ死ぬか判らないものだという意味を含んでいる。私のように、そこそこでも仏教に馴染んでいると、これも特に目新しい意見には思えない。要するに「諸行無常」の一形態であろう。そう思う。

 しかしハイデガーは、それだけではなく、人間の日常においては、「死」が隠蔽され、目先の仕事にとらわれることで、死の不安から逃走しているという。この事もよく判る。特に、都会ほどそうではないかと思う。葬儀にいっても、祭壇に遺影があるだけで、死体は参列者の目にさらさない。場合によっては、親族だけが「死の床」の周囲で死者をしのぶことがあるくらいだろう。昔はこれを夜通しやったらしい。だから現代では、昼間に行っても「通夜」という名前だけは残っている。今では、通夜と葬儀の区別がよく判らないような場合も多いのではないかと思う。

 ハイデガーはその著書「存在と時間」の中で、死の事実から目をそらして生きる在り方を「非本来性」、死の事実を自覚した生き方を「本来性」と呼んでいる。私はまだ「存在と時間」を読んでいないのだが、西研氏の「実存からの冒険」にそう書いてある。

 これは面白い考え方だけど、「人間は常に自らの死を思って生きるべし」という命令だとしたら、たまらない。もっとも私の場合には、毎日バイクに乗って走り回る仕事をしていると、そういう面が出てくることは確かだけれども、出来ればそういう場面はないに越したことはない。

 西氏の解釈では、死の自覚、死に直面する事は、自分の存在の仕方を新しく了解し直す(検証し確かめる)チャンスであるということらしく、これは納得できる解釈だと思う。個人的な経験からいうと、死ぬか生きるかという時には、「生きている」という実感が、それこそ掌に感触があるくらいに、手応えのあるものとして感じられた。ある程度の期間をそういう状態で過ごした後、普通に生活に戻ると必ず10日から半月くらいは頭がボケて仕方がなかった(私はこれを「平和ボケ」と呼んでいる)。「エリア88」という漫画の中に、ミッキー・サイモンという人物が登場する。彼はベトナム戦争から帰った後、父親が経営する会社に入るのだが、戦場を忘れることが出来ずに、ついには再び戦場に赴いてしまう。別に人殺しがしたかったわけではない。「死ぬか生きるか」という状況下で初めて感じられるような「生の実感」を忘れられなくて、平和の中では「本当に生きている」という現実感が得られなかったのだと思う。私には彼の気持ちがよく理解できるように思う。

 ところで、先月に何人かでこの「本来性」の話をしていた時に、「どうせ最後には死ぬんだと思うと、やる気がなくなる」というような意見が出たことがあった。これも、私にも同じようなことを思った覚えがあって、よく判る。とすると、死を自覚しつつ、やる気を無くさないような考え方があるのだろうか、という事が気になる。

 実は私には、中学の後半か高校の前半くらいの時期に、何もかも嫌になって死ぬことばかり考えていた時期がある。特に何か、自殺したくなるような「事件」があったわけではなく、ただ生きることが(生きる中での何もかもが)何の意味もないことのように思えて、どうしようもなくなった。しかしそのうちに、何もする気がなくなったはずの自分が、「死ぬこと」を文字通り「必死」に考えているという事実に気がついて、アホらしくなった。成績を上げるとか、大学に入るとか、そう言う事にはそれなりの努力が必要だが、「死ぬ」という事は努力を必要としない、おそらくは唯一のものである。人間、必ずいつか死ぬ。どうしたって死ぬものを、「必死」に死ななくてはならない理由がどこにあるのか。そう思ったら、手間暇かけて死ぬという事が、馬鹿馬鹿しくなった。ここまで来れば、本当に「何もかも嫌になった」といえるだろう。

 仕方がないから今は、死ぬまでは生きているつもりでいる。生きている間は、ただ生きていると退屈だからいろいろやっている。たまに山の中で迷ったりもしたので、他の人から見ると、そうとう危なっかしく見えることがあるらしい。ただ、私としては、実はそういう時が一番ワクワクしていたりする。私の場合、おそらくはまだどこかに「死を待っている自分」が残ってるような気がする(繰り返すけど、待っているだけで自分から死ぬ気は失せた)。考えてみると、これは「どうせ最後には死ぬんだと思うと、やる気がなくなる」という考え方の逆をいっているのではないかと思う。

 私にとって「生きる」という事は、端的に言えば「死を待つ期間」である。しかし、「死の恐怖」をいわば喪失してしまったために、「死におびえて暮らす期間」ではない。だから、その間にいろいろやってみようという気にもなる。一番面白いのは、死の縁から帰ってくる事である。この時が、最も「生きる喜び」を感じる。こう書くと、実は死を恐れているのではないかという気もするが、そういう時が一番冷静に行動している時でもある。死にそうになってあわてるのではなく、日常にはないような頭の冴え方をする。ちょうど、将棋か何かの面白いゲームに没頭しているときに似ている(ただし「待った」は出来ない)。だから、「死の自覚=本来性」というのは、理屈よりも感覚的に判るような気がする。

 こうした経験から、「どうせ最後には死ぬんだと思うとやる気がなくなる」と考える人に言える事があるとしたら、「生」と「死」は連続したものではなく、まったくの別ものだということだろう。だから、死を持っている私でさえ、けっして「ただ死を待つだけ」ではなく、それまでの間はなんとか「生」の中身を埋めようとする(私の場合、その中身には問題があるかもしれないが ^^;)。何もしないで退屈するのは、「死ぬよりつらい」ことなのである(笑)。

 「生」と「死」が別ものだという事を、もっと身近な例で言ってみよう。「ソケットに電球を取り付けても、いずれは切れてしまうのだ」といって明かりのない生活をしている人は、たぶんいないと思う。電球はいずれは切れてしまうものだけれども、照明に使う電球と、タマ切れした電球とは、別ものである。どう違うかというと、これもハイデガーの考え方で、「用在性」という概念がある。簡単に言うと、「××は〜するためのもの」というモノの見方のことで、電球は「周囲を明るく照らすもの」だけど、タマ切れした電球は「役に立たないもの」(少なくとも照明のためには)である。両者を用途の上で同じ物だとみなす人はいないだろう。

 このことは、実は道元も正法眼蔵の中で書いている。

 薪(たきぎ)、灰となる、さらにかえりて薪となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。知るべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後といえども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かの薪、灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人の死ぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといわざるは、仏法の定まれるならいなり。

(正法眼蔵・現成公案)

 読みやすいように字句は変えてあるけれども、これを私なりに解釈するとこうなる。薪は灰になるが、そこから薪に戻ることは出来ない。それを、「薪と灰は同じ物の前の姿・後の姿」と見るのは正しいものの見方ではない。薪はあくまでも「薪」である。確かに、薪になる前は立ち木であっただろうし、燃えた後は灰になるが、今、目の前に薪としてある時に、それが同時に立ち木であったり灰であったりするわけではない。薪を立ち木のように植えたり、薪を灰のように畑に撒いたりしても仕方がない。灰も、やはりあくまで「灰」なのであって、それ以外の何ものでもない。

 薪は灰になった後に、元の薪に戻ったりはしない。人間も、死んだのちに生き返ったりするわけではない。生きている人は生きている人であり、死人は死人である。人間は自分を「用在性」で見るわけではないが、しかし自分が「いずれ死ぬ存在」だからといって、「今生きている自分」と「死んだ自分」とを、どうして「同じ存在」だとみなすことが出来るだろうか。

 ハイデガーの言う「死の自覚=本来性」も、おそらくは「今生きている自分」と「死んだ自分」とを「同じ存在」とみなすという意味ではないと思う。そうではなくて、「死の自覚」とは、「生の有限性を自覚すること」だと思う。「生が有限である」という事は、むしろ「今生きている自分」と「死んだ自分」とが別の存在であることを前提として、初めて成り立つ見方なのである。

 そして、死が「いつ訪れるか判らないもの」だという事は、世間的な価値にとらわれて動くのではなくて、常に「今」生きている自分の価値観を了解しつつ動けと言う事だと思う。世間的な価値にとらわれて生きていて、それでいつ死んでも、本当にそれでいいのか。そういう事ではないだろうか。だから、問題は死ぬことではなくて、あくまでも生きること、生き方にある。「生き方」といっても正義のために生きるとかそう言う事ではなくて、「自分を誤魔化して生きてるんじゃないよ」ということ。

 そういうと、今度は享楽的な生き方だとか、そういう方に流れそうな誤解を招くおそれがあるが(^^;)、そうではなくて「後ろめたさを持つような生き方をするな」といってもいいと思う。自分の楽しみを優先して、他人との約束を破ったりすると、やっぱりどこか「後ろめたさ」が残る。だったら、そこは約束優先の場面であろう。自分を裏切らない事と、自分の楽しみを優先する事とは、必ずしもイコールとは限らないところが難しい。

 だから、いよいよ死ぬという時に、「死にたくない」と思ったら、その感じたままに「死にたくない」といいながら死んだっていいのだ。名前を忘れたけど、実際にそういう禅僧がいたような記憶がある。何かの本でその話について、「禅僧は執着を持たないから、生にも死にも執着を持たない。だからその時に『生きたいですか』と誰かが尋ねたら、『生きたくない』と答えただろう」という意味の解説が書いてあった。しかし、私はその説を取らない。禅の公案にも「正解」がないのに、死の間際の言葉に「こう言えば高僧だ」というような正解があるとは思えないからである。この僧は本当に「死にたくない」と思ったから、思いのままに「死にたくない」と口にしただけではないかと思う。

 それが、死ぬまで「生きる」という事であって、最後の最後に自分を誤魔化して、悟りすまして死を受け入れるフリをする必要のあろうはずがない。そうやって死の間際まで正直に生きる方が、かえって気持ちよく死ねるような気がするのである。従って(私が言うのも何だが ^^;)、死の恐怖を克服する必要もない。まして、そのために「生」を費やす必要があるかといえば、私には疑問である。どちらにしても、死ぬときは死ぬ。問題は、死の間際まで「生きた」といえるかどうかにある。「よい死に方」という言葉があるが、「生きる」事が出来なくて、「よい死に方」が出来るか。だから、私だって生きているのではないか。

 おそらくは、その方が死の恐怖の克服よりも難問だろう。なぜなら、誰にとっても「生きる」ことは「一生の問題」に違いないと思うからである。

L.Jin-na


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