りゅこ倫

■■1999年06月27日■■

自分の「可能性」

 今月25日、昨年秋の FTM の手術に続いて、医療として日本初の MTFSRS が埼玉医大で行われた。FTM の場合には2回の手術を要するが、昨秋 SRS を受けた FTM の方はまだその2回目の手術を受けていないので、SRS の終了としては今回の手術が第一例目となる。

 今回ちょっと気になったのは、他のサイトで、何人かの MTFTS の方達が、それぞれ自分自身に対して出遅れたとか情けないといったような感想を表明していることである。もちろん今回 SRS を受けた方に対して妬んでいるなどの悪感情を持っているわけではなくて、あくまでもそれぞれご自分に対しての感情なのだが、それが少し気になる。正確に言うと、その自分に対する、出遅れたとか情けないという感情を、どう乗り越えるのかという話を、誰一人として書いていないことが気になるのである。

 自分にとって悪いことは社会のせいだとか自分を取り巻く環境のせいだというような話になるのに、なぜよいことに対してはそういう評価が出てこないのだろう。MTF の一例目の手術が実施されたという事は、自分が手術を受けられる可能性もあがった、つまり社会なり環境なりが整いつつあるという側面を含んでいるはずである。今回手術を受けられた方にとってはもちろん、他の TS の方にとっても朗報であるはずなのだが、そういう面に対する評価というのは、あまり出てこない。手術を受けられた方への祝福と、「それに比べて」という自分自身に対する失望感ばかりが目立つ気がする(もちろん、そんな人ばかりではないが)。

 そういう意味では、今回の SRS が「他人事」になってしまっている。もちろん私は、「他人の事でも自分のことのように喜ぶべきだ」などと安易なヒューマニズムを解きたいのではない。

 「『どう解く』の系譜」でも、ハイデガーのところで触れたが、人間誰しも、「私」とは私が生きる世界(社会)の中での、私のさまざまな可能性の総体であるという事が出来る。「私」の可能性は「私」が生きる世界(社会)によって方向づけられるが、しかし、それを「制約」と考えてはならない。

 これを「制約」と考えるのは、自分が本来もっと様々な可能性を持っているはずだという前提に立って考えるからで、だからこそ、その「自分が持つ様々な可能性」を社会が制約していると考えるのだろう。しかし、それは話が逆である。あらゆる「自分の可能性」とは、自分がある世界(社会)の中に存在していることによって初めてありえるものなのだ。自分が望むある可能性が閉ざされていることを他者のせいにし、実現の見込みがあると思われる可能性は自分の力によるものだと思うのであれば、それは誤りである。「実現の見込みがあると思われる可能性」もまた自分が社会の中に存在する事で初めて成立しているのだということを忘れてはならないと思う。

 私はこういう時、いつも「戦場」をイメージする。戦場には様々な地形があり、相手の布陣の仕方もそのつど異なるだろう。それらの状況はすべて自分に与えられた条件(与件)である。自分がどのように戦いを展開して行くか、つまり自分の可能性は、当然その与件によって制約を受ける。しかし、その戦闘に勝利する事が出来るのも、また与件が与える可能性の範囲においてであり、状況を無視した勝利は有り得ない。

 ここに山があるのがいけないとか、ここに川があればよいのに、あるいは敵が高所に布陣しているのが悪いというのは、すべて愚痴である。自分に「自由」がない、「制約」を受けていると感じるのは、このような場面であろう。自分にとって都合の悪い状況を無視して無謀な戦闘を仕掛け、敗北するのは自分が悪いのである。敵軍に責任があるわけでも、地形に責任があるわけでもない。

 与件の範囲内において、自分に出来る事、自分がやるべき事をする以外には、自分の可能性を実現する方法はない。とはいえ、時にはたいした努力もなしに幸運を得ることは確かにある。しかし、幸運をアテにして努力を怠るのは、単なる運任せの人生でしかない。そういう生き方を選ぶのは自由だが、その場合もまた、自分が選んだ生き方についての責任は当然、本人が負うべきものである。

 戦争には、ある種の思想が失ったリアリズムが残っている。私はそのリアリズムが好きで、よく参考にしている。戦争においてリアリズムを失うとどうなるかは、日本でいえば日露戦争における旅順攻略や、大東亜戦争などに好例がある。リアリズムを失うことによって失敗するのも、また戦争の話に限らない。

 個人の場合に軍隊と異なるのは、将軍、参謀から一兵卒に至るまで、原則としてすべての役目を自分1人でこなさなければならない事である。言い換えれば、複数の異なる資質が必要である。また冷静さを保つためには、時には自分の置かれた状況を第三者の目から見ることも必要で、これは観戦武官の役目である。特に自分が不利な状況に置かれたときなどは、人間は視野狭窄に陥りやすいから、注意が必要だ。最初の話で言うと、今回の SRS の実施に関して比較的に TG から冷静な意見が出されるのは、資質の問題よりも、TG が手術に関しては当事者ではない事が大きいのではないかと思う。他の問題についてなら、立場が逆転することも充分に有り得るのである。

 話を戻そう。自分が自分の可能性を追求する場合には、自分が置かれた状況を見る必要がある。人間が「ありつつ、あろうとする」実存的な存在であるいう、この「あろうとする」自分は、決して現在の自分だけからは出てこない。それは、自分の与えられた条件を取り込むことによって成立する「自分」だからである。同様に、現在の「自分」もまた過去にそのようにして成立したはずである。そういう意味では、世界は一つの連続した関係であり、どのような人間であろうとも、誰一人として自分が置かれた状況から独立した存在としての人間はいない。人間同士だけではなく、人間とモノの関係も同じである。

 しかし、これを制約もしくは束縛と感じてはならない。少なくとも、自分と世界(社会)との関係を一義的に「制約」(束縛)としか見ないのは誤りである。現在は、そういう前提の上に成立している思想も多いが、それは自分が持つ可能性が何によってもたらされたのかについて考えない思想である。自分と自分に可能性をもたらす世界(社会)との関係を一義的に制約・束縛と決め付けて否定すれば、それは同時に、自分自身の可能性の根拠をも否定する事にもなる。多くの現代思想に対して具体的な展望が望めないのはそのためだろう。

 私の考えでは、昨秋にせよ今月にせよ、ある個人が SRS を受けたのは、単にその人だけに新たな可能性が開けたという話ではない。それは他の TS が手術を受けられる可能性が、さらに大きくなったことを意味するのだ。実例が積み重なれば積み重なるほど、その可能性は大きく強固なものになる。したがって、これは TS であれば自分自身にとっても朗報として受け取られるべきであろう。

 愚痴を言いあったり慰め合うことに、今現在、どれだけの意味があるだろうか。今、本当に大切なことは、自分自身に対する「出遅れた」とか「情けない」という感情をどう乗り越えるのかを考え、お互いに元気を与え合うことなのではないだろうか。

L.Jin-na


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