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■■1999年07月01日■■真に「差別」を乗り越えるために
先日、ある方から、「ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ」(灘本昌久著・径書房)という本を勧められ(正確には、存在を教えられ、かな?)、さっそく2日がかりで読んでみた。
「ちびくろサンボ」が日本で一斉に絶版になって、もう10年が過ぎたのかというのが最初の印象だった。ということは、子供の頃に「ちびくろサンボ」を読んだ経験があるのは、おおよそ高校生以上という事になる。今の子供たちはもちろん、中学生にもその経験がないはずだという事に気がついて愕然とした。それくらい、「ちびくろサンボ」は私達の世代にとってはごく当たり前の「共通経験」だったはずだ(ちなみに、右のカバーイラストは、「ちびくろサンボ」の作者、ヘレン・バナーマンが描いたものである)。
この本では、アメリカでの調査も踏まえて、十分な議論を経ずに葬り去られた「ちびくろサンボ」を再検討し、差別表現をどう考えれば、現代における差別問題の改善につながるのかを探っている。けっして、単に「『ちびくろサンボ』は差別的な作品なんかじゃないやい」といっているだけの本では、ない。
タイトルの通り、主題は「ちびくろサンボ」をめぐる問題なのだが、この手の本では当然、「差別とは何か」という根本的問題を避けて通ることはできない。同書ではその点についても非常によく検討され、問題の核心を突く考察がなされている。
私は以前から、いわゆる「差別語狩り」への疑問や、「対抗主義になるな」というメッセージを発して来たが、それとまったく同様の問題が、本書では特に最終章である第5章『反差別の思想 [被差別の痛み論批判] 』において取り上げられている。ここは、童話の絵本の問題としてのみならず、差別問題に関して他人事ではない私達 T's は、特に自分達の問題に引き付けて読む必要があるだろう。
この第5章では黒人差別(を含めた人種差別)だけでなく、日本においての部落問題や在日朝鮮・韓国人についても判りやすく、簡潔に書かれている。特に部落問題について多く書かれているのは、著者がその方面の研究を重ねてこられたためだと思われる。
「差別されたものの『痛み』を考えろ」とか、「しょせん差別されたことのないヤツに『痛み』は理解出来ない」というような言い方は以前からある。私が今年の4月に、この「りゅこ倫」で「『オカマ』は差別語か!?」という文を書いたところ、やはり他のサイトにおいて、この「痛み」を持ち出して反論された事がある。
しかし、はっきりいうが、その「痛み」の原因は「言葉」ではなく、「痛み」を感じる人の中にある。
もし、カナヅチで思いっきり殴られたのであれば、これは誰でも痛い。だから、わざわざ言わなくても、「カナヅチで人を思いっきり殴ってはいけない」というルールが暗黙の内に共有されている。それが私達の住む、この社会である。
しかし、指先で突ついただけでは(目でも突けば別だが ^^;)、同じように誰もが痛がるということはない。もし、指先で突ついただけで痛がる人がいるとしたら、その部分に腫瘍でも出来ているのだろう。むろん、その場合には「そこには腫瘍があるから触れないでくれ」ということは出来る。触れなければ痛くない。それはそれで結構な事である。では本人は、その腫瘍をどうするつもりなのか。出会う人ごとに、「そこには腫瘍があるから触れないでくれ」と「触れ回る」のだろうか。そうすれば、いずれ誰もがその人に対して、文字通り「腫れ物」を扱うような態度を取ることになるだろう。それが望みか? その人にとって本当に必要なことは、腫瘍の治療ではないのだろうか。
ある言葉、例えば MTF なら、「オカマ」という言葉に「痛み」を感じる人は確かに多い。それはおそらく、「痛み」を感じる各人が過去において、「オカマ」という言葉に関連して悲惨な思い出を持つためである。ならば、上にいう「腫瘍」の原因は、そもそも自分(本人)にあるわけではなく、要するに社会が悪い。そう考えると「対抗主義」(告発糾弾型運動)になる。では、それによって「腫瘍が治った」という人がいるか、といえば、私の知る限りでは皆無である。したがって「対抗主義」の立場を取り続ける限り、「痛み」の原因を後生大事に抱え続けることになるし、そうなれば社会に対して恨み言をいい続ける以外、人生を送る途はなくなるのである。
この「腫れ物」について、もう少し詳しく見てみることにしよう。この「腫れ物」の正体は、コンプレックスである。コンプレックスとは、本人に自覚されない劣等感のことをいう。例えば TV であれば自分の女装癖を、TS であれば自分の性自認を、私達はなかなか他者に打ち明けることが出来ないでいる。なぜか。打ち明ければ自分がどのような目で見られるかを、その人が既に知っているからである。つまり、自分のような存在を「変なやつ」と見る価値観を、自分自身も共有しているのである。だからこそ、T's の概念を知る以前には、私達は自分が「変なやつ」であることに人知れず悩んだりもするのだ。
その事に自覚的にならない限り、T's を「変なやつ」と見る他人を非難しても、決して自分の心が穏やかになることはない。なぜなら、自分もまた心のどこかで自分自身を「変なやつ」だと見ている張本人だからである。他者への差別や無理解に対する批判の内、かなりの部分は、実はこうした自分自身の心の働きを、他者に投影することから起きている。私の考えでは、内部差別、つまり TV / TG / TS 間の差別や、水商売を経験したことのない T's のニューハーフに対する差別なども、同じ原因から起きている。
昨年から何度も書いて来たが、「差別」とは、アイデンティティ補償のために、他者を不当に貶めることで相対的に自分を高めようとする行為である。アイデンティティ補償を必要とするということは、つまり自分に対して自信が持てないという事であって、内部差別が起きるというのは、このこと以外には原因が考えられない。もっと言ってしまえば、往々にして「差別語狩り」は「反差別という名の差別」であり、相手に対して「差別主義者」というレッテルを貼りつける事でアイデンティティ補償をしているのである。むろん、このような手段によるアイデンティティ補償は一時的なものに過ぎず、自分自身がコンプレックスを秘め続けている限り、この「反差別という名の差別」がやむことは有り得ない。
念のためにいっておくが、私は「コンプレックスを持っている人間は劣っている」という意味のことを言いたいのではない。そうではなくて、自分がコンプレックスを抱え続けていることに気がつかずにいると、あるいはその事実から目をそらし続けていると、いつまで経っても自分自身が楽になれない、苦しみ続けなければならないといっているのである。
本当に「差別」による苦しみから脱したいのであれば、糾弾・告発よりも、まず自分の腹を割いて「腫瘍」を取り出す必要がある。ただし、本当に腹を割くと痛い上に、血が出るのでやめて欲しい。これはあくまでも比喩である。自分自身が内側に持っている、「自分という存在を見下す価値観」(コンプレックス)。それをはっきりと自覚する必要がある。この場合、血は出ないが、精神的にはかなりの痛みを伴うだろう。精神的な痛みには麻酔も効かない。しかし、なるほど自分は今まで、こういうコンプレックスを抱えていたのかということが了解できた人は、その後の人生がかなり楽なものになるはずである。
この問題については、いずれ「ジェンダー素描」でも取り上げ、具体的に掘り下げてみたいと思う。
