りゅこ倫

■■1999年06月21日■■

知行合一

 もう一ヶ月近く前の事になるが、自助グループその他の場において、「当事者の方々にもう少し主体性をもった認識・議論・活動をしていただきたい」という意見を見かけ、本当にその通りだなと思ったことがある。

 当事者というのは何の「当事者」なのかというと、ここでは GID の当事者を指す。もしかしたら、ここを読んでいる方の中には脳死問題の当事者の方もいらっしゃるかも知れないが、その問題はここでは扱っていない。それはさておき、「GID の当事者」というのは、GID に関わる問題を抱える本人の事である。つまり「主体」である。「主体性を持たない主体」とは何か。私の考えでは、それは一言でいえば「甘え」であろう。

 問題の解決は、基本的には問題を抱える本人の「自力救済」によって成し遂げられるべきである。「自力救済」が基本なのだが、しかしそれだけでは足りない場合もある。そういう時に、他者の助けを借りるという事はあってもよい。それを認めないと、弱肉強食の世界になってしまう。ゆえに、助け合いを目的として出来た集団を「自助グループ」という。しかしそれは、本人が自分の問題をなんとかしようとしている、それに対しての支援である。本人が何もする気がないものを支援することは出来ない・・・はずである。

 逆に言うと、支援というのは求められたときにするものである。自分から見て、「なんか、あの人かわいそうだ」といって勝手にやるのはおかしい。それは安っぽいヒューマニズムの押し付けであって、いわゆる「人権屋」と変わらない。それは、ここでいう自助とか支援の枠をハミ出した別ものであろう。

 そうじゃないと、まず根本的に「自由」というものがなくなってしまう。本人が「これでよい」と思っていても、他人から見て「かわいそうだ」と思ったら干渉してもよいという事になるから、これはおかしい。自分の問題を自分で解決するという事は、自分のことを自分で決めるということだから、これも「自由」の行使であって、他人が勝手な思惑で干渉する権利を持たない。これが「自由」というものの原則であろう。

 したがって、問題を抱える当事者が、それをどうにかしようという「行動の意志」を持たなければ、話にならない。とはいえ、行動しない事も本人自由ではある。ただし、その結果が本人にとって不利なものであるとしても、それは当然、本人が負うべきものである。「自由」と「責任」は常に表裏一体だからだ。

 だから、人権屋体質の人と、問題は抱えているんだけど自分で何もしなくても誰かが何とかしてくれると思っているような人達がいるとしたら、それは「甘やかし」と「甘え」のもたれ合いでしかない。私がこれを「もたれ合い」だというのは、これが一方的な依存関係ではなく、人権屋体質の人は、それをすることで自己のアイデンティティを保てるという利得があるからである。

 しかし、人権屋体質の人は血眼で「かわいそうな人」を探すし、問題を抱えているけど自分では何もしなくて「誰かなんとかしてくれないかな」と思っている人は「迷える子羊」になって寄り集まる、という事が現実にある。ニーチェの言葉でいう「畜群」であろう。そこから何が出てくるかというと、人権屋体質の「前衛党体質」とか、「主体性をもった認識・議論・活動」をしない当事者である。それを続けていると、「問題」が当事者から出て来なくて、それは常に「前衛党」側から「現在の私達の問題はこれこれである」と提示されるようになる。この時点で当事者の「個」が消えて、話がひっくり返っている。ここで「支援という名の主導」が生まれ、前衛党が前衛党として確立される。

 もちろん、当事者のすべてがそうだというのではない。他のサイトの掲示板で議論に参加していると、「自助とは何か」ということをきちんと踏まえ、「自力救済」の原則を押さえている人の存在も確認できる。そういう時は、安心したり、それだけで元気づけられたりする。ニーチェ『ツァラトゥストラ』の巻頭に、「万人にあたえる書、何びとにもあたえぬ書」と書いたが、私は、「万人にあたえる書、少数者にしかあたえぬ書」くらいのことは言えそうだと思う。

 もちろん私は、人権屋体質の人のために何か考えようとは、ぜんぜん思っていない。私が気にしているのは「迷える子羊」のほうである。「アンタら、ホントにそれでいいの!?」と聞いてみたい。それでいいんだという人は、それはそれで本人の自由であるから、人権屋ともども一緒に放っておく。ただし、その結果がどう悪いほうに転んでもオトシマエは自分でつけろよ、人サマのせいにするんじゃないゾ・・・という条件付きである。「自由」というのは、そういう怖さを常に伴う。好きなことを無責任にやっていいというのは、単なる「好き勝手」で、それは「自由」とは別ものであろう。

 羊の群れの中の単なる一頭としてではなく、一人の人間として「自分の問題」に向き合いたいと思うのならば、「要するに君が今かかえている問題は何だ? 君の『欲望』は何なのだ?」という話になる。次に考えることは、その人がそのために何をなすべきか、であり、「あなたがなすべき事をしなさい」という話になる。この事自体は、決して難しい話ではない。お腹が空いたのなら、食事をしなさい、というのと同じ事である。

 ではなぜ、空腹が GID に置き換わると、「羊飼いに追い立てられる羊」になってしまう人がいるのか。善意に解釈すれば、どうすればよいのか判らないからだろう。また実際にそういう人もいるに違いないと思う。そういう時は、先達に尋ねればよい。あるいはお互いに情報交換をすればよい。だが、本当に大切なのは、その上で「自分でやってみること」である。

 その時点では、上手く行くかどうかの保証はない。しかしその場合は、「どこがまずかったのだろう」と考えたり、その点を具体的に他者に質問したり出来るようになっているはずである。それはそれで具体的な一歩を踏み出している事になる。知識が増えるだけではどうにもならない

 時々、「行動力のある人がうらやましい。私はいまだに何もできない」という人がいるが、はっきりいうが、それは「知る気」と「やる気」がないだけで、けっして能力の問題ではない。お腹が空いたら「食べる」。ただそれだけの事である。お腹が空いたときに、餅を目の前にして、これは美味しいのだろうか、これを食べてノドに引っかけたりしないだろうかと考え、空腹に耐えながら食べることを躊躇しているようなものである。そういう人を見ても、この人はちょっと小腹が空いているだけで、差し迫った問題としての「飢餓」に悩んでいるわけではないのだ、としか思えない。その気になるまで放って置け。そういう話になる。本人に食べる気がないものを無理に口に押し込むような真似は、私には出来ないし、またやりたくもない。

 それから、「知識」ということについてだが、知識を単なる情報として仕入れるだけでは、なかなか決心がつかない、ということがある。ここでいう「情報」とは「伝聞情報」を意味する。現象学の考え方でいうと、「具体的経験の世界」から得た知識と「伝聞・情報の世界」から得た知識は別ものであり、ここでいう「情報」はもちろん後者を意味する。

 「情報」としての知識を「確かなこと」として信じられるのは、自分が信用する人物等からの「情報」か、もしくは多数の人間が異口同音に発する場合である。しかし、これは同じ条件によって、それとはまったく矛盾する別の「情報」に置き換えることが容易である。要するに「絵に描いた餅」のようなものである。確かな知識を得る手っ取り早い方法は、自分で体験してみる事である。それによって得た知識は、自分の知覚を信用している限り、「確かな知識」として定着できる。陽明学では「知行合一」といって、これをとても重要視する。「なるほど、餅だ」と判ったら、あとは食べてみるしかない。

 私が自分で、「神名の書いたものを鵜呑みにするな、疑え」というのも、基本的にはそのためである。同じ内容でも、「情報」としてそのまま鵜呑みにするのと、各人が自分の経験に照らし、検証して納得する(しない)のとでは、まったく意味が異なるからである。残念ながら、ネットワーク上では「経験」を届けることは出来ず、ただ「情報」を発信することしか出来ない。だから、その「情報」の確かめ直しは、皆さんに各自でやっていただくより他にないのだ。私は、確かめ直しもせずに私の言葉を鵜呑みにする「信者(子羊)」を欲っしない(それは、私の言葉が届いていない人である)。

 憂うるべき状況もあるわけだが、しかしそのおかげで、考え様によっては現代ほど自己実現が簡単な時代もないかも知れない。自分の頭で考え、自分の足で歩くだけで、充分に魅力的な生き方に見えるだろう。立っているより、歩いてみることだ。

L.Jin-na


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