りゅこ倫

■■1999年09月28日■■

特権的「生き難さ」を疑え

 先週末、哲学関係の合宿で二日に渡って東京を離れていた。

 そういう時は、普段は聞けないような話を聞くことが出来る、よい機会である。どちらかといえば、知的好奇心によるよりも、自分自身の「生き難さ」を解決するための技術として、哲学を学ぼうという動機を持つ人が多い。つまり私と同じような動機ということであって、当然のことではあるが、「生き難さ」をかかえるのは性同一性障害の当事者だけではないなぁ・・・ということを、改めて感じて取ることが出来た。

 このメンバーに対しては、何度か自己紹介をしていて、その中で私が哲学する動機、つまり自分の性同一性障害という性質についても、半年前から何度か話している。それでも、今回初めてその話を聞いたという人がいた。

 今回、特に印象的だったのは、その人の「目の前でそう言われると、何も言えなくなってしまう」という言葉だった。私自身は、それが嫌で「対抗主義になるな」と言い続けて来たわけだが、むろんその人がその様な事を知るわけがない。そうだなぁ、これが現在の、普通の反応なんだなぁ・・・と、これもまた改めて再確認させられたような気になった。

 なぜ、「目の前でそう言われると、何も言えなくなってしまう」のだろうか。これは本人に尋ねたわけではないが、おそらくこういう事ではないかと思う。

 「言えない」という事には、大きく分けて二つの原因が考えられる。一つはそもそも何を言ってよいのか判らないという場合である。もう一つは、言いたいことはあるのだが、それを遠慮しなければならないと考える場合である。前者の場合、例えば学校の授業で先生に指されたけれども答えが判らないというような事がある。強いて言えば「判りません」というしかない。性同一性障害についてよく判らないという人もいるだろう。後者の場合には、性同一性障害が「部落」や「在日」の問題と同様、「弱者」とみなされている場合に起こりやすい。つまり、うかつなことを言えないという怖さが、言い換えれば「空気のこわばり」が、そこにはあるのだ。

 だが、上にも書いたように、実は「生き難さ」というのはほとんどの人間が持っている。その「生き難さ」がカテゴライズされ、「部落」や「在日」あるいは「性同一性障害」という名前がつくと、うかつなことを言えない「弱者」の範疇に入る。だけど、これはとてもおかしな事だ。特にこれといった名前のつかない種類の、しかし現に個々人がかかえる「生き難さ」と、カテゴリーとして成立している種類の「生き難さ」との間に、どのような違いがあるとも思えない。にも関わらず、前者に比較して、後者だけに不当な特権性が生じているように、「弱者」という名前の「強者」が君臨しているように、私には思えるのである。

 話は変わるが、私のように、現代武道ではなく古流の武術をやっていると、「それは素晴らしいですね」という人がいる。内容を理解してそう言ってくれる人なら、とてもうれしいのだが、中には「それ、本当に判って言ってるんですか?」と聞き返したくなるような人もいる。これは一体なんだろうと考えてみたことがあるのだが、おそらくは「伝統」というものへの追従ではないかと思う。

 「伝統」に対しても「弱者」に対しても、「素晴らしいですね」とか「大変ですね」と言葉の上で理解を示せば、実際にはまったく理解していなくても、たいていは丸くおさまる。 ここでは「伝統」も「弱者」も、一種の権威として扱われており、私はそれについて知っていて、理解を持っていますよという態度を示すことで、世間の中での自分という存在を保つことが出来る。この事自体は、一種の「生活の知恵」のようなものであって、一概に否定されるべきことではない。

 だが、それも度が過ぎると、「伝統」や「弱者」に対して理解を持っているという態度を取る事が、一種の優越感になり、そういう態度を取らない人を見下す原因にもなる。そうなると今度は「それについては私は知りません」とか「理解できません」ということが言い難い社会になる。「伝統」や「弱者」に対して疑問を持つこと、ないしそれを表明することが禁じられているような雰囲気が出来上がるのだ。

 それはしばしば、こんなに困っている人がいるのに何も感じないのかというような、罪悪感強迫につながる。だけど、例えば性同一性障害について知ろうとするような動機を持つ人が、果たしてこの世にどれくらいの割合で存在するかといえば、私にはおおいに疑問である。「弱者」に限らず、これは「伝統」についても同じ事だ。私は古流の武術には馴染んでいたけれども、その私だってありとあらゆる日本の伝統に通じているはずもなく、またそういう動機も持っていない。

 そのことが判っていないと、ある種の「自助グループ」のように、性の多様性について「啓蒙」しなければならないというような、自分達の考えこそ「真理」であり、それを知らないのは蒙昧な遅れた人間だといわんばかりの行動に出る。あるいは反対に、人の考え方は多様だから、それを認めなければならないと言い出すようになる。しかし、これはどちらもおかしいのである。

 人の考えが多様であるというのは確かで、私はそれが間違っているといいたいのではない。むしろ、人の考えが多様であるからこそ、話し合って折り合いをつける必要があるのだ。「多様性を認めよう」という事を、他者と判り合うための手段の放棄の口実にすることも、自分達の考え方こそ「真理」であると考えるのも、ともに、最初から考え方の異なる他者との折り合いをつける道筋を閉ざす考え方だと言わざるを得ない。

 ここで最初の話に戻ると、それゆえに、「何も言えなくなってしまう」という状況は決して健全なものではない。「理解出来ない」とか「私の考えは違う」という発言を自主規制させてしまうような社会運動の在り方では、敬遠されこそすれ、けっして判り合えるための道筋などでは有り得ないのだ。そういう運動の在り方は、裏返せば、自分達の主張を説得力をもって言い尽くすことの出来ない無力さの現われである。だが、「理解してもらいたい」のは、したがって自分達の主張を説得力をもって説明するための努力を求められるのは、いったい誰か。もちろん、当事者自身である。「啓蒙」すべき対象は非当事者ではなく、自分達の頭の中身だ

 私が、性同一性障害という性質を持つ人間である事を明かして非当事者と関わることのメリットが二つある。一つは、非当事者に対して性同一性障害の説明が出来るという事だが、しかしこれは数の上から言えば、微々たるものだろう。

 もう一つは、これが本当に大切なことなのだが、非当事者の、いわば「世間一般」の感覚を維持できるということである。T'sT's だけで固まって性同一性障害についての問題を語り合っていると、それに関して、どうしても外部(世間一般)が持つリアリティとの間にズレが生じる。これはとても危険なことだ。これはけっして世間一般が持つリアリティの方こそ「真理」だと言いたいのではなく(これは、どちらが「真理」だといっても間違いである)、世間一般の感覚を忘れてものを考えると、なぜ自分達が理解されないのか、どうすれば理解されるのかという、判り合うための道筋を探すための手がかりが失われるからなのだ。

 例えば、この世界特有の用語というものが次第に増えて、現在ではかなりの数になる。10年以上もこの世界に関わっている私でも、いまだに新しい用語が増えると「何だ、それはどういう意味だ?」と思う。馬鹿な話で、性同一性障害の当事者でさえ、最近になって自分が性同一性障害である事を自覚した人などには、かなりの負担になっているのではないかと思う。これも私自身、2年ほど前に初めて自助グループというものに顔を出したときに実感したことである。

 だが、これらの用語を使わなくては自分達についての説明が出来ないとしたら、これは大変なことだと思う。性同一性障害等について積極的に知りたい、学びたいという、ほんの一握りの人達を除いては、さまざまな特殊な用語を覚えてまで性同一性障害について理解する必要を感じるような動機を持つ人は、ほとんどいないだろう。

 もっとも私自身、「ジェンダー素描」等で、そういう用語を頻繁に使用しているから、あまり偉そうなことは言えないのだが(^^;)、現在そういった、過去に私が他者から仕入れた用語や、性(性別)に関する概念などについての説明の言い回しを、どれくらい使わずに済むものかを試している最中でもある。

 まだ試している途中だから、これから先にも増えるかもしれないが、私の実験では、今のところ「性自認」という用語だけ使っている。使わないで済ませることも出来るのだが、この概念は繰り返し登場するために、あまり何度も「自分の性別に対する認識」というような言い回しを繰り返していると、かえって説明が煩雑になって仕方がないのだ(^^;)。

 これは要するに、出来るだけ多くの人に判りやすいような説明がどこまで可能かという実験である。興味がある人は、自分で試してみると面白いだろう。これは同時に、自分自身が性同一性障害についてどれくらい理解できているのかを確認できる作業でもある。専門用語の使用を避けるためには、それらを出来るだけ噛み砕いた言葉で表現できる必要があるからだ(この点、先月紹介した「性同一性障害はオモシロイ」という本は、たいしたものだと思う)。

 自分達の説明を自分達でするのは、当然のことである。私達には「弱者」として社会運動の内側に囲い込まれることではなく、逆に「何も言えなくなってしまう」といわれてしまうような状況を自ら打破すること、「理解出来ない」とか「私の考えは違う」という発言に正面から向き合うことの出来る「強さ」を持つことが必要なのだ。

 なぜなら、私達は複数の人間が同じ問題に取り組むことが出来るという有利ささえ持っており、決して特権的な「生き難さ」を持つような集団ではありえないからだ。逆に、自分達こそが最も不幸な「生き難さ」を持つ者だと思うのであれば、それはむしろ傲慢であり、「弱者」という名の「強者」であることを目指していると思われても仕方がないだろう。私は、もちろんこれからも性同一性障害に伴う「生き難さ」について考え続けるが、しかし同時に、特権的「弱者」としてこの世に在ることを拒否し続けて行きたい。

L.Jin-na


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