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■■1999年04月16日■■「オカマ」は差別語か!?
「オカマ」という言葉は、差別語らしい。かなりの割合の T's がそう主張する。これが以前から釈然としない。もう10年以上前の話だが、新宿二丁目のあるゲイバー(ニューハーフバー)のママが、こう言った事がある。
「なにがニューハーフよ、オカマはオカマよねぇ」
念のために書いておくと、私の友人の中には、現在この「ニューハーフ」という言葉に誇りを持っている人もいて、私もこの言葉を否定するつもりはまったくない。六本木や歌舞伎町ではどうだったか知らないが、二丁目ではまだ「ニューハーフ」が新語の部類だった。これは、その当時の話である。第一、このママさんも今では当たり前に「ニューハーフ」という言葉を使うようになっている。
ところで、ここで紹介したいのは、このママさんの別の言葉である。
「アンタね、オカマは笑われてナンボなのョ」
「オカマ」を差別語だと思う人には、この言葉は自嘲としか取れないのではないか。「オカマ」を差別語だと思わなかった私でさえ、実を言えば当時はそういう印象が強かった。
しかしこのセリフが出たのは、いわば営業指導の場面である。ただし、私はそのお店の従業員ではなかった(開店記念パーティーなどの時にお手伝いに行った事はあるが、その後もついに、そこの従業員になる事はなかった)。ただ、何かと親身になってくれて、当時はまだ「素人」だった私を、ほとんど身内同然の扱いをしてくれた。そんな中で教えられた「営業心得」である。ただし、この言葉の真価が理解できるまでに、私はその後数年を要した。
これは「覚悟」の言葉なのである。単にお店でのふるまい方というだけの話ではない。業界でやってゆくには「肚をくくる」必要がある。それが本当に理解できたのは、やはり実務の中での話であって、この言葉によるものではない。ただ別の店での仕事中に、ふと「アンタね、オカマは笑われてナンボなのョ」という言葉が頭の中によみがえって、「そうか、この事だったんだ!」と体感できる経験があった。
ただし、その体験が何であったかは、具体的には書きたくない。また書いても仕方がない。この「覚悟」を必要とする人は、それぞれ「自分の仕事」の中からそれを見つけ出さなくては、「自分の覚悟」にならないと思う。また、この「覚悟」を必要としない人には、そもそも説明しても伝わらない。だから、それはここでの問題ではない。
ここでいう「覚悟」とは、つらい事も含めて自分の選んだ道を自分で引き受けて行こうという、決意でもある。自分が選んだ道に対しても、またその道を選んだ自分に対しても誇りを持つ事、でもある。
ママさんは、これらの覚悟や決意や誇りを、「オカマ」の一語に込めていた。今ならそれが判る。
それゆえ、「オカマ」という言葉を、文脈を無視して差別語扱いされると肚が立つ。「オカマ」という言葉に苦しんだ人もいる。それは判る。だからといって、「オカマ」という言葉を無条件に言葉狩りの標的にしてもよいという法があるか。私の肚立ちは、そこにある。
ただし、ここで使っている「オカマ」は今で言うニューハーフの意味である。だから、そういう職に就いていない大半の T's が、「私はオカマではない」というのはまったくその通りで、文句の付けようがない。それ以前に、この場合には文句を言うつもりもない。調理師が「私は整備工ではない」というのと同じ事である。これを怒るのは、不当であろう。
しかし、この場合に「私は整備工なんかではない」といったら、それを聞いた整備工は不快に思うだろう。それと同じように、「私はオカマなんかではない」とか、「オカマは差別語だ」といわれると、私は、あの業界で生きる彼女たちの、多くの先達や朋友の覚悟、決意、誇りを踏みにじられたような気がして、つい肚を立ててしまうのである。
特にそれが、これといった覚悟もなさそうで、愚痴ばかりこぼしている者だと、ハリ倒してやろうかと思う事さえある。ただし、幸か不幸かまだ実行したことがない。ただ、エゴイズムを「誇り」と勘違いしている者には、この言葉の本当の意味は一生かかっても思い当たる事はないだろうと思う。
それは、そういう世界にいた者だけの事情だ。そういう反論もありそうである。それは、その通りである。もっともな指摘だと思う。しかしそれならば、「オカマ」という言葉に苦しんだ人もいる、というのも、やはりそういう人達だけの事情である。それとどう違うのか。
お互いに、このことを考えないと反目し合うことになる。そこから相互差別が発生する。いや、既に発生している。ただ、差別の内容が異なる。片方は、世間一般にもある水商売に対する差別感と結びついている。つまり、職業差別である。もう片方の、ニューハーフの側からの差別は、覚悟のない者、腹を括れない者への差別である。もちろん、いずれの側にしても、その全員がこのような相互差別に参加しているわけではない。
どちらかといえば、私が理解できるのは、ニューハーフ側である。ただし、覚悟のない者、腹を括れない者というのは、あくまでも個人に対する評価であって、「非ニューハーフの T's」というカテゴリーに対してそういう評価を結び付けるつもりはない。ごくまれにだが、ニューハーフの中にも、覚悟のない者、腹を括れない者がいる。そういう「個人」を見ると、「アンタはお水に向いてないから、さっさとアシ洗いなさい」といいたくなる。業界の厳しさ、難しさを知っていれば、水商売を差別するどころではない。
ただし、そういうところから逆にエリート意識が出る事がある。個人に向けるべき評価が、あるカテゴリーに向けてなされる場合、つまり「非ニューハーフの T's」イコール「覚悟のない者、腹を括れない者」という見方をするニューハーフがいたら、おそらくはそういう類いのエリート意識の持ち主である可能性が高い。
厳しい、難しい代わりに、居心地がよいのもニューハーフの世界の特徴である。ただし、これは当然、覚悟のない者、腹を括れない者は除かれる。反対に、覚悟のある者、腹の据わった者は、お互いに認め合う習慣があるように思える。時に、ニューハーフでなくとも、この条件にさえ合っていれば認められる。ニューハーフと、非ニューハーフの T's との間のパイプ役になれるとしたら、そういう人物であろう。
私は個人的にも、覚悟のある者、腹の据わった者が好きである。だから、ニューハーフの人物評は、わりと信用する。彼女たちを見ると、私はつい、故・隆慶一郎の小説(とりあえず、「一夢庵風流記」(新潮文庫)をお勧めする)に出てくる漂白の民「無縁」を連想してしまう。今はそれほどでもないが、以前はニューハーフになった事で、本当に家族と縁が切れてしまう例も決して珍しくなかった。そうなれば、自分の才覚で生きて行くより他ない。「やりたい事をする自由」が「野垂れ死ぬ自由」と表裏一体であることに、今も昔も代わりはない。そういう環境に置かれれば、たいていの人間は覚悟のある者、腹の据わった者になる。ならざるを得ない。それが出来なければ、脱落するしかない。
ただ、私個人の事をいえば、「無縁」になる前に「いくさ人」になってしまった。これも、覚悟のある者、腹の据わった者にはなるが、ニューハーフに転向しようとしてついにはどこか馴染みきれない部分を感じ、ニューハーフの世界から転落してしまった。ただ、ニューハーフであれ、非ニューハーフの T's であれ、覚悟のある者、腹の据わった者に対する情(じょう)だけは涸れない。だから私の情は基本的に、「T's 全体」というようなカテゴリーではなく、個人に向くのである。
「アンタね、オカマは笑われてナンボなのョ」
私は、この誇り高い覚悟の表明を、生涯忘れないだろう。
