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■■2000年03月19日■■「意識」と「無意識」
前章では「無意識」について考えたが、今回も引き続き「無意識」について、そして同時に「意識」についても考えてみたい。
このテーマについて考える場合、どうしても心理学の存在が気になるのだが、前章でも触れたように、例えばフロイトの心理学では、「無意識」は抑圧された欲望の溜まり場になっていた。しかしこれは私には、あくまでも「意識」を中心に据えた見方ではないかと思えて仕方がない。あるいは、人間中心的な考え方、人間を他の動物と区別する前提に立った西洋キリスト教的な考え方に思えるのである。
しかし、例えば昆虫に「意識」はあるか。この問い自体は正確な答えは出ないものだが、しかし彼等が人間と同等の「意識」を持ち合わせているとは考え難い。むしろ、ひたすら「無意識」のみによって動いているようにさえ感じられる。つまり彼等には「思考」の存在が感じられず(ただし「迷い」を感じる事はあるが)、一種の自動機械のような印象を受けるのである。おそらく『ファーブル昆虫記』を読んだことのある人なら、私と同様の印象を持つのではないか。
ところで、ここで一つ触れておかなくてはならない問題がある。私達が自分自身の意識(主観)体験だけを根拠にものを考える場合、他者(ここでは人間)が「意識」を持っていることを証明できないと言うことである。これはつまり、以前に説明した現象学的な思考法においての話であって、実をいえば私自身、他者が「意識」を持っていることを本気で疑っているわけではない。それにも関わらず、確かに私達は他者が「意識」を持つことを証明することは出来ないのである。しかし、なぜ私が他者の「意識」の存在を確信しているのか、ということについてならば現象学的に考察は可能であろう。
つまり、私達はどのような場合に、他者の「意識」の存在を感じるのか、それを考えればよいのである。これは簡単に言えば、つまりは「思い入れ」の問題であろう。私達は相手に感情移入した時に、つまり相手の立場に立って考えたときに、相手にも同様に「考える」という事があるはずだと思うのである。だからこそ、私達は芝居を見る時に、単に「舞台の上で役者が演技をしている」という事実を越えて、そこで展開される物語の登場人物に感情移入をし、感動したり悲しんだり喜んだりすることが出来る。その時に自分の目の前にいるのは「役者」ではなく、あくまでも「登場人物」である。
また、どう見ても人間だとしか思えないような精巧に作られたロボットはもちろんのこと、一目見て作り物だと判るような犬のロボットに対してさえ、その動き方如何によっては、私達はそこに感情の存在を感じるだろう。おそらくは、他人の気持ちになって考えるという、一見ヒューマニズムの立場に立ったような考え方でさえも、掘り下げて考えれば、原理的にはこの事と同じはずである。
しかし私の考えでは、これを直ちに「錯覚」とか「思い過ごし」であるとして無視してよいと考えることは、あまりに早計に過ぎる。私達一人ひとりの主観において他者の「意識」の存在が証明不可能であるとしても、他者の気持ちを考えることによって、私達は他者との関係をうまく形作ってゆくことが可能であり、このことは否定できない事実である。言い換えれば、私達が他者に「意識」の存在を想定する能力は、私達がお互いにうまくやって行くために不可欠な能力なのである。
この「意識」というものを、現象学ではどのようなものと考えているのか。「意識は必ず何ものかについての意識である」と考える。何のこっちゃと思うかも知れないが、こういうことだ。まず、ここでいう「意識」というのは、フロイトの心理学から受け取れるような「場所」あるいは「器」のようなものではない。こういうフロイト的な考え方をすると、「意識」という「器」の中に、意識内容という中身が入っているような印象を受ける。だが現象学では、意識をこのように実体化して考えず、「意識」とは必ずある対象についての意識(意識内容)であると考えるのである(この考え方はフッサールの師であるブレンターノの「記述心理学」から来ているらしいが、それはとりあえず、ここではどうでもいい)。
「意識は必ず何ものかについての意識である」というのであれば、おそらくこの意味での「意識」は人間でなくても、程度の差こそあれ、持っていると考えられる。例えば犬が口に肉をくわえているとして、それを他の犬が見た場合、後者の犬は目の前に肉があるからといって、直ちにその肉を目掛けて走り出したりはしないだろう。肉は欲しいが、アイツとケンカしたら負けそうだとか、何らかの判断がそこに働くはずである。
岸田秀氏は、人間は本能が壊れた動物だといい、その意見には私も同意するが、では上記の場合の犬の「判断」は本能か。岸田氏のいう「本能」とは、訂正不可能なもの、ひとたび解発されたら物理的に不可能な条件がない限り、本能の命じるままに動く、そういうものであろう。だとしたら、判断が働く余地がある行動は、少なくとも岸田氏の言う意味での「本能」であるとはいえないだろう。また当然、学習によって身につけた行動も「本能」と呼ぶことは出来ない。しかし、少なくとも鳥類や哺乳類は学習が可能な動物であり、その程度に応じて「本能」が壊れた動物だといえる。
これは以前にも書いたことがあるが、アザラシの赤ちゃんを浅いプールで育てると、あの海獣に特有の鮮やかな泳ぎを学習する機会を得られず、成長後に深いプールに放り込むと溺れる。俗に、「生まれつき泳げないのは人間とサルだけだ」というが、少なくともアザラシをそこに加える事が出来る。では、「生まれつき泳げる」というのはどういう泳ぎ方かというと、いわゆる「犬かき」である。とても「鮮やか」とはいえず、もしアザラシがそのような泳ぎ方を覚えたとしても、魚を捕る事ができずに飢えて死ぬしかないだろう。
もっともそれだけならば、この例は人間がアザラシに与えた環境によるものであって、少なくとも野生のアザラシならばその心配はない、だからそれは不自然なたとえであって、参考にならないという反論があるかも知れない。だが、多くの肉食獣や猛禽は「狩り」を学習によって身につける。しかも過剰な攻撃を控えて、最低限の攻撃で獲物をしとめる。むしろ、相手が息絶え絶えになっても攻撃を止めずに(実は、止められないのだが)、無残な仕打ちを続けるのは、そういう学習をする機会がなかった草食の鳥獣の方なのである。したがって、肉食獣や猛禽は、「本能」として狩猟行動をするわけではない。そういう本能は彼等にあっても壊れたか、もしくは最初から存在しないのである。
強いていえば、鳥類や哺乳類には「学習する」という事が「本能」として備わっているのではないか。そう考えてみると、人間の子供だけが嫌々ながらに勉強しているような気は、しないでもない。岸田氏は、人間は本能が壊れた動物なので文化を作ったというが、もしかしたら、人間は学習するという本能が壊れたので学校を作った、ということは言えるのかも知れない。ただし、この部分は余談である。
私の考えでは、動物は進化の過程において、本能に支配される割合が少なくなり、その代わりに脳が、特に大脳が著しく発達した。なぜかといえば、本能に支配される割合が少なくなった分だけ、「判断」が必要とされるからである。おそらくそれは、動物が対応できる状況の幅を広げ、生存のためにより有利に働く戦略だったのではないかと思う。少なくとも岸田氏が主張するように、人間だけが突然に「本能」が壊れたとはどうしても思えないのである(ただし、岸田氏も後に、霊長類にも本能の壊れが見られることは認めるようになったそうである)。
解剖学的にいう大脳の発達という現象が、判断能力の増大と関係していることは、まず間違いない。つまりはそれがそもそもの「意識」であるか、少なくとも「意識」の萌芽であろう。また、「意識」が判断のために生じたものであれば、「意識は必ず何ものかについての意識である」のは、当然の話でもある。
もっとも、私も岸田氏が言うように、人間が他の動物には見られないような特殊な性質を持っているという事には、異論がない。そして、それはやはり人間だけではなく、霊長類の少なくとも一部には同じ事が起きていると思うのだが、それは何かというと、「本能」が壊れたことではなく、「意識」が「意識」自身の存在に気付いてしまったということだと思っている。つまり、「意識は必ず何ものかについての意識である」ということの中に、「意識についての意識」というケースが生じた。これこそが、人間に特有のややこしさの源泉であり、自我の成立の必要条件であると同時に、哲学や心理学を成立させてもいる、最も根本的な条件ではないか。
例えば、「意識についての意識」が生じるとすれば、またその意識についての意識も生じるということが有り得る。さらにその意識についての意識・・・と考えると、これは果てのない思考にならざるを得ない。昔、まだパソコンが自分で BASIC 言語を使って動かさなくてはならなかった頃によくやらかした「無限ループ」のようなものである。プログラムの場合には、これはバグというよりも、単純にエラーなのだが、意識の存在に気付いた人間の意識は、しばしばこのエラーを起こすのである。
もっとも、カントによれば、これも「理性」の働きということになるのかも知れないが(そして現に私が今、そのエラーを起こしているような気もするのだが ^^;)、こういう場合には「無限ループ」の必要性を検証して、必要がなければ適当なところでブレーク・キーを押すより他に仕方がないのであろう(もっとも現在のパソコンには、そのブレーク・キーが存在しないのだが・・・ ^^;)。
さて、そうすると「意識」は、「身体化された行動原理」である「無意識」よりもあとから生じたものである。したがって「無意識」とは、単なる抑圧された欲望の溜まり場ではありえない。もし仮にそうだとすると、動物は進化の過程で将来に意識が発生し、そこで抑圧が起こるであろう事を予測し、「意識」に先立って「無意識」という領域を用意しておいたという話になってしまうからである。これに納得する人は、たぶんいないだろう。
むろん、前章での「無意識」の本質直観は、現象学的に行なったものだから、証明不可能な(意識に認識されない)「無意識」を実体的なものとして想定することは出来なかった。しかし、私が「無意識」を何か実体的なものとして考えなかったのは、「無意識」をあくまでも「構造」ではなく「機能」として考えていたからでもある。「意識」が「意識と意識内容」ではなく「必ず何ものかについての意識である」のと同様、「無意識」も何らかの働きそのものと考えないと、上のような矛盾が生じてしまう。
仮に「意識」と「無意識」との関係を構造的に語ることがあるとしても、それはあくまでも言葉の上での表現に過ぎず、おそらくは人間が持つある働きのうち、意識の対象になる部分とそうではない部分とを、仮に「意識」と「無意識」とに呼び分けているに過ぎないのではないか。それを、「意識の領域」と「無意識の領域」を想定して、それぞれに場に割り当てると、そこから人間の心理についての「物語化」が始まるのではないかと思う。なぜなら、「意識の領域」と「無意識の領域」という想定そのものが、既にフィクションなのだから(少なくともその存在は証明不可能なのだから)、その上にどんな理論を組み上げても、「物語」が大きくなるだけではないか。
私は前章で、
と書いたが、これはつまり、問題の解決(あるいは神経症の治療)にあたって、その原因になった経験が何であったかは、問題の本質ではないということでもある。大切なのは、過去に溯ってトラウマの原因になった出来事を探ることではなく、今現在の自分の内側にどのような「身体化された行動原理」を抱えているかを「自己了解」することであろう。あるいは、それに基づいて他者との関係の持ち方を、よい方向へと編み替えてゆく事であろう。
もっとも、「あなたは過去のこのような経験がトラウマになっているのです」という説明も、「物語」を通じた一種の「自己了解」だと言えない事もないから、それが役に立つものである限りは、捨ててしまう必要はないし、また捨てるべきだといっているのでもない。ただ、ここでは、それが「使える」という事と、それが問題の本質であるという事とは別だという指摘はしておきたいのである。
さらに性同一性障害に関していえば、自分の性自認がどのような理由で現在のようなものになったのかを知ることにも、本質的な意味はない。それはせいぜい、自分の先祖の名前が記された家系図を眺めるようなもので、それによって幾分かは自己のアイデンティティの安定が図れるという人もいるだろう。
しかし、それは今現在、自分が置かれた状況にどのように対処してゆくかという事を考える助けにはならないし、またそれが判れば性自認が身体の性と合致するというものでもない。最近の若い人にはいないと思うが、かつては男の子を女の子の姿で育てると丈夫に育つという俗信があり、年配の女装者の中にはそのように育てられたと述回する人が、そこそこの割合で存在していた。しかし、それが判ったからといって女装をしなくなるというわけではなく、それはむしろ女装の理由付けとして語られていたのである。
それよりも、今現在の自分を知るという事(自己了解)、それを踏まえて、そういう自分が今後どのように生きてゆくのかを、前向きに考えることの方が、本人にとって重要な問題であるはずなのだ。むろんその中には、そういう自分が他者とよい関係を作ってゆくにはどうしたらよいのかという事も含まれる。
性同一性障害が「精神疾患」として定められているのは、単に性自認が身体の性と合致しないことを「病気」だということではない。それを契機にして他者との接点を絶ってしまったり、あるいはその反動形成として他者(あるいは世間とか社会)を責めたりして、「よい関係」を作れないような、その強迫神経症的な在り方が、本人にとっても周囲の人間にとっても問題なのである。
