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■■1999年07月20日■■続・真に「差別」を乗り越えるために
前回「真に『差別』を乗り越えるために」を書いたところ、やはり反論があった。「オカマ」と言う言葉は、「指先」ではなく「ナイフ」であろうという意見である。むろんこれが「その人にとって、ナイフと同様に痛みを与える言葉である」というという趣旨であるならば、私にはそれを否定する権利はない。しかし、「指先と腫瘍」の比喩に対して持ち出された以上、これは「腫瘍」の有無に関わらず誰でも傷付けるもの、誰に対してであれ普遍的に痛みを与える言葉という意味で主張されているとしか思えない。
しかしながら、いわば「差別語」それ自体というような言葉は存在しないし、そういう言葉は理念上においてのみ想定可能な概念に過ぎない。なぜなら、言葉というものはそれが使われる状況や文脈に依存して「意味」を生じるものだからである。そういった文脈や状況、相手を問わず、「言葉」それ自体に差別される「痛み」を与える機能があると考えたら、それは「言霊」や「呪術」などのオカルト思想(^^;)になってしまう。第一それでは、「差別されたことのない者に、この『痛み』が判るか」という言い回しも成立しない。
したがって、「差別語」とは本来、ある状況や文脈の中で差別的機能を果たした言葉を、その場面においての「差別語」と呼ぶのであって、「ナイフ」のように、あらゆる人間に対し普遍性をもって「痛み」をもたらす言葉というのは、現実には存在しない。
それから、その反論では差別と侮蔑が混同されているのが気になる点である。私も、差別がしばしば侮蔑の形で行われるのは確かだと思うのだが、「差別」やそれによる「痛み」と、その他の「侮蔑」およびそれによる「不快」や「怒り」を混同してはならないと思う。これをやると、そもそも「差別とは何か」という前提がなくなってしまい、いたずらに「あれも差別、これも差別」というレッテル貼りに終始するようになる。
「オカマ」という語は現在、大方において侮蔑的表現、より具体的に言えば、肉体的に男性として生まれながら、言動や容姿が男らしくない人に対する侮蔑表現として使われる事が多い。これは事実である。ただし、私が前回「真に『差別』を乗り越えるために」で扱ったのはあくまでも「差別」とそれによる「痛み」を乗り越えるための話であるから、人を罵倒することの是非については、ここでは措く。その良し悪しは別にして、それは私が前回扱ったテーマとは別問題だからである。
私は日本国籍を持ち、部落出身でもないが、その私が「エタ」とか「朝鮮人」といわれて、部落出身の人達と同じ「痛み」を感じるだろうかといえば、否という他ない。それらの言葉がいかに侮蔑的文脈で私に向けられたとしても、その言葉から部落出身の人達や在日朝鮮人の人達と同じ「痛み」を受け取ることは出来ない。もちろん、侮蔑されることによって生じる不快や怒りは私にも生じるだろうが、それと同時に差別されることの「痛み」を感じ取る事が出来るといったら、それはむしろ欺瞞であり、あまりにも不遜ではないだろうか。それと同様に、「オカマ」という言葉が誰に対しても差別されることの「痛み」を与えると考えるのは、やはり現実に沿わないと考えるべきである。つまり、「差別語自体」といえる言葉は理念上においてのみ想定可能な概念であって、そういう言葉は実在しない。
しかし、それではこの場合の反論者が、そういう種類の言葉があると主張するのは、「ない」ものを「ある」と偽っているという事かといえば、私はそうは思わない(中にはそういう人もいるかもしれないが、今回の反論者について考える限り、そういう人物であるとは考えにくい)。そうではなくて、その人にとっては「その種の言葉の実在」にリアリティが感じられるのだと思う。
なぜかといえば、本人にとっては、「オカマ」という言葉が自分にとって、まさにナイフのごとき「痛み」をもたらすからだろう。本人がそういうのであれば、それを否定する権利は私にはない。しかし、その事を無条件に一般論化してよいかどうかは、また別問題である。
上の例のように、その人が他の「差別語」とされている言葉によって、必ずしも「オカマ」といわれたときと同様の「痛み」を感じないのであれば、なぜ自分は「オカマ」に「痛み」を感じ、他の言葉からは同じ「痛み」を感じないのかを、自分自身の意識に対して確かめ直す必要がある。その理由は、「言葉」にではなく、その人の「内側」にあるはずだからである。
それが何であるかは、もちろん、その人物が一人で内観し了解されればよい事であって、発表には及ばない。つまるところ、自分が抱えるこの種の問題を解決するのは本人以外にはなく、残念ながら私はここでは、ただその方法について述べることしか出来ないからである。逆に言えば、本人にそのつもりがない限りは、ここを読んでも、その人にとって何の役にも立たないだろう。私は阿弥陀如来ではないから、本人の発心がなくとも、どこまでも追いかけてその人を救いたいとは思わないし、またその能力もない。むしろ、そんな事は「余計なお世話」の範疇だとさえ思っている。
もう一つ改めて付け加えると、ここで私は、ある言葉に「痛み」を感じる理由を「内側」に持っている人が、悪いとか劣ってと言いたいのではない。「差別」による「痛み」を乗り越えるためには、まずそれが何であるのかを個々人が自分の内に見つけることが必要だといいたいだけである。そんなものは、誰でも多かれ少なかれ持っている。むろん、私にもある。だから、それが悪いとか劣っている等と言える立場では、断じて、ない。ただ、自分の内側に自覚されることなく抱えているもの、それが何であるかが判れば楽になる。楽にはなるが、いわば自分の身体を切り開いて体内の腫瘍を抉り出す作業であるから、作業そのものはむしろ苦痛を伴う可能性も大きい(特に慣れないうちは)。だから、少なくとも、その気のない人に無理強いしようとは考えていない。たとえ「救済」であれ、無理強いするのもされるのも、私は嫌いである。つまるところ、個々人がそれを見つけようとするかどうかは、本人の意思の問題であって、私は知らない。
ただ、いわゆる「差別語狩り」の無為性だけは改めて指摘しておきたい。これは、他者に影響を及ぼすものであって、本人の意思で好きにしてよいものとは思えないからである。その区別をつける必要はあると思う。
例えば、差別語狩りによって差別がなくなるかといえば、それは原理的に不可能である。言葉が持つイメージとは、言葉それ自体が持つものではなく、あくまでもその言葉を受け取る人間が付着させるものである。だから、いくら差別語狩りをしたところで、人間に差別の動機がある限り、それまで差別語でなかった言葉が差別語の仲間入りをする(差別に利用される)だけの話である。
言葉だけではない。差別が「アイデンティティ補償のために、あるカテゴライズを利用して他者を不当に貶めることで相対的に自分を高めようとする行為」である以上、カテゴライズもその標的にされる。リベラルフェミニズムなどに見られる性差の否定は、その典型である。これは、殺人事件や交通事故を無くすために、この社会から包丁や自動車を無くしてしまえというのに等しい暴論である。もちろん、現在の日本の社会であっても、どこでも包丁を抜き身で持ち歩いていよいとか、どこでも好き勝手に自動車で走り回ってよいという事にはなっていない。
それと同様、性差別に関して「性差」(それがセックスレベルのものであれ、ジェンダーレベルのものであれ)を論するのであれば、「性差=性差別」というのは、あまりに単純に過ぎる。まずは、性差を判断基準に持ち込むことが正当な場面と不当な場面との区別をつけることが先決であろう。この事は、私は以前から再三書いて来た。この区別をつけられない限り、性差を否定する種類のフェミニズムやジェンダーフリーの主張は、現実から乖離した机上の空論にしかならないだろう。たまたま男女の区別が不当な分野では上手くゆくというだけである。そしてそういう連中が、その上手くいった分野の成功例だけを取り上げ、失敗例は他者に責任を押し付けて、自らの思想の正しさを主張するであろうことも容易に予測できる。しかし「歯止め」のない主義主張や要求が正しかった例など、歴史のどこを探せば出てくるだろうか。
このような「差別語狩り」や「カテゴリー狩り」に代表される、無節操な(=歯止めのない)告発糾弾型の運動(対抗主義)では、もはや先がない。
これらの方針は、差別をなくす(正確に言えば、完全になくすのは無理だが、減らすことは出来るだろう)という本来の目的から見れば、明らかに的を突きはずしている。それは問題の本質から人々の目をそらすものであるがゆえに、むしろ、しばしば差別を隠蔽し、助長しさえする。
対抗主義は、どうしても「差別者」と「被差別者」という対立構造を描き出すために、それをしばらく続けていると、自分達は「被差別者」であるという規定に対して動かし難いリアリティが生じてしまい、自分が「被差別者」であるという自分自身の意識から逃れられなくなる。要するに、「被差別者」であることが一種の(負の)アイデンティティになってしまうのである。したがって、「痛み」から逃れることはますます不可能になり、反差別運動が自己のコンプレックスの反動形成として現れるようになる。すると反応が過敏になって(被害妄想的になって)、「何でそれが差別なんだ」と思えるものまで槍玉に挙げて行くようになる。社会が悪い、社会が間違っていると言い続けるのであるから、社会との間にコンセンサスを得ることが、かえって難しくなってしまい、悪循環を引き起こす事になるだろう。
これはもちろん、「オカマ」という言葉を、どのような文脈の中で使われていようと、すべて見逃せという事とは違う。例えばマスコミで言えば、報道とか、そうでなくとも何らかの解説・説明の中で「性同一性障害=オカマ」というような事が言われたとしたら、それはやはりおかしいのである。
しかし、それは「差別的発言だ」という抽象的な指摘をするよりも、まず「それは説明に誤りがある」という具体的な形で指摘し、「事実はこうである」と説明するべきであろう。なぜならば、たいていの場合、こうした発言は「差別」以前に「無理解」が問題の本質なのである。私達は、自分達が思っているほど世間に理解されているわけではない。これは T's というカテゴリーに限らず、個人についても同じ事が言える。私達は自分で思っているほど、他人から理解されていないという事はよくある話である。それをすべて「差別」という切り口でしか見る事が出来ないとしたら、あまりに素朴すぎるというべきだろう。
むろん「差別がない」などというつもりはないが、しかし何が「差別」であるかをきちんと見分けて、もっと問題を絞り込む必要がある。そうでなければ、「あれも差別だ、これも差別だ」という運動にどうしてもなってゆく。それに対する「歯止め」を自らきちんと用意しておかないと、これは必ず「統帥権」のような「ダメな権力」になる。
したがって、どこかの自助グループのように、いきなり「抗議」というのは下策である。それをやると、被差別者の「囲い込み」と事実上の「私設検閲機関」を生み出してしまい、けっきょく昔の「同和はこわい」になってしまう。その様な前例を踏まえぬ行動は、一部の者達の、無思慮もしくは権力志向から発していると考えてよい。しかしそれに反して私達は、怖がられたり、特殊なグループを作って世間から特別視されたり、ましてや特権階級になりたいなどと考えているのでは、けっしてないはずである。また、自分達の内に(上に?)権力者を作り出したいわけでもない。
差別というのは基本的には政治の問題であり、その政治にしても、他の分野、例えば宗教、科学、言論、芸術などにしても、これらの分野はお互いに別の世界だというのが近代以降の社会の原則である。だから、たとえば言論や表現の自由というのは、原則として他の分野が介入してはいけない。文学に対して、「坊ちゃん」は革命の大義を描いていないから絶版にしろとか、「のらくろ」にトンカツを食べるシーンがあるのはイスラムの戒律に反するから焚書しろとか、あるいは「桃太郎」は非科学的で子供に誤った知識を与えるから小学校の図書館に置くな等、この線引きが出来ていないと何でも言えてしまう事になる。
もちろん、分野の壁を越えざるを得ない場合もあろうが、しかしそれは原則を破るわけであるから、本当に重要な必要性がある場合に限られるし、断じてむやみにやってはいけない。この原則をきちんと踏まえるべきであろう。
それがけっして正当な行為とはいえない。私の好きな漫画で「エロイカより愛を込めて」(青池保子・秋田書店)という作品があり、その中の登場人物の一人(エーベルバッハ少佐)が、ときどき「オカマは好かん」というようなセリフをいう。このセリフだけを取り出したら、これは私でも差別ないし侮蔑としか思わないだろう。だけど、作品全体を通して見る限り、必ずしもそういう作品だとは言えない。また、「バラ色カンパニー」(新田朋子・芳文社)という4コマ漫画では、作者は最初の内は気兼ねをして、「オカマ」という言葉が使えず、「お釜」の絵をフキダシの中に描いていた事もあった。しばらく前から遠慮がなくなって(?)「オカマ」という言葉も使われるようになったし、ヒロインの「海ちゃん」が笑いものにもなるのだが、その性格の明るさなどもあって、作品全体としては私はとても好もしく思う。こうした作品の価値を、一面的に、政治的側面のみから断罪し、葬り去ろうという動きがあれば、私は断固として反対する側に回るだろう。
ところが現在、「差別」という政治的分野では、「人道上の理由」というような非常に曖昧な理由で、それを無節操にやり過ぎる。これは「脱・近代」どころか、前近代的な抑圧行動でしかない。T's にとっても、よい事ではないのはもちろん、反社会的行動といってもよい。
「抗議」というのは表現ではあるが、しかし文芸や芸術と違って、これは政治的表現と考えるべきであろう。したがって、例えば「報道や何らかの解説・説明」において「性同一性障害=オカマ」という類いの発言がなされたとしても、いきなり「被差別者」というような政治的立場から政治的表現としての「抗議」をするのではなく、「実情に詳しい者」の立場から、「報道・解説・説明」の誤りを指摘し、事実を説明するのが基本である。これらの手順を踏むことなく、いきなり「抗議」というのでは、ルール違反といわれてもやむをえないだろう。
私達にとって T's に関する知識は「当たり前のこと」であるが、世間一般の理解の水準は、私達とはかなりの開きがある。ここでいきなり抗議するのは、例えは悪いが、「軽いものより重いものの方が速く落ちる」と友達に話している子供に対して、物理学者が抗議するようなものである。
私達が取るべき行動は、相手の理解度によっても対応が異なるのが当然で、それを画一化(マニュアル化)したら必ず害が出る。必要もないのに(説明すれば済むことなのに)、相手に「差別者」のレッテルを貼りつけて「傷付け」ている例が、相当あるのではないだろうか。それでは他者との「よい関係」など出来るはずがなく、どうして差別をなくすことなど出来るだろうか。また、いわゆるステロタイプの否定を主張する団体ほど、こうしたマニュアル化運動に熱心なのは、まったく理解に苦しむ現象である。
それから、それから、これは「真に『差別』を乗り越えるために」でも書いておいたことなのだが、それにもかかわらず、私達がコンプレックスを持つのは、社会が悪いのだと指摘して来た人がいた。例えば「オカマ」なら「オカマ」と揶揄する人間がいるのが悪いという意味で、これは一面の真理ではあるが、しかしそれを言うだけでは、決して解決には向かわない。
私達は自分の性自認や、自分が T's であることを言い出しにくい時期があったし、また現在でも、誰にでも打ち明けられるという人はきわめて少数であろう。では、その「言い出しにくく」なったのは、誰かに揶揄されてから後の話で、その前は気楽に言えたという経験を、誰か持っているのだろうか?
私の考えでは、自分の周囲に存在する人達の価値観を、自分も一緒に共有するようになるというのは、決して「揶揄」だけが原因ではないはずでである。私のいうコンプレックスというのは、T's は「変なやつ」という価値観を無意識的に共有し内面化しているという意味である。「差別」による「痛み」というのは、いわゆる「差別語」とされる言葉を契機にはするが、しかし言葉そのものが「痛み」を伴ってやってくるわけではなくて、その言葉によって自分の内側から罪障感が呼び起こされる場合に起きるのである。
だからもちろん、このコンプレックスというのは、例えば私達であれば、T's は「変なやつ」だという価値観を持つ人達の中で生活することによって発生する。したがって、それを周囲に人達のせいにして責任を押し付けるのは簡単である。「アンタ達のせいで私はこうなった」というだけで済むのだから。しかし、そのこと自体も同じコンプレックスから起こった反動(リアクション)であり、しょせんは「恨み言」に過ぎない。コンプレックスから一時的に目をそらす事は出来ても、コンプレックスそのものを解消することは不可能である。
ちなみに、私自身はそのコンプレックスをどうして解消できたかというと、周囲に理解者がたくさんいたおかげである。とはいえ、もちろん、そういう人達が最初からいたはずはない。
最初はパソコン通信を始めた時で、Moon-Net というネットに、当時お店に勤めていた事も含めて全部明かして自己紹介をしたのがきっかけである。ダメで元々という感じで、何しろパソコン通信だから、そこで拒否されても私がどこの誰だかはバレはしない。そういう気楽さも手伝ってのことである。しかし、幸いなことにそこで受け入れられた。当時(今でもあるかも知れないが)実際は男性なのにネット上で女性といつわる、「ネットオカマ」という愉快犯がたくさんいて、そのネット上でも「ネットオカマ」を非難する書き込みが結構見られた。そこへ、「私はこのような人間なのだが、これもネットオカマだろうか? もし不都合なら退散する」という意味のことを正直に書いたのがよかったのだと思う。その後、「オフ会」に顔を出し(というより、会員さんが連れ立って来店するようになったので、「オフ会が来た」というのが正確なのだが ^^;)、さらには、そのネットを運営する会社の社員にまでなるに至って、「神名龍子」としての交際範囲はますます増えていった。
それから今だと、たまたま哲学の分野に【EON/W】と神名龍子を「発見」してくださった女性がいて、それをきっかけに、以前とは別の人脈が増え続けている。正直にいって、この一年間の変化を思い出しては、ときどき呆然とするほどである。まるで激流に乗っているようなものだが、当然の事ながら心地よい。
これは私自身の経験から思うのだが、傷付けられても、その「痛み」を乗り越えられるというのは、そういう「よい関係」を自分の周囲に築いていって、人間への信頼を回復できてこその事であろう。逆に孤立無援の中で傷付けられたら、どんどん悪いほうへ歪んで行ったと思う。他の原因で避けられている場合でも、私のことを「オカマ」だと思って避けてるな、などと思い込んでしまい、反応が過剰になったりしたのではないかと思う。それなら「対抗主義」にもなろうかというものである。
しかし、「対抗主義」に陥るという事は、周囲との「よい関係」を断念する事である。他者に圧力をかけて屈服させようというのは、欲望としても手段としてもあまりに幼すぎるし、またそのような一生を送る事は、あまりにも虚しすぎるのではないだろうか。
これは、T's であるか否かを問わず、人間なら誰しも一生の問題であろう。であれば、望みの性別で生きることは、幸福の一つの条件ではあるかも知れないが、決して十分条件ではありえない。たとえ望みの性別で生きることが出来るとしても、それが周囲の人間から孤立した人生であれば、どれほどの意味があるだろうか。
差別を受けることの「痛み」とは、殴ったら「痛い」というような生理的な「感覚」ではなく、これは一種の「感情」である。この「痛み」だけでなく、人間のあらゆる感情は、自分の内のどこかにその根拠になる理由がある。他者との関係が上手くいかないときには、まずその時に自分の内側に生じる「痛み」や「怒り」や「悲しみ」などの感情の、その根拠となる理由を(相手に対してではなく)自分自身に対して問うことが必要である。
私は「オカマ」という言葉からは、通常は差別的な「痛み」は感じないが、しかしそれでも、上記の「よい関係」を結んでいる人達から、侮蔑的な文脈で「オカマ」という言葉を使われたら、かなりの衝撃と「痛み」を受けるだろう(もっとも、よく考えてみると、侮蔑的な文脈でさえあれば「オカマ」の語を使わなくても同じ効果があるだろうが)。一方、同じ事を、どこの誰だか判らない人間に言われても、単に「怒り」が湧くだけで「痛み」は生じないだろうと思う。つまりその都度、自分に生じた「痛み」や「怒り」や「悲しみ」などから、その根拠となる理由、つまり自分がその相手との関係をどのように了解していたのかが判る。
感情が湧くことそれ自体は自分の思うようにはならない。それに対しては人間は受け身(パッシブ)になるしかない。だから英語では「感情」を「パッション」(passion)という。しかし、その「感情」が自分のどのような「了解」に由来するのかを能動的(アクティブ)に探ることはできる。これはつまり「アクション」である。
このような、自分が持っている「了解」を自分の内から取り出して自覚することが出来ると、人間関係を築いたり修復したりするのに役に立つ。自分のその「了解」は正しいのか、どのような「了解」を持つのがよいのかと検討する事が出来るからである。
反対に、自分がどのような「了解」を持っているのかを自覚できたとしても、それを正当化する理屈ばかり考えているようなら望みはない。自分はそのままで、他者を自分の都合のよいように変えようと考える人間が、他者と「よい関係」など結べるはずがないからである。
