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■■1999年11月01日■■人はなぜ失恋の歌を好むのか
以前から、人は自分にとっての「ほんとう」「よい」「きれい」を求めると書いて来た。つまり「プラス」志向である。しかし、それならば、人はなぜ失恋をテーマにした曲を好むのか。先日、哲学を学んでいる場で、そんな話題が出た。失恋とは、出来れば経験したくないもの、つまり「マイナス」であろう。それにもかかわらず、確かにジャンルを問わず失恋をテーマにした歌は数多く見受けられる。せっかくなので、今回はこれについて考えてみたい。
この場合の「失恋」そのものは、決して人間にとって「プラス」ではあるまい。「失恋」とは文字通りに読めば「恋を失う」ことだが、しかし「アイツと別れてせいせいした」という歌はあまりない。あったとしても、このような言い回しは一種の負け惜しみとして使われており、実際には、悲しみや落胆が歌われているという場合がほとんどではないか。
ここで私は、とりあえず中島みゆきのCDを引っ張り出して、その歌詞をざっと眺めてみる。失恋の歌が多く、資料としては大変効率がよい。それに演歌。坂本冬美や藤あや子などである。中島みゆきほどではないが、やはり失恋の歌が多い。女性歌手だけではなく、海援隊の歌詞も見てみよう。こちらは直接に失恋を歌った歌は必ずしも多いとは言えないが、しかし望郷の念をメインに据えながらも、そこに失恋が歌い込まれているものがいくつかある。そういえば「贈る言葉」も失恋の歌に数え上げられるだろう。
これらの歌詞を眺めている内に湧き起こって来るのは、「しみじみ」あるいは「切なさ」といった種類の感情である。もっとも、「しみじみ」とか「切なさ」を感じるのは、何も失恋だけを対象にした場合だとは限らない。特に日本人は、「もののあわれ」や「侘び寂び」など、昔からこの種の感情が好きなのではないかと思うほどである。
昔話ついでに思い出したのだが、歌といえば昔は song ではなく、今でいう和歌である。時に宮中で「歌合わせ」が行われた。決められたテーマで二人が歌を詠み、その優劣を競うものである。天徳年間(957〜960)に行われた歌合わせで「恋の歌」をテーマに、平兼盛が詠んだ歌が、
壬生忠見が詠んだ歌が
であると伝えられている。両者ともいわゆる三十六歌仙に数え上げられるだけあって優劣の判定はなかなかに紛糾したようだが、結局は前者の勝ちとなり、一説にはこのために壬生忠見が悶死したとも伝えられている。
どちらも失恋の歌ではなく片思いの歌なのだが、成就していない恋という点では同じである。「恋」をテーマに、どちらも、熱々、ラブラブ、ハッピ〜!! という歌を詠んでいない事には注目すべきだろう。前者は「片思い」を隠そうとしても隠し切れずに表に現れてしまったという歌、後者はとことん「片思い」を秘め続けたという歌である。人によっては、壬生忠見の方を高く評価する意見もあるようだ。
確か「葉隠」には、衆道(ホモセクシャル)の極意として、やはり相手に想いを打ち明けることなく秘め続けるのが最上であるという話が出てくる。これが衆道に限った話ではないことは、上の歌合わせの話からも明らかだろう。片思いを秘め続けることには、失恋に劣らない「切なさ」がある。ただし、この場合には「恋焦がれる」とか「身を焼かれる想い」という表現があるように、本人にとっては「しみじみ」どころではないかも知れないが、失恋の場合だって、「追いかけて焦がれて泣き狂う」こともある(わかれうた・中島みゆき)。
では「片思い」と「失恋」の違いは何か。簡単に言えば、「片思い」はまだ未来に希望があるのに対して、「失恋」とはその希望の挫折である。この挫折についてもう少し詳しく考えてみよう。
ここで挫折する希望とは、つまり、恋愛における希望とは何か。いうまでもなく恋の成就ではあるのだが、では恋が成就するとはどういう事なのか。さらに掘り下げて考えれば、そもそも恋愛とは何であるのか。
恋愛とは、通常は異性の、時に同性の「他者」を相手として必要とする。他者というのは、普通は「自分は自分である」という自己意識を相対化し、いわば自分という存在を脅かす。およそそういう意味のことを、ヘーゲルが「精神現象学」で書いている。むろん現実には、お互いを認め合うような関係もある。しかし少なくとも、他者は常に自己を相対化する可能性を持つ存在である。
ところが、恋愛の場合には事情が逆転する。自己を脅かすのはむしろ恋愛の相手が失われる(失恋する)ことであって、恋愛が成就した時にはむしろ満たされた気分になるだろう。冒頭に、失恋とは出来れば経験したくないもの、つまり「マイナス」だと書いたのはこのような意味である。
恋愛の成就が人を幸福にするのは、直観的に相手の中に「ほんとう」「よい」「きれい」(真善美)を見るからである。だからこそ、恋愛の成就は本人にとって、むしろ自己肯定につながるのであって、そこで生じる心配事は、恋人という他者が存在することではなく、その存在が失われること、それによって自己肯定の根拠が失われることなのだ。
ただし、この「ほんとう」「よい」「きれい」は、あくまでも本人にとっての個人的な価値観である。個人的な価値観だから、人によって多少の違いはある。だから人によって具体的に誰を恋愛対象にするかに、ほどよく(?)バラつきが出る。俗にいうところの「好みの違い」が生じる。しばしば、他人の目から見て「あんな男(女)のどこがいいの?」という疑問が生じるのも、このためなのだが、しかし恋愛中の人間にこの疑問をぶつけても意味がない。それもまったく同じ理由による。
しかしこの場合だけは、あまり共通了解を求めない方がよいかも知れない。同じ価値観を持つ人間がいるとどうなるか。恋の鞘当て、横恋慕、三角関係・・・。だいたいロクな事にならないのが世間の相場である。
ただし、相手が「本当に」自分の感じる「ほんとう」「よい」「きれい」を持っているかどうかは、保証の限りではない。恋愛とは、自分の幻想を相手に投影することに他ならず、だから時には、あとから「幻滅」することも有り得る。それは相手が悪いわけではなく、単なる自分の眼鏡違いである。それにも関わらず相手を責めれば、これはトラブルの原因になるのが当然であろう。いずれにしても、こういう場合にはもはや、恋人としての他者が失われる心配をする必要がなくなる。むしろ周囲から、あるいは当の相手から、その他者が自分の恋人であると思われることがうっとうしくなるだろう。こうなれば「アイツと別れてせいせいした」といえる条件がそろった事になるが、こういうのは失恋の歌の題材にはならない。たぶんならないと思う。
恋愛についてこういう書き方をすると、まことに実も蓋もない。恋愛とはもっとロマンチックなものではないか。そう思う人もいるだろう。それに反対するつもりはない。自分にとっての「ほんとう」「よい」「きれい」を求めることは、要するにロマンを求める事である。だから恋愛は、少なくとも本人にとってはロマンチックなものだと、相場が決まっている。
ところで、上に書いたように、相手の中に自分の「ほんとう」「よい」「きれい」を直観するだけでは、実は恋愛の条件としては不充分である。まぁ、中には「初恋は幼稚園の頃だった」という人もいるから、その場合にはそれでも充分なのかも知れないが、少なくとも思春期以降であれば、「ほんとう」「よい」「きれい」の他に「エロティシズム」が加わる。ここでは、エロティシズムとは、バタイユの説に従って「禁止された美の侵犯」としておく(これもある意味ではロマンティシズムには違いないが)。思春期以降に、エロティシズム抜きの恋愛が出来るのは、よほどの奥手か、さもなければカマトトだと思ってほぼ間違いなかろうと思う。
ただし、失恋を歌った歌詞の中には、必ずしもエロティシズムに対する挫折が歌われているとは限らない。特に、中島みゆきの歌詞を見ると、エロティシズムの側面が見事にすっぽ抜けていることに気づく。どちらかといえばそういうものは演歌にはありそうで、時に「艶歌」と表記されたりする。要するに、失恋の歌が好まれるという事についていえば、エロティシズムに関しては触れられていなくても構わないように思える。
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上の文中の「艶歌」について、正確な意味をお知らせくださった方がいらっしゃったので、付け足しておきます。 「艶歌」というのは、歌詞には関係なく、アレンジ・歌唱・楽曲コンセプトとして「しっとり唄いあげる・しっとり聴かせる」ものを指し、読みも訓読みで「つやうた」であり、反対語は「力唄」(ちからうた)なのだそうです。なお、特定の曲にキャッチコピーとしてつけられる場合には、この限りではない・・・かもしれないということでした。 正直言って、私はこれ、全然知りませんでした(^^;)。どうもありがとうございました。 |
ただ、恋愛において「美」(きれい)が重要な要素であることは間違いない。これは相手の容姿の問題だけをいうのではない。「美」とは身体化(内面化)された「ほんとう」や「よい」であり、それゆえに、「ほんとう」や「よい」に比べると理論化しにくく、より直観的なものである。しかも私達の「美」に対する感性の中には、現実世界での「ほんとう」や「よい」だけではなく、「こうなったらいいな」とか「こんな世界があったらな」というような、憧れが多分に含まれている。つまり「美」とは、現実世界では必然的に挫折する空想の世界への通路なのだ。
ところがある日、その「美」(きれい)を持つ生身の人間(通常は異性)が目の前に現れる。その彼(彼女)という存在に強く惹かれることこそ恋であろう。恋の成就とは、単にその生身の人間を自分のものにすることを意味するのではなく、かつて挫折して空想の世界(ロマン的世界)へと追いやられた「ほんとう」や「よい」を、再び自分の手に取り戻すことに他ならない。だから、上に恋の成就が自己肯定につながると書いたが、この場合の自己肯定とは、ほぼ全能感に等しい。
ところが、この時に相手の中に見た「美」によって直観された「ほんとう」や「よい」は、そもそも現実世界で挫折して空想の世界(ロマン的世界)へ追いやられたものであるから、恋が成就したところで、それが現実のものになるわけではない。単に、現実のものになりそうな気がしただけなのだ。上に、恋愛が自分の幻想を相手に投影することに他ならないと書いた、この「幻想」というのは、そういう意味である。だから恋は必然的にいつかは冷める。それでもなおかつ相手とのよい関係を維持できるのは、愛の力による。ゆえに両者をあわせて「恋愛」という。
恋はいつか必然的に冷める。もしも、恋が冷める場面に直面しないで済むとしたらそれは、幸か不幸か、失恋した場合に限られる。失われたものは、失われることによって、かえってその存在が強く印象づけられる。この場合、恋そのものに対しては、つまりロマン的な「ほんとう」や「よい」を自分の手に取り戻すことには挫折するわけだが、しかし、それを相手が持っていると思い続けることが出来る。ロマン的な「ほんとう」や「よい」は、むしろ失恋によってこそ、逆説的に永遠性を帯びることが出来るのである。
失恋の歌が人気を集めるのも、私達が失恋そのものを好むからではなく(当たり前だ)、失恋というモチーフを通じて、かえって自分のロマン的な「ほんとう」や「よい」が、より強く直観されるからなのだ。それはまた同時に、ロマン的世界へと追いやられた「ほんとう」や「よい」への、したがって、かつて失われた自分の「ありえる」(存在可能性)に対する鎮魂歌(レクイエム)でもあるのだろう。
