りゅこ倫

■■2000年03月13日■■

「無意識」とは何か

 先日、哲学の講座の方で「無意識」の本質直観(つまり現象学によって「無意識」とは何かという、その本質を考えること)という課題を頂き、先月からしばらくの間それについて考えていた。その発表では省いた部分もあったので、この「りゅこ倫」に合うように文体を改めた上で、掲載することにした。

 また、(いつものことだが)以下は「考えをまとめたもの」というより、考えた経過をそのまま記述したものである(実際、考えながら書いたものである)。したがって、現象学や本質直観に興味を持つ人にとっては、本質直観を具体的にどのように進めて行くかという、その一例として読む事が可能である。したがって内容だけでなく、その過程に着目して読み取っていただくのも、また一興かと思う。


1.アプローチ

 「無意識」とは何か。「無意識」の本質直観は、どのように行えばよいのか。通常、私達が自己の内面において意識の対象に出来るのは、意識それ自体の他、情緒、情念(感情)、知覚、記憶などがある。しかしその中のどれも、「無意識」とイコールであるということは出来ない。逆にいえば「無意識」とは、直接には意識の対象にならない「何か」である。心理学の本などには、「無意識」というものがこれこれのものとして私達の中にあるのだ、と書いてあるかもしれない。しかし、それを探し出してここに引用しても、現象学で言う「本質直観」にはならない。

 そもそも、「無意識」の本質直観、つまり「意識の対象にならない」ものの意味本質を自分自身の意識に向かって問い掛けることは可能なのだろうか。

 だが、その一方で私達は、日常の会話の中で「無意識」という言葉を使っている。ということは、「無意識」という言葉を私自身、何らかの意味において使っているのであり、私は少なくともその意味について「知っている」はずである。ならば、私達は日常語としての「無意識」という言葉を、どのような意味で用いているのか。それを、自分自身の内側に向かって問いかけることは、可能なはずである。私はまず、それを今回の「無意識」の本質直観の橋頭堡としたいと思う。


2.「意識」があっても「無意識」は働く

 では私達は具体的に、日常の会話において「無意識」という言葉を、どのように使っているのか。例えば、「無意識(の内)に××してしまう」という言い方がある。この場合の「無意識に」とは、特に意識していないのに、あるいは、そういう意図はなかったにも関わらず、というような意味で用いられている。そしてこの用い方にはその背景として、意識的に、あるいは意図的に行動できたはずなのに、という条件がある。例えば、少なくとも日常会話では、「無意識にイビキをかく」とは普通は言わないだろう(こういう表現をしても意味が通じないことはないが、しかし眠っている間は意識がないと考えるのが普通であるため、通常は、わざわざそういう言い回しを使う動機がない)。

 したがって「無意識」とは、「意識ならざるもの」ではあっても、睡眠中や昏睡状態などのいわゆる「意識不明」の状態を(少なくともそれだけを)指すのではなく、意識が働いている状態においても何らかの働きをすることが出来る「何か」である。

 例えばもう一つ、今度は自転車に乗る場合を考えてみる。最初から自転車に乗ることが出来る人はいない。たぶん、いないと思う。上手くバランスを取ることが出来ずに、転んでしまう。そしてやがて乗り方を覚えてくると、ハンドルを小刻みに左右に切りながら、危なっかしいながらも何とかバランスを取って走ることが出来るようになる。これは、意識的にバランスを取っている、といえるだろう。私自身の経験を振り返ってみても、若干の恐怖という情念を伴いつつ、「バランスを取ろう」と意識していた記憶がある。ところが現在では、雨の日にカーブでタイヤが滑ったとか、路面の段差に気がつかなくてバイクが跳ねたというような特殊な場面を別にすれば、「バランスを取ろう」と意識して自転車やバイクを運転することは、まずない。こういう場合も「無意識(の内)にバランスを取っている」といえるだろう。

 この事から、「無意識」の行動とは必ずしも生得的なものとは限らず、訓練(学習)によって身につけたものも含んでいることが判る。もっとも、オートバイの運転くらいは訓練次第ではサーカスの熊にも可能だが、ある程度以上に高度なことは「無意識」的な行動としては現れないように思える(無意識に本質直観をする、等)。


3.基礎的判断としての「無意識」

 考えてみると、私達が常に行っているにもかかわらず、それが「意識」によるものではないという事がある。例えば「意味分節」がそれである。私達はたいていは、自分が生きる世界を意識的に意味分節しているのではなく、むしろ意識は「無意識的に」意味分節された結果(意味や世界観)を受け取っているに過ぎない。この「無意識的な」意味分節を、ここでは意識が受け取る前段階においての判断という意味で、「前意識的な判断」と呼ぶことにする。

 例えば、私達は初対面の人間であっても、その相手の性別を一瞬にして見て取る。相手の外見(体型や髪型、服装など)や、しぐさ、声などの諸条件から、総合的かつ瞬間的に相手が男であるか女であるかを判断するのだ。この「判断」は通常は意識的なものとしては行われない。時々は、意識的に判断しなければならないような人も存在するが、その場合には上に挙げた諸条件のすべてが同一の性別を指し示していない、という事を意味する。そして、この時の前意識的な判断の結果(=性別不明)が、違和感という形で意識に上り、意識はその違和感に促されて「この人は男か?女か?」と悩むのである。

 そして、この前意識的な判断は通常、私達の行動の基礎になっている。例えば、「性別不明」な人間が一人くらい目の前にいるだけならば単に違和感を感じる程度だが、「性別不明」の人間に取り囲まれたような状況では、どのような行動をとってよいのか判らずに「固まって」しまう。以前、性同一性障害の当事者の自助グループの集会に、当時の哲学の講座で知り合った数名の方達においで頂いたところ、やはり例外なく「固まって」いたことがあった。意味分節不可能な世界に投げ込まれると、自分がどのように行動してよいのか、その根拠を得ることが出来なくなるのだ。

 ここまでをもう一度繰り返すと、「無意識」とは、「意識が直接に認識の対象とすることの出来ない」、「意識が働いている状態においても何らかの働きをすることが出来る」ものであり、「意識や行動の根拠」としての意味分節を、前意識的に行う。あるいは、その働きそのものだという事が出来る。


4.「無意識」は事後的に認識される

 では、私達の意識は「意識が直接に認識の対象とすることの出来ない」はずの「無意識」という概念を、なぜ持つ事が出来るのだろうか。

 私達の意識にとって、そのきっかけとなる対象は、おそらくは自己の、あるいは他者の(私達の意識に知覚可能な)言動である。「無意識」は「意識が直接に認識の対象とすることの出来ない」ものであっても、無意識的な動きとか、ふと口を衝いて出た言葉などは認識可能である。むしろ、私達はその認識に基づいて事後的に、それらの言動の背景に「無意識」の存在を想定しているのだ。

 もっとも、これだけならば「無意識」という他に「気の迷い」とか「魔がさした」、あるいは「つい」とか「ふと」、「思わず」という表現もありえる。まさに「無意識」とは「思わず」であり、時にそれがネガティブに働いた場合には「気の迷い」とか「魔がさした」などと表現される。あるいは「錯誤」と表現されるのである(もっとも、そのすべてが真に「無意識」的なものであったかどうかは、これは別問題なのだが)。

 なぜか、ポジティブな表現が見当たらないような気がするが、これはおそらく「無意識」が錯誤の塊だからではなく、錯誤を犯してしまった場合に「なぜこんな事をしてしまったのだろう」と考える動機が生じるからではないだろうか。逆にいえば、日常において何の不都合も感じない状態では、「無意識」について考える(あるいは「無意識」の存在を想定する)動機を、私達は持たない。都合の悪いときだけ引っ張り出されて「お前が悪い」といわれるのは、「無意識」に気の毒なようでもある。


5.影響を受け、影響を与える「無意識」

 意味分節不可能な世界に投げ込まれた人間が「固まる」という事については、既に触れた。ところが上に挙げた例では、しばらくそのままでいる内に、「意味分節不可能」なはずの外界に対して、なんらかの意味分節が可能になってくるらしい。平たくいえば、「事情が飲み込めてくる」わけだ。もちろん、これは純粋に「無意識」の働きであるわけではなく、知覚を通して取り入れられた外界の情報と、それを受けた意識の必死ともいえる働きが存在している。そして「無意識」は何らかの形でそれを取り入れ、その場に相応しい意味分節の原理を作り上げるのである。

 別の例を挙げると、「ひらめき」ということがある。例えば、難しい数学の問題に取り組んでいて長い時間を掛けて考えていると、ふと「判った!」という衝撃(インパルス)がやって来ることがある。それから計算式を立て、計算を行い、答えを出す。ところで、「判った!」という衝撃が訪れた時、これらの計算式や計算は、意識上には存在しない。ただ「判った!」があっただけだ。この「判った!」は、頭の中で計算式を立て、一通りの計算が終わったあとで(つまり答が出た時点で)やって来たのではなく、むしろそれらに先駆けてやって来るのである。計算に限らず、何かについての事情を理解した場合も同じで、先に「判った!」があって、あとからその事情についての長い説明が出て来るのだ。

 この「判った!」が計算式や言葉による説明に先立つものである以上、「判った!」の時点では、計算式や説明それ自体ではなく、それを可能にする何かが、その内容が意識の明確な対象とならないような仕方で私の中に生じたと考えるより他ない。その瞬間に私達の意識にやって来るのは「判った!」という確信だけであって、その一瞬の中にすべての計算式や説明の羅列が思い浮かんだわけではない。逆にいえば、それにも関わらず私達は、「判った!」という衝撃がやって来た、まさにその瞬間に自分がすべてを理解したと確信せずにはいられないのだ。

 以上のことから、「無意識」は意識に対して、その活動の根拠としての意味分節を与えるだけでなく、逆に意識や知覚からの情報を受けて、それに「適応」すると考えられる。つまり「無意識」は意識や行動に根拠を与えると同時に、意識や知覚(=経験)から影響を受けて編み替えられるのである。

 ここまでに述べた「無意識」の性質について、もう一度まとめ直してみる。

  1. 認識の事後性(リアルタイムな認識の不可能性)
  2. 意識や行動の根拠(前意識的な意味分節)
  3. 適応性(上記2と併せて、意識や知覚、行動との相互影響関係)

 これをさらに一言にまとめるとすれば、「身体化された行動原理」という事になるだろう。またその存在は身心二元論を考える場合、人間をきれいに身心という二つの実体に切り分けることを許さないような、両者にまたがる「身心未分の領域」として浮かび上がってくるのである。


6.「身体化された行動原理」について

 上に、「無意識」とは「身体化された行動原理」であると書いた。以下は蛇足なのだが、これについてもう少し考えてみたいと思う。

 最初の方に書いた「無意識(の内)に××してしまう」というのは、この考え方からいえば、「身体化された行動原理」が意識を介さずに直接に言動として現れてしまうことであり、またそれが何らかの意味で不都合なものであった場合に「錯誤」と呼ばれると考えることが出来る。

 それから以前に、岸田秀氏の本を読んだ時に、「抑圧された記憶が無意識に追いやられる」あるいは「無意識とは抑圧され意識から追いやられたもの」という意味のことが書かれていた(この元になるのは、フロイトの考えであろう)。しかし上の考え方でゆけば、抑圧された体験の記憶が「意識」から「無意識」へと所在を移したのではなく、記憶が「意識」から消え去っても、その記憶の元になった経験が「無意識」に与えた影響がそのまま「無意識」に残っているのだと考えられる(つまり、意識上で抑圧が起ころうが起こるまいが、「無意識」はそれ以前に既に影響を受けてしまっており、それは別の方法で編み替えられない限り残り続ける)。

 したがってこの考え方からいえば、抑圧された記憶が何であったか、過去にどのような体験があったかが重要なのではなく、あくまでも現在の自分が持っている「身体化された行動原理(や価値観など)」が何であるかが重要だ、ということになるだろう。

 そして、ここで考えた「無意識」は、おそらくは私達にとっての「現実」を支えてもいる。「知覚」は「記憶」「想起」「想像」などとは違って、意識の自由にならないという性質がある。しかし私達は時には、目の前で起こっていることでも「現実」として受け入れることが出来ない場合がある。理解出来ない、信じられない、「まるで夢を見ているような」と表現されるような場合がそれである。つまり、意識の自由にならないものでありながら、それを「現実」として受け入れる事が出来ない、あるいはそれを「現実」だと認めるのに時間がかかる場合があるのだ。

 「知覚」が意識にとって現実感を伴うためには、おそらく「無意識」がそれを支えるような在り方をしている、あるいはそのように編み替えられる必要があるのではないだろうか。目の前で起こっていること(知覚)を、意識が受け取っていても、それに対して現実感が持てないという状態を、私達は「頭では判るが、腑に落ちない」と表現する。私は日本語では古来、おおまかには「意識」を頭、「無意識」をそれ以外の身体部位、例えば「腑」や「肚」(腹)などに当てはめて表現して来たのではないかと考えている。逆にいえば、「腑に落ちる」というのは、前述の「判った!」ということでもあるわけだ。

 これはまったくの私の想像の遊びなのだが、もしかしたら昔の日本人は「無意識」が何かしら「身体」と関係の深い「精神」であることを、直観的に知っていたのではないだろうか。

L.Jin-na


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