りゅこ倫

■■1999年11月02日■■

恋と革命と運転と

 前章、「人はなぜ失恋の歌を好むのか」の中で私は、「恋の成就が人間に全能感をもたらす」というような意味のことを書いた。だが、考えてみると「全能感をもたらす」のは、恋愛に限らない。要するに、かつて挫折しロマン的世界へと追いやられた「ほんとう」や「よい」が直観されるものであれば、全能感への通路となりうるという話になるのではないか。

 例えば、ある種の人間にとっての「革命」もそうだ。理想に向かって狂気を発揮するという点では、恋愛も革命も同じである。「革命」という言葉も、少なくともフランス革命以降、全能感に関わるある種のロマン性を帯びるようになったと思う。もし、プラトンがフランス革命を知ったら、彼も恋愛だけではなく、革命についても考察したのではないか。なんとなく、そんな気がする。

 恋愛は日常生活の気遣いをなおざりにするするような狂気だが、革命とは日常生活を(その条件を)積極的に破壊するような狂気を発揮する。その点が少し違う。しかし、どちらも人間にとって「ほんとう」の意味を深く味わうことが出来るという点では共通している。革命が成就すれば、自分は「ほんとう」の自分になれる、という全能感への期待が、そこにある。

 革命において求められる「ほんとう」も、やはりかつてロマン的世界に追いやられたものであって、現実にはなり得ないものである。この「ほんとう」は理想とも呼ばれ、理想とは以前にも「『浄土』と『理想の世界』」で書いた通り、極限という「形式」であって、「内容」を伴わない。「内容」があるような気がするのは、革命に向かって熱狂している時の話である。恋も革命を、いったん成就してしまえば、そこにはなにがしかの挫折が待ち受けている。

 「おかしい、こんなはずではなかった」という気持ちが起こった時に、そこで現実と折り合えるかどうかは、その人次第である。そこでイニシアティブを握るのは、しばしば妥協に長けた人間である。しかしもちろん、現実と上手く折り合えない人も多い。だから革命直後というのは、むしろ、やたらと世間に不満が充満する。そして、往々にして革命に参加した人間が、革命政権に反乱を起こす。フランス革命然り、ロシア革命然り、明治維新然り。

 しかし、この反乱を単なる「反動」とみなしてはならない。「進歩」もその他のいかなる理論も、所詮は「革命」という金平糖の核を成すケシ粒でしかない。その周囲を分厚く囲んで金平糖の形を作り上げているのは、実は革命に身を投じる人間の、全能感へと向かう欲望ではないか。革命の成就によってもその欲望が満たされず、満たされないことに我慢が出来ない人間は暴れ続けるしかない。彼等にとっての革命は終わっていないからである。その意味で、革命に対する反乱は必然であろう。反乱のきっかけを作るのは常に、最初に彼等を蜂起へと掻き立てた「革命」それ自体である。

 実は、今年の初めに「『浄土』と『理想の世界』」を書いて以来、「人間はなぜ理想を思い描くような思想を求めずにはいられないのか」ということが、ずっと引っかかっていた。もちろん、そういう思想を「虚妄だ」といってしまうことはたやすい。たやすいが、しかしそれは「現にそういう思想を求める人がいるではないか」という問いへの答えにはならない。

 人間は理想を求めるような性質を持っている。決してその事自体を悪いというつもりはない。もし理想を求めることが悪ならば、恋愛もまた悪だという事になる。しかし誰がそんな事を決めて、恋する人を責める資格があるだろうか。人が誰かに恋をすること。それはその人に到来する一種の欲望であって、当人が自由意志によって「この人に恋をしよう」と自己決定するものではない。むしろ、本人自身が「恋」という欲望の到来に対して、しばしばとまどうのである。人が理想を求めること、恋をすること、その性質自体は、ありのままに認められるべきである。ではその性質はどこから来るのか。

 それが、ロマン的世界へと追いやられた「ほんとう」や「よい」を取り戻し、実現させようという欲望であるならば、当然それより以前に、それらの「ほんとう」や「よい」をロマン的世界へと追いやる契機となった挫折経験が先行しているはずである。では、まったく挫折の経験を持たない人間がいるとしたら、その人物は恋も革命も求めないのか。私は、おそらく求めないと思う。

 ただし、これは現実には背理である。何もかもが思い通りになる、その果てにあるのは「退屈という名の挫折」だと思うからである。ありとあらゆる苦痛を集めた「地獄」にも、おそらくは絶え間なく責め立てられて退屈する暇がないために、退屈による苦痛だけは存在しない。この苦痛は、おそらく極楽にこそ存在するのではないか。どうもそういう気がする。

 したがって、人間にとって何かしらの挫折は必然である。逆に言えば、挫折を経験しなくても済むような世界を思い描くことは、まさに「理想」そのものである。その理想は背理であるがゆえに挫折を呼ぶ。ならば、この意味での理想を追うことは、イタチが自分の尻尾を追いかけて走り回るようなものではないか。これが文字通りの「反復する感情」、つまりルサンチマンと呼ばれるものだろう。

 だとしたら問題は、理想をどのように追うかではなく、自分の挫折をどのように受け止めるかという点にある。何のことはない、結局はニーチェの思想に行き着く事になった。つまり、ルサンチマンを価値観の顛倒によらずにどのように消化する事が出来るか、ニヒリズムをいかに乗り越えて生きるかという話になる。

 挫折、つまり欲しいものが得られないとか、自分は強くありたいのに現実には弱い、という事は人生の内にいくらでもある。そういう恨み(ルサンチマン)を消化し、欲しいものが得られるような自分、強い自分を目指して努力するのならよい。しかし人間は時に、「あんなものは要らないんだ」とか「強いことは悪で、弱いものこそ善なのだ」と価値観を顛倒することで、自分を慰めようとする。そうすると、自分の「生」にとって有効・有益なものが悪で、その逆のものが「善」だという、おかしな話になる。

 誤解のないように書いておくと、ルサンチマンを抱くことが悪いとか、いけない事だというのではない。それをどのように乗り越えるかが重要だといっているのである。そのためには、自分のルサンチマンを価値観の顛倒によってごまかすのではなく、正面から向き合うこと、自分のルサンチマンが何であるかを充分に自覚することが必要になる。それは同時に、自分の「ほんとう」や「よい」を自覚する事でもある。それが現実の自分の「生」に自覚的に向き合う事にもなるのだ。

 例えば、自分がある人物の言動に腹を立てたとする。その時、その相手についていくら考えても(その相手を責めても)、この事はよく判らない。それはたいていの場合、相手の言動のどのような点が非難されるべきであるか、それに対して自分が腹を立てることがいかに正当な事であるかを理由付ける作業(自己正当化)にしかならないからだ。

 そうではなくて(とりあえずそれは脇に置いて)、自分が相手の言動を「非」とするのは、自分がどのような価値観を持っているからなのか、それを自分に向かって問いかけてみる。相手の態度が冷たく思える場合にも、元をたどれば案外こちらの勝手な期待によるものだったりすることも多い。

 私なども、バイクの運転をしていると、時々おかしな動きをする車がいて「このタコ!」と思う事がある。だが改めて考えてみると、相手を「ヘタクソ」だと言えるほど、私の運転は上手いのだろうか。そもそも「ヘタクソ」の運転に翻弄されるのは、「上手い運転」だといえるのだろうか。この場合、私は自分が腹を立てた車に予想外の動きをされたわけで、つまりは相手に何かしらの期待をしての甘えがあったのだ。しかし「ヘタクソ」の動きに対応できないのでは、相手よりも上手い(相手より上位に位置する)とは言えないだろう。

 同じようなことは剣道でもしばしば見られる。ある程度剣道をやった人間は、まったくの素人を相手にする方がやりにくい。「剣道の動き」を予想する癖がついているために、かえって素人の動きが読めなくなるのである。だが、剣道を習ったために、かえって素人相手に苦戦するようになったというのでは、これは本末転倒であろう。それでは何のための剣道か、いったい剣道とは何なのだ。そういいたくなる。

 運転でもまったく同じことがいえる。「相手よりも自分の方が上手い」と自信を持って言えるためには、相手のヘタクソな予想外の動きにも、余裕を持って対処できる必要があるのではないか。そう考えるようになってから、自分の運転が変わった。今でもまったく腹が立たないわけではないのだが、少なくともその回数は減ったし、対処できる状況は確かに増えたのである。反対に、「ヘタクソのいない理想的な道路状況」など求めようものなら、現実のお粗末さに対して、なおさらに腹が立ったに違いない。

 ただし、今度は別の意味で非常識な運転をするようになった。正確にいえば、運転というよりも、感覚が非常識になった。「確認? 自分の走っている道路の事が、どうして見なければ判らない?」。そういう感覚が身についた。便利ではあるのだが、これから教習所や試験場に行こうと考えている人にはお勧めできない。安全な運転と合格出来る運転とは、どうやら少し違うらしいのである。なお、ここでいう「運転」はあくまでも二輪の話である。四輪に関しては、自分が「ヘタクソ」であることを素直に認めることにしている。

L.Jin-na


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