りゅこ倫

■■1999年03月07日■■

哲学の味わい方

 先月に出版された、哲学の味わい方(竹田青嗣・西研対談、現代書館)という本が、とても面白い。すでに先月の内に、「ジェンダー素描」の、「参考図書」にも含めてある。

 これまでにも、哲学関係の判りやすい本を多数出されているお二人だが、今回はおそらくは20代の読者を意識しているのか、「恋愛論」「社会論」「自我論」といった章の他に、「就職論」という章が設けられていて、これから社会に出ようという人にも是非一読をお勧めしたい内容になっている。

 もちろん、30代〜40代の人が読んでも、得るものは大きいと思う。ただ、こんな調子で書いていると、宣伝用の提灯記事と間違えられそうなので(^^;)、ただ「素晴らしい、素晴らしい」とばかりいうのではなく、もう少し踏み込んでみることにする。

 この本を読んで真っ先に気がつくのは、竹田・西両氏の体験がふんだんに語られている事だろう。それも、過去に体験した「挫折」や「悩み」に触れたものが多い。

 なぜか。それは、哲学が本来、人生の中で生じる問題についてどのように考え、いかに乗り越えるかに、役立つものだからだ。

 ただし、そういっても、おそらくは納得しない人が多いと思う(笑)。図書館や書店の哲学のコーナーに並んでいる本を見ても、そういった問題に答えてくれそうな気がしない、というのが、正直なところではないかと思う。そして、実は私もそう思っていたし、今でもそういう本がたくさんあると思っている。

 なぜそういう本が、「役に立ちそうもない」と思えるかというと、そこに並んでいる「問題」に、現実感を感じないからではないだろうか。「真理、とは何か」とか「存在、とは何か」とか、そもそも、どうしてそんな事を考えなくてはならないのかが判らない。しかも、その問いに対する答えがまた難解で、ただでさえ難解なことが、難解な言葉で書いてある。そういう本ばかり見れば、誰でも、そういう事を問題にするのも、またそれを読むのも、つまり哲学とはインテリのヒマ潰しだと思うのが当然だろう。その意味で、哲学に対する一般的な印象は、それなりに正当性があると思う。

 だけど、哲学の本質はそういう所にあるのではない、という事を、この本は教えてくれる。誰でも、人生の中で苦悩や挫折、劣等感や疎外感を感じた経験があったり、現に感じていたりするだろう。そういった人生の中での問題をどのように考えて乗り越えて行くのかという、その方法が哲学なのである。

 つまり哲学とは、自分で考えることであって、プラトンやヘーゲルが何をどう考えたかという知識を習得することではない(でも、そう思っている人って多いよね ^^;)。これがひとつ。

 それから、「考える」というのは、自分にとってどうでもいいことを考えるのではなく、自分にとって大切なこと(問題)について考える。言い換えれば、自分自身に考える動機がある事について考えるのである。では、自分にとって考える動機があることって、何だろう。それが上に書いた、苦悩や挫折、劣等感や疎外感といった、自分の人生の中で生じる問題なのである。

 だから、見方によっては、すでに誰でも哲学しているのであって、改めてこれから哲学を始めますというようなものではない。

 ただ、初めからすべて自分で考えるのは大変だけど、そんな時に似たような経験を持っている人から話を聞いて参考にしたりすれば、考えやすくなる。哲学書には本来、そういった知恵が詰まっている。それはいいんだけど、たいていの場合は困ったことに、水を飲もうとして袋をあけると氷が入っていて、それを自分が飲めるように溶かさなければならない。つまり、判り難くて、とてもそのままでは「自分の問題」に使えない。

 そのために、哲学というのは一部の学者にしか飲めないものではないかとか、自分には関係ないものだと思ってしまうわけだけれど、「溶かせば飲める」のであれば、捨ててしまうのはもったいない。要するに今回紹介している、「哲学の味わい方」は、「ほどよく溶けて飲みやすい」のだ(笑)。

 だからといって、「T's の人は、こういう考え方をするといいよ」という事までは書いていないけれども、例えば上にも書いた「就職」というテーマは、T'sにとっても、やはり大きな問題の柱の一つになっている。この本の「就職論」の章で具体的に論じられているテーマは、それとは直接は関係ないかも知れないけれども、それでも「自分で考える」上でのヒントのようなものは、かなりあると思う。例えば、「就職が難しいのは T's だけじゃないんだな」ということが判って、そういう人がどういう体験を経て来たのかを知るだけでも、大いに役に立つだろう。

 また、就職だけでなく、例えば竹田氏はこの本の中でも発言しているように在日朝鮮人で、その事から来る「自分の捉え方」とか、そういった体験談は、やはりマイノリティとしての T's の立場からも得るものがあると思う。

 断っておくが、哲学に「答え」を期待したら、おそらく失望する事になるだろう。自分の「答え」は自分で見つけるしかない。この本に書かれているのは、あくまでも「考え方」や「考えるためのヒント」であって「答え」ではない。逆に、「答え」が書いてあるような本は、疑ってかかるべきである。

 なぜなら、人間一人ひとりの生き方が異なる以上、万人に共通の「正解」は有り得ないからである。「人間として、こう生きるのが正しい」というのは、「答え」を期待する人には優しく思えるかも知れないが、それは裏返してみれば、多様な生き方を認めない本であって、オリジナルな「自分の生き方」の邪魔にしかならない。

 ありがたい事に、この本に示されている「ヒント」は、「氷」ではなく具体例である。「T's としての自分」に限らず、一人の人間としての「自分」の悩みをどのように考えて行くか、古人の知恵を借りて、「日常の難問」を乗り越える方法の具体例が示されているのである。

 それは、現在の私自身の方法でもある。私は、両氏の読者歴は1年余りと短いが、お二人から得たものの大きさは計り知れないものがある。

 実は私も、この「りゅこ倫」「ジェンダー素描」を始めた一昨年の後半くらいまでは、既存の論に「答え」を期待し求めていた。しかし、そこにあったのは、フェミニズムのような対立思想ばかりで、そこでいわれている「性」の在り方にも、日常的な感覚に照らして強い違和感を感じた。どう好意的に見ようとしても、政治目的のために歪められた「性」の姿としか思えないのである。

 既存のものがだめなら、自分で作るしかない。「ジェンダー素描」は、そこから生まれたといってもよい。そのために、私の目にうつる「性」の在り方や、それについての自分の考えを記述したのが「ジェンダー素描」である。その他のテーマでも必要だと思えば、それはこの「りゅこ倫」に書いて来た。だから、読み物の体はしているが、これらは要するに私の「メモ」である。私は本来が横着な性格をしているから、既存のもので「そのとおりだ」と思えるものがあったら、こうした作業はしなかっただろう。それが今では、T's に限らず、「自分の悩み」に向き合うための方法として、「ジェンダー素描」等に共感してくださる方々が現れはじめている。なんとも、ありがたい事だと思う。

 この作業の中で、大いに役立ったのが、竹田氏の現象学である。実は、竹田氏の著作の中で「そのとおりだ」と思えるものは、かなり流用させていただいている。特に、根本的なレベルになればなるほど、その傾向が強い。逆に、具体的な T's の問題に関しては、流用しようにも元になるものがないから、そういう部分は私の手作りである。だから、いわば「上げ底」のようなズルの産物でもある(^^;)。

 さらに、現象学の実例としてよいテキストになったのが、私にとっては、小浜逸男氏の著作だった。氏の考えは、特に「ジェンダー素描」の、「13.男と女の非対称」に大きく(ほとんどそのままといってもよいくらいに)反映している。

 途中から、西氏の「実存からの冒険」なども参考にさせていただいている(ちなみに、現象学を創始したフッサールと、実存思想のハイデガーとは、大学における師弟である)。どちらも、両氏の手にかかると判りやすいのがよい(笑)。もっとも、判りやすいだけでは困る。その中身が使えるものであって、初めてありがたみがある。竹田・西の両氏の著作は、いずれも「ありがたかった」。いや、小浜氏も含めて、「三氏」というべきか。

 哲学は考えるための技術である。技術である以上、使えなくては意味がない。また、使えても実際に効果がなければ、やはり意味がない。この点、居合や剣術と変わらない。だから、「ジェンダー素描」等を書くに当たっては武術と同様、「出来ねば無意味」という事を絶えず自分に言い聞かせ続けてきた。出来るだけ内容が現実から浮き上がらないように心がけたつもりだし、それはこれからも変わらない。

 だから、これは以前にも書いたかもしれないが、実は私は哲学を「学問」だと思って取り組んでいない。どうせ私のことだから、哲学を「学問」だと思ったら、とっくに挫折していたのではないかと思う(笑)。哲学を「学問」ではなく剣術を習うつもりで学び、剣を使うつもりで考えた。だから、自分の考えの甘さに気がついた時は、あとからでも、そこに出来た「隙」を補うための工夫を考えた。ただ、「ジェンダー素描」を読み返すと、今でも「隙」や「無駄な動き」が目に付く。これもいずれ対処するつもりである。出来れば、全面的に再編集してまとめ直したいとも思う。もちろん、剣の使い方そのものの上達も心がけねば、どうまとめ直してもレベルが上がらないのだが・・・。

 別に、自慢話がしたいわけではない。ただ、両氏の著作によって、すぐにこの程度は使えるという例を示したかっただけである。もちろん私が優れているのではなく、これはあくまでも、「ほどよく溶けて飲みやすい」具体例を示すことで、「哲学の味わい方」を知らしめる、両氏のお力によるものである。その証拠に、昨年の秋から冬にかけて、西氏の講座を受けたら、私よりずっと優れた人達がたくさんいた。私など、その場では剣の持ち方も知らない素人のようなものである。

 確か、過去に似たような経験をしたことがあった。剣道2段の私が古流の道場を初めて訪れ、そこの門下生の女子高生を相手に、まったく身動きできなかったことがある。10本やって2〜3本取れるというようなものではなく、少しでも動けば10回が10回、必ず負けるというような実力差を見せ付けられた。それとよく似ている。

 どこの世界に行っても、必ず上には上がいる。それは哲学も剣術も変わらない。だが、それがよいのである。どちらも、よい師に出会うことさえ出来れば、稽古した分だけ腕が上がって、困難を切り抜けることが出来るようになるからである。

 修行においては、実はこの「よい師に出会う」ことが一番難しい。中国武術の世界には、「三年かけてよい師を探せ」という言葉があるほどである。つまりは素人に、「玄人の真贋を見分けろ」という事なのだから、無理な注文だといってもよい。これはある意味で「背理」といってもよいほどの難問なのである。そのためには、既にその師についている人間を見るのも、一つの方法である。

 「哲学=自分の問題を考えること」については、竹田・西の両氏を「両師」として、「自分の悩み」に向き合おうとする方達に推薦したい。

L.Jin-na


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