りゅこ倫

■■1999年04月10日■■

TNJ よ、原点に戻れ!!

 今年2月に、4月4日を「トランスジェンダーの日」(Transgender's Day)とするということが、日本記念日協会で承認されたらしい。これはある自助グループが同協会に申請・承認されたという事だが、他の当事者からは「なぜ4月4日に?」という声も上がっている。そこで今回は、まずその経緯の説明から入りたい。そして次に、社会運動が陥りやすい悪弊について考え、その観点から今回の問題を検証するつもりである。。

  1. 「トランスジェンダーの日」承認の経緯
  2. 「トランスジェンダーの日」が生み出す効果
  3. 現状における「トランスジェンダー」と「オカマ」の混同は「不当」か?
  4. T's はフェミニズムでは救われない
  5. 社会運動が陥りやすい悪弊
  6. 自助グループの問題点


1.「トランスジェンダーの日」承認の経緯

 今年の2月に4月4日が「トランスジェンダーの日」として日本記念日協会で承認されたのは、「TSとTGを支える人々の会」(Trans-Net Japan、以下 TNJ と略記)の申請によるもので、これは TNJ の代表が提案、役員の同意を得た段階で日本記念日協会に申請されたと聞いている。TNJ のホームページの記事から見ても、おそらくはその通りなのだろう。

 この提案の意図は、これを機にトランスに対してまじめに考えてもらえる、とか、「オカマの日」を塗り替えられる、TGが自分のありように誇りを持てるということだったらしい。ところが、TNJ ではこの事を集会の参加者にも一切発表していなかったようだ。TNJ の集会においてこの事が取り上げられたのは、なんと、当日である今月4日の事だったということである。

 ※ 4月11日註(↑)

 上記について、ある方から4月11日にメールによるご指摘を頂いた。
3月中に「4月4日がTGの日として認められたので、当日イベントをやります」
という発表が集会の場であった
との事なので、正確を期すためその旨を付記
しておく。決まった、というアナウンスと簡単な趣旨の説明は3月中にあったが、
「TGの日制定の詳細な趣旨&経緯」については、確かに4月4日に初めて取り
上げられた、との事である。従って、事実がこのとおりであるならば、上記の、
「TNJ ではこの事を集会の参加者にも一切発表していなかったようだ」という
一文は、厳密には誤りである

 情報をお寄せくださった方に、感謝いたします。


2.「トランスジェンダーの日」が生み出す効果

 さて、TNJ が「トランスジェンダーの日」に期待した、これを機にトランスに対してまじめに考えてもらえる等の効果について、私の周囲では肯定的に受け取る人は皆無であった。元々、この4月4日とは、3月3日の桃の節句(雛祭り)と5月5日の端午の節句の中間の日という事から、「オカマの日」と言い慣わされて来た。聞くところによると、これは十数年ほど前に、ある京都のゲイバー(ニューハーフバー)において、イベントが行われたのが最初だったという事である。

 一部の T's の間では、以前から「オカマ」と言う言葉を嫌い、ニューハーフと自分達の差異をことさらに(時に差別といえるほどに)強調して来た事実があるので、おそらくは今回「トランスジェンダーの日」の設定にも、同種の動機があるものと考えられる。つまり、4月4日は「オカマの日」というイメージの抹消である。

 しかし問題は、その意図が一般(非 T's)社会に対してどのように受け取られるか、という事にある。「トランスジェンダー」という言葉がいまだ充分に社会的に浸透していない現状にあっては、これが「『オカマの日』が正式に決まった」という程度の認識しかもたらさないであろう事は、容易に予測できるであろう。

 私の周囲での反対意見も、その大半はここに理由があった。つまり、「トランスジェンダーの日」の存在そのものに対する反対ではなく、「なぜそれを4月4日などにしたのか」という非難として現れたのである。さらに、それを裏付けるように、複数の新聞報道などでも、その種の解釈が行われ、一部スポーツ紙には TNJ が抗議を行ったらしい。これを、日本では「マッチポンプ」という。自分で火をつけ、自分で消すからである。


3.現状における「トランスジェンダー」と「オカマ」の混同は「不当」か?

 TNJ 運営陣の意図が、なぜ世間に受け入れられなかったのかについては、ごく一般的な感覚というものさえ理解していれば、容易に説明可能であろう。要するに、「トランスジェンダー」の概念が世間に充分に知られていない現在、世間一般にとって「オカマ」と「トランスジェンダー」は同義語であるに過ぎず、したがって、「トランスジェンダーの日」イコール「オカマの日」という等式が容易に成立してしまうのである。

 ところが、TGTS に対する理解を呼びかけ続けていると、「トランスジェンダー」という概念が自分達にとっては自明のものとなってしまうため、ついその事を忘れてしまう。これは、どう考えても、世間の無理解が悪いというわけにはゆかず、自分達が世間にどのように認識されているかという「現実」と、どのように認識されたいかという「願望」を混同する方が悪いとしか、言いようがない。

 そもそも、「トランスジェンダー」という言葉がどれだけ世間の目に触れたと思っているのだろうか。一時期、SRS の報道が続いた時期はあったが、そこで使われた用語は「性同一性障害」であって、「トランスジェンダー」ではない。「トランスジェンダー」を認識していない世間と、自分達の問題について認識していない TNJ 運営陣。はたして、非があるのはどちらか。

 ただ、これが本当に「当初からの」目論見であったかどうかはともかくとして、TNJ からは、「トランスジェンダー」と「オカマ」の混同は最初から考えていた、とも取れる発表もある。「これらが、混同された場合は、訂正を求めていくことが、啓発にもつながります」というのがそれだ。これは、考え方によっては確かに一理あるといわざるを得ない。

 しかし、それが現実には「抗議」の形を取っていることは、やはり問題であろう。繰り返していうが、現状では「トランスジェンダー」に対する理解が乏しく、「オカマ」との混同が起きるのは、むしろそれが当然という状況にある。むろん、私もそれでよいと思っているわけではないから、「訂正」と「啓発」については、内容と手段次第では賛成である。しかし「抗議」とは本来、相手方に「非」がある場合に行うものであろう。単なる無知(言葉は悪いが)や勘違いに対して「抗議」という強硬手段を取ることに、私は正当性を感じない

 こうした糾弾活動は、他の社会運動にも例があるが、たいていの場合、やみくもな抗議・糾弾活動によって得られるのは、理解ではなく疎外である。うるさいから放っておけ、うかつなことを書くと抗議が来るから触れずにおけ。そういう、無意味な聖域化が行われることになる。

 たとえば部落解放同盟(以下、解同と略す)の場合、やはりかつては、かなり抗議・糾弾が行われていたらしい。それが結局は、「部落コワイ」「解同コワイ」というイメージを作ってしまうことになってしまった。現在の解同ではこの点は改められ、私の印象では、自らが抗議・糾弾という手段を採ることの「正当性」について、非常に自律的に検討している姿勢が感じられるように思う。

 それにも関わらず、ひとたび作られた「部落コワイ」のイメージは、例えばマスコミの過剰な自主規制等の形で現在も残っており、容易に消えることはない。 T's に比べて歴史的にも古く、また人数の上でもおそらくは多いであろう部落問題が、めったにマスコミに登場しない理由は、おそらくここにある。断言してもよいが、今回のような、マッチポンプ式の「抗議行動」を繰り返すならば、私達 T's も同じ結果をたどることになるであろう

 そもそも、ほとんどの T's は(特に TGTS は)、身体の性とは逆の性自認を持つ。言い換えれば、身体的性(sex)と性自認とが合っていないという点を除けば、TG や TS は、自分を男、もしくは女だと思っている点では、普通の人達と同じなのである。自分を「男と女の中間」だと思っているわけではない

 この点、TNJ の見解では、

 トランスジェンダーを「中間の性」、男でも女でもない、あるいは男
でも女でもありなどと限定的に位置付けているわけではありません。ま
た、申請に当たり、そのような表現を用いた事実はありません。もちろ
ん、そういう性自認の方も存在しますし、トランスセクシュアルである
ことを知られずに、女性、男性として生きることを望む人もいます。

(引用は TNJ のホームページから。以下同じ)

となっている。しかし、「女の子の節句」(3月3日)と、「男の子の節句」(5月5日)の中間である4月4日を「トランスジェンダーの日」とすれば、世間がトランスジェンダーを「男と女の中間」と思うのも無理はない。明言していないから責任はないというのであれば、この場合、それは単なる言い訳にすぎない。そういう理解をするな、と文句を言うのが無法な話なのである。新聞社に抗議をする前に、自分達の考えを反省すべきであろう。繰り返していうが、少なくとも私は今回の TNJ の「抗議」に何等の正当性を認めない

 また、毎日新聞には、「女の子と男の子の節句の間に位置する4月4日は、男でも女でもない私たちの日に」と書かれていたそうだが、そちらへの抗議がないのはなぜか。これでは、抗議の基準そのものが、事の始めから不明確なのではないだろうか。

 念を押して言うが、以上はあくまでも、現状を踏まえた話である。世間一般に「トランスジェンダー」なる概念がほぼ理解されたような状況になれば、これはまた話が変わってくる。そのような状況下においては、常識的に区別が可能なものを故意に混同させたと考えられるからだ。それならば、そうした混同こそが「不当」であろう。しかし、現状がそのような状況にあると認識するには、いささか性急に過ぎよう。


4.T's はフェミニズムでは救われない

 さらに掘り下げて考えてみると、このような TNJ の判断は、おそらく同会が「性差」を否定する系統のフェミニズムと接近している事とも無縁ではないと思う。上に書いた事の繰り返しになるが、大半の TGTS は、自分を「男」もしくは「女」だと思っている。「TSとTGを支える人々の会」を正式名称とする「自助グループ」が、そういう自分達の性質に無頓着な事には、正直なところあきれる思いがする。

 私は以前から、「ジェンダーに根拠がないと言うのであれば、なぜジェンダーをトランスしたいと思うのか」と指摘して来たはずである。そこを自分の頭で考える事なしに、既存の理論を安易に流用すると、今回のような事が起きる。ジェンダーレベルでの性差を無反省に否定する事は、私達 T's にとっては、自己否定以外の何ものでもない。一時期「性の越境」という言葉をよく見かけたが、私達がやっている事は、「乗り越え」ではなく、ジェンダーレベルでの性差の存在を前提とした「乗り換え」(乗り直し)なのだ。

 しかし、TNJ においては、この点については相変わらず無反省である。そのことは、TNJ の以下の見解にも表れている。

 しかし、性別の記載が強制されたり、容姿と書類の性別が一致しない
場合に、怪しんだり、からかうなど、「性別二元制」による差別を問題
提起していく上では、最もわかりやすい日であることは間違いありませ
ん。

 まず、リベラルフェミニズム等のフェミニズム思想と同様、ここでは「差別」とは何かという問いが抜け落ちていて、自分達に不都合なものにはすべて「差別」のレッテルを貼りつけるという考え方が基底に置かれている。だいたい、なぜここで「怪しむ」と「からかう」が同列に扱われるのかが、まったく理解できない

 容姿と書類の性別が一致しなければ、「怪しむ」のは当たり前である。しかも、別に性別に限った話でもない。例えば私が何かの書類に、自分の年齢を「10歳」と記入すれば、それを見た人はやはり「怪しむ」であろう。ここでは、「怪しむ」という表現が使われているが、これは要するに「疑問を持つ」という意味である。容姿と書類の性別が一致しなければ、疑問を持ち、その疑問を解明するために質問をする。当然のことではないか。それのどこが「差別」か

 それで何の疑問も持たずに無条件に通すようならば、それを通した方が「仕事」をしていないことになる。それが公務員であれば、それこそ「税金泥棒」といわれても仕方のない話であろう。それで何の支障もないのであれば、そもそもそこに人間を配置する必要がない。無人ポストでも置いておけばよいという話になる。それ以前に、その書類自体が無用なのではないか。

 そもそも、これが「差別」であるというのならば、戸籍の記載事項(性別)変更は、いったい何のためか。私の理解では、容姿と書類の性別を一致させるためのものだと思うのだが、それは無用なのか。容姿と書類の性別が一致しなくても、それは指摘する方が「差別」をしているのが問題なのだから、当事者は書類の性別の記載など気にするな。そういう話にならないだろうか。

 一方「からかう」のは、それとはまったく別の話である。容姿と書類の性別が一致しなければ「からかう」、そんな仕事があるか。容姿と書類の性別が一致しない場合に「からかう」必要性があるのか。そういう話になる。「仕事上の必要」でなければ、「からかう」には何か別の動機があるはずである。それは何か。「からかう」ことによって、相対的に相手よりも自分を高い位置に置こうとする人がいる。それならば「差別」である。しかし、「からかう」という行為には別の側面もあって、それは場合によっては、親愛の情を示すものでもある。ただし、その表現が相手に通じないこともある。表現が下手な人間は「差別者」であるといったら、その方がよほど差別的なのではないか。

 こう考えると、上に引用した TNJ の見解の中には、まったく「差別」が含まれていないというわけではないが、それにしても「差別」のレッテルを貼り付ける事に性急すぎるとしか思えないのである。そもそも、TNJ は「差別」とは何かという「差別の本質」について、考えたことがあるのだろうか、と、私などはつい「怪しんだり」してしまう。

 次に、やはり上の引用中の「『性別二元制』による差別」についてだが、はっきりいって、T's の中でそれを問題にしているのは、フェミニズムやジェンダーフリー等の思想を信奉する、ごく一握りの人達であろう。

 自分が「男」もしくは「女」であるという性自認を持つ大半の T's は、「性別二元制」に苦しんでいるのではない。つまり、男女の区別そのものに問題があるのではなく、自分が男女の区別の中に「どのように」組み入れられるか、そこに問題があるのだ

 現状では、セックス(身体的性)を基準として、それにあわせてジェンダーが割り振られる。私の理解では、一部のフェミニズムやジェンダーフリー等では、その「ジェンダーの割り振り」そのものに異議申し立てをしているように思える。しかし、大半の T's は「割り振りの基準」をセックスから性自認に改めてくれといっているのであって、必ずしも「ジェンダーの割り振り」そのものを否定しているわけではない。

 こうした TG / TS の悩みの本質を見失って、はたして自助グループとして機能できるものだろうか

 私個人は賛成しないにせよ、「ジェンダーの割り振り」そのものに異議申し立てをする思想があっても、それはそれで構わない。それはそれとして、こちらも「おかしい」と思う点をいくらでも指摘するつもりである。

 しかし、今回ここで言いたいことは、それは「トランスジェンダーの問題」ではない、という事である。それは、トランスジェンダーではない人達も大勢、むしろそれ以上の人数がフェミニズムやジェンダーフリー等を展開している事実からも判る。まさか、そういう人達がトランスジェンダー支援を主な動機として、それらの運動を展開しているわけではなかろう。したがって、「性別二元制」に反対する思想に共鳴する TG / TS が存在するからといって、それが「TG / TS の問題である」という事にはならない。それは似て非なる別問題である。

 それを混同して、自分達が信奉する思想のために TG / TS を動員するのは不当であろう。それをやりたければ、「ジェンダーフリーを支える人々の会」とでも改称するべきではないか。あるいは、そのための別団体を興せばよいのであって、上記の問題は「TG / TS のための自助グループ」の活動としては、的外れではないだろうか。


5.社会運動が陥りやすい悪弊

 実は、社会運動が陥りやすい悪弊については、この「りゅこ倫」において、きわめて初期に扱った問題である。いわば、この問題は「りゅこ倫」の原点なのだ。

 あの時点(1997年11月)で私が TNJ に初めて顔を出したときに、印象に残っている事がある。それは、TNJ の、森野代表自身が「社会運動が陥りやすい悪弊」を具体的に挙げて、そうならないように気をつけると言明したことである。そのため、その時点では、私はむしろ TNJ に対して好意的だった(正直言って、あの時は感動さえ覚えたのだ)。ところが、その直後くらいからフェミニズムに対する接近が顕著になり、イベントが盛んになる反面、「自分達が何であるか」という根本的な問題が忘れられはじめたように思う。

 「自分達は何であるか」という問いが根本的問題だというのは、それが「自分が社会を批判する事」の根拠でもあるからだ。「自分達は何であるか」が忘れられれば、「自分達は何のために社会運動をしているのか」も失われる。あるいは「自分達」から離れた社会運動になってしまう。

 例えば、TNJ の見解の中に、「なぜ、当会の運営委員で申請したのか」という一文があり、これまでにも反対意見があったにもかかわらず実行してきて功を奏したものがあるという意味のことが書かれ、続いて、

 新たな行動を起こすにあたって、すべての当事者の賛同を得ることは
不可能なことであり、またすべての当事者の賛同を得ることを必須条件
としたら、新たな行動を起こすことは、何一つできなくなることでしょ
う。今のような自助支援グループ活動の活性化もありえなかったでしょ
う。

と書かれている。ここでは、TNJ の見解のおかしな点を二つばかり挙げるとして、まずひとつは提案の内容の種類についてである。

 過去に、反対があったにもかかわらず実行することによって功を奏したものとして、自助グループの発足、公開シンポジウムの開催などが挙げられている。しかし、これらは反対意見を無視して実行しても、特にこれといった害があるわけではない。反対者は参加しなければよいからである。少なくとも、この TNJ の見解の中で挙げられている反対意見は、その種のものばかりである。

 しかし今回の、4月4日は「トランスジェンダーの日」というのは、そういうわけにはいかない。私は反対だから4月4日には参加しない、4月3日の翌日は4月5日ということにする。それは不可能である。TNJ の見解の中には、

どのような取り組みも、誰かがリスクを引き受け、責任を持って進め
ていく必要があります。批評だけでは、ものごとは前に進みません。

とあるが、この場合に「リスクを引き受け」るのは、日本全国の当事者個人であって、TNJ ではない。それとも、「今年から4月4日が正式に『オカマの日』になった、お前の日だ」とからかわれる当事者がいたら、日本中を飛び回って「抗議」するつもりなのか。「責任を持って」というのは簡単だが、責任を果たすのは難しい。そういう表現は「責任を持って」おこなって欲しいと思う。

 もう一つのおかしな点は、「すべての当事者の賛同を得ることを必須条件としたら、新たな行動を起こすことは、何一つできなくなることでしょう」という見解である。この言葉だけを見る限り、という条件ならば、これは間違いではない。

 一見まともそうに見えてもどこかおかしい話、よく見るとおかしな前提が隠れている話を、詭弁という。この場合でいうと、いったいどこから、「すべての当事者の賛同を得ることを必須条件と」するなどという前提が出て来るのか。それがおかしい。

 これを言葉通りに解釈するならば、1%しか賛成者がいなかった場合も、99%の賛成者があった場合も、「すべての当事者の賛同を得ること」が出来ないという点では同じだという話になる。こういう前提を置いたら、それは「新たな行動を起こすことは、何一つできなくなる」に決まっている。しかし、だからといって賛成者が1%か99%か、知ったことではないという話にはなるまい。

 TNJ の見解では、さらに、「多様性のある当事者から広く意見を聞くことは必要だと」考えていると断った上で、

 しかし、現状では、ほかに仕事や家庭を持つ小人数の当事者が、自分
自身の悩みを解決しようとする傍らで、生活をぎりぎりまで犠牲にしな
がら会の活動を行なっています。
 広く意見を収集して吟味するようなインターネットでの仕組み作りな
ども是非やっていきたいと考えていますが、具体的な作業を行なえる人
がいないことから、なかなか困難な状況です。こういった仕事を、責任
を持って自主的にやりとげることのできる人が、多く会の活動に参加し
て頂けることを望んでいます。

とある。これもある意味では正しい。しかしこれが、4月4日の集会まで発表がなかったこと、あるいはそれ以前の TNJ の集会において意見を求める事が出来なかったことの、説得力のある理由になるとは、私には思えない

 意地の悪い言い方をすれば、とにかく自分達で思い付いた「トランスジェンダーの日」の実現が最優先で、それが確定するまでは余計な雑音は入れさせるな、当事者の意見など問題ではない、と考えていたのではないか。そろそろ TNJ も、左翼用語で言う「前衛党」になりたくなってきたのではないか、と勘ぐる気持ちが生じてしまう。TNJ の見解をどう読んでも、言い訳にしか見えないのである。


6.自助グループの問題点

 しかし、問題はそれを許す土壌にもある。これは他の自助グループでも感じた事だが、参加者に、一種の依存体質の人が多いように感じるのである。

 そこで、自助グループの集会を、「擁護システム」という観点から見てみると、おそらくこういう事になる。まず、(この文章も同じなのであまり人の事は言えないのだが ^^;)、集会において専門用語が多すぎる。そのため、自助グループに初参加で、それまでここのようなホームページ等も見ていない、予備知識のない人には、まず集会で何が言われているのかが判らない。これは、非 T's の人と連れ立って行った場合にはいっそう顕著である。話を聞きに来たのか、用語の説明をしに来たのか判らなくなる。もっとも、私も初めて TNJ の集会に参加した時(1997年11月)は、質問する側だった。

 私が、非 T's の人達と一緒に参加したのは TSG の集会だったのだが、その時は幸いにも、有料で配布されていたミニコミ誌(?)に「用語集」のページがあって、それである程度の用が足りた。専門用語をまったく使わない集会が不可能である以上、自助グループで B4 サイズくらいの用紙で簡便な用語集を作って、初参加の人や非T's の人だけにでも、他の資料と一緒に配布してはどうかと思う。

 これはおそらく、当事者が家族等を連れて行く場合にも助けになるはずである。先月の「第1回 GID 研究会」でも、私の前に座っていた中年女性二人が、講演の内容が理解できずに往生していた。反対の例としては、昨年の2月に新宿の紀伊国屋ホールで行われた「異性装」についてのシンポジウムがある。この時の演者の中に、三橋順子さんがいて、あらかじめ彼女の話についてのレジュメが配布されていた。その中に、やはり簡単な用語集があり、他の演者の話を聞く際にもそれを見ていた人が多かったのを覚えている。

 専門用語が多いという事の問題は、理解しにくいという事だけにあるのではない。専門用語や、ある種の理論を既知のものとして扱ってしまうと、そこには好むと好まざると、「知」を基準とした序列のようなものが出来る。それによって、「知らない者」が「知る者」に対して権威を感じてしまうのである。

 もっとも集会の性格上、「知る者」と「知らない者」が存在する事はやむを得ない。「知らない者」は「知る者」になるために来ている。それも、りっぱな参加の動機だからである。ただし、「知る者」が「知る者」である事を利用して権威たろうとするような言動があってはならない。「知らない者」は黙って言う事を聞いて「知る者」のコピーになれ、というようになったら、これは問題だろう。

 この場合、専門用語を知っているかどうかは、あまり問題にならない。言葉の意味が判りさえすればよいからで、これは上記のような用語集一つで、かなり解決可能だろうと思う。しかし、理論の方はそうはいかない。理論は、往々にして「積み重ね」で構築されるため、用語ほどには簡単に理解できないからである。

 それを解決するためには、「誰もが疑いえないこと」から出発して論を組み立てて行く、という、理論についての基本的なルールが必要である。そうでなければ、「押し付け」ではなしに納得できる話にはならない。反対に、これが証明不可能な前提(フィクション)から出発する、あるいはマルクス主義やフェミニズムのように、「私達の言う事が『真実』で、それが理解できないのは愚かな人間である」というような言い方になれば、思想として不健全だといってよいだろう。これは結局「証明できないけれども、これは真実なんだ」という事しか言っていないわけで、それならば「宗教」と変わらない。「この考え方が判らないのは、あなたが遅れた思想にとらえられているからだ」と言われてしまうと、たいていの人は「王様は裸だ」といえなくなる。つまり、擁護システムの完成である。

 上に書いた、TNJ の現状が、これにかなり近いのではないかという危惧がある。今回のような事が起きても、集会で異を唱える人がいなくなったら、お終いだろう。

 なんとなくおかしいとは思うけれども、有効な反論の言葉が思い浮かばないために異を唱える事が出来ない。あるいは異を唱えても議論に負けてしまう。そのために、沈黙しているという事が、今の世の中では意外に多いのではないか。

 だから私は、このホームページに自分が書いた事についても、「鵜呑みにせずに疑え、考えろ」と繰り返し書く。これは一種の「技術」だから、日頃から考える習慣を付けておかなければ、いざという時に出来るはずがない。私が書くものに対して、最も疑ってかかっているのは、おそらく私自身であろう。まして権威にされるなど、まっぴらゴメンである。私はそういう器ではない。私より頭のよい人はたくさんいるはずである。実は、ほとんどの人がそうなのではないか。いるのは判っている、早く出てこい、私を楽にしろ(笑)。赤点の並んだ高校時代の通知表を思い出しながら、いつもそう思う。

 この問題にしても、今回、ここで TNJ の見解のすべてをフォローできたわけではない。だから、出来れば TNJ の見解も見た上で(ここの内容と見比べて)、本当に私がここに書いた通りかどうか、皆さん各自で考えてみて欲しいと思う(→ TNJ の見解を参照)。

 ただ、実際問題として、誰もがいろいろな問題について深く考える事が出来るわけではない。だから、考える専門家みたいな人がいるのはいい。しかしそれは今回の「トランスジェンダーの日」のように、自分(達)の考えを勝手に実施してしまってから「事後報告だが、了承して頂ける方は拍手を」というような話では有りえない。勝手に「決定事項」にまでしてしまうのは、独裁というものである。「多様性のある当事者から広く意見を聞くことは必要だと」判っていて、なおそれをやったというのなら、確信犯である。

 私がここで言う「考える専門家」とは、「こういう考え方が出来るが、どう思うか」という提示をする人である。それなら他の人達は、すべてを自分で考えることは出来なくても、提示された考え方に疑問を示したり、いくつかある考え方の中から「これがよさそうだ」と選ぶ事が出来るだろう。また、そういう機会、そういう余地をなくしてはならないと思う。

 基本は、一人ひとりが、自分の問題について自分で考える事である。それは、他人の考えを無批判に聞いて頭の中に入れる事とはまったく別で、このことは自助グループに参加したところで、何ら変わるわけではない。

 自助グループを運営する者も、自助グループに参加する者も、この基本を忘れてはならないと思う。

 もし、TNJ の代表もしくは運営委員にして、反論・抗議等があれば、公開を前提にメールで受け付けるので、遠慮なく送ってきて欲しい。WEB のこととて、改行位置その他のレイアウト等についてはやむをえないが、字句に関しては改変することなく掲載させて頂く。密室外交はお断りする。

 なお、TNJ の集会等の告知については、私は TNJ の存在自体を否定しているわけではないので、今後も従来通り掲載するつもりである。これまで通り、遠慮なくお送りいただきたい。

L.Jin-na


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