りゅこ倫

■■2000年04月07日■■

ラングとパロールの難問

 前回の、「『文化』とは何か」の続きである。前回の最後は、「文化」や「ラング(言語)」を実体化して捉えると、そこから誤りが始まる(あるいは難問が生じる)という話で終わった。もしかしたら、ソシュールでさえも、このような勘違いをしてはいなかったか。

 先日買ったわかりたいあなたのための 現代思想・入門』という本(宝島社文庫)に、そう思えるところがあった。ちょっと長いが引用してみる。

 しかし、この記号学の発見によって、ソシュールは困難な問題をかかえ込むことになる。
 ここで、冒頭の都市と森の話を思い出してほしい。
 都市の旅行者は、都市にさまざまな意味を見いだした。これは、これまで見てきたように、都市の外観がそれぞれ記号化し、旅行者はその記号に含まれたメッセージを読みとってゆくのである。
 では森はどうか。旅行者は森をそのまま森として見ることはできない。まず、さまざまな言葉が頭のなかに浮かび上がり、即座に森を分節化してしまう。「樹海」「広葉樹林」「針葉樹林」「ブナ」「ヒノキ」その他いろいろ。
 旅行者の目前に広がる自然は、すでにラングによって切りきざまれているのだ。われわれと自然との自由な関係を、ラングは疎外してしまう。
 ラングにはもともとそのような力があり、ラングなくしては、われわれの文化は成立しない。これは事実である。しかしラングは恣意的体系であり、パロールによって変更可能な体系である。感動的な光景を前にして発せられる言葉は、ラングの専制を離れ、新しい意味、分節化を生み出すことが可能なのだ。パロールによって、自然は新しい姿を見せる。われわれはその姿を確立することが可能なのである。
 だが、ラングは文化を惰性化する。歴史によって積み重ねられら文化/ラングは、パロールの可能性を疎外するように機能するのである。われわれが自然を前に発した言葉は、その多くが以前に誰かが言った言葉なのだ。

(上掲書、PART3「記号論という新しい波」・志賀隆生、P152〜153)

 ここでは、私が上で、個々の在り方(パロール)が文化(ラング)を変えると書いたのと同じ事が述べられている。その上で終りの方の「だが、ラングは文化を惰性化する」以降に、ソシュールが抱えた「困難な問題」が述べられている。

 そのはずなのだが、正直にいうと私にはこれのどこが「問題」なのかが、よく理解できないでいる。「困難な問題」どころか「当たり前の話」としか思えないからである。だから「勘違い」をしているのはソシュールではなく、実は私かも知れないのだが、それでも敢えて私の考えを書いてみる。

 察するところ、おそらくソシュールは(やはりサルトルがそうだったように)、人間は自由な存在である、あるいは、自由であるべきだという項目を、自らの言語学に持ち込んだのではないか。つまり彼は、これを単なる言語学あるいは記号学の上での問題としてではなく、「人間にとっての自由」という問題として取り上げたのではないか。

 ソシュールの言語学は、言語が「いかにあるか」についての事実認識だ。その限りでは、とても深い洞察がなされていると思う。ところがその中に「人間は本来自由であるべきだ」という一種の仮定を置くと、その瞬間に、認識された事実(言語の在り方)と仮定の間で矛盾が生じる。しかしこれは言い換えれば、ソシュールが「人間は本来自由であるべきだ」という仮定を置いたことによって、自ら難問を作り出したという方が正確なのではないか。

 この事を、もう少し噛み砕いて書いてみよう。人間は自分が思ったことを言葉によって表現する事が出来る。人間が、例えば私が発した個々の言葉(発話)をパロールという。私のパロールは、日本語という言語によって行われる。日本語の文法に従って日本語の語彙を用いるのだ。ここでいう「日本語」(言語)が、ラングである。

 日本語は私だけでなく、他の同時代人も使う。私も含めた皆のパロールから、日本語というラングが「いかにあるか」(単語の意味や文法など)を取り出すことが可能だ。しかし逆に、上にも書いたように、私達の個々のパロールは、日本語というラングに従って成り立っている。そうじゃないと他に人に言葉が通じないし、それ以前に誰も私の言葉を「日本語」として認識しないだろう。つまり、私が何を表現しようと思っても(また、実際に表現しても)、それは常に日本語というラングの制約を受けるのだ。もちろん、そこからいくらかは「はみ出す」事は可能なのだが、完全に離れることは出来ない。また、それらの「はみ出し方」はラングに回収される。例えば、皮肉というのは言葉通りに受け取ると意味が通じないものだが、一度誰かが使えば、その後は「皮肉の言い方」として日本語というラングに含まれる。こうして、日本語しか知らない私の自己表現は、常に日本語というラングという枠の中においてのみ可能だという事になる。「文化/ラングは、パロールの可能性を疎外するように機能する」というのは、おそらくはこういう事を言っている。

 この事は、ラングを「文化」に、パロールを個々人の好みや諸々の行為に置き換えても、まったく同じ事がいえる(言語も文化の一部だから、ここでいう言語の話を文化に拡大解釈出来るといってもいい)。


 以上は当たり前の話なのだが、しかし「人間は自由な存在である」という仮定をここに置くと、直ちに矛盾が表れる。「人間は自由な存在である」というこの仮定は、人間は文化やラングという枠組みから自由な在り方をすることは出来ない、という事と矛盾するからだ(もちろん、英会話が出来る人は日本語というラングから抜け出す事が出来るが、それは英語という別のラングにとらわれることでもある)。

 このような、ソシュールの「困難な問題」は、この問題という土俵に、彼と一緒に上がって悩んでも解決不可能だろう。そうではなくて、おそらくはそもそもの「問いの立て方」に問題がある。ソシュールは、自分がこの「困難な問題」を抱えたときに、まずはなぜ自分がそういう問いを立てたのか、自分が「人間は自由な存在である」と考えるのはなぜかを問うべきだったのだ。


 一つは、人間が自由であるはずだという仮定が、そもそもおかしいのである。これは、人権天賦説などにも通じるものだが、人間がそもそも自由であるならば、あるいは人間が本当に生まれながらに人権を持っているならば、なぜ人間は、わざわざ自由や人権について定め、これを守ろうと努力しなければならないのか。そういう能天気なことを考えれば、どうしたって現実との間に矛盾が生じて「困難な問題」を抱える事になるのだ。

 またそこでは、「完全なる自由」という事が、一つの「真理」として置かれている事になる。ソシュールは、おそらくその事に気付いていないのではないかと思う。というのは、考え方によっては、「完全なる自由」と「真理」とは、相反する概念でも有り得るからだ。

 「真理」を得るということは、この世界のあらゆる事が判るという事だ。だから、例えばマルクス主義なんかでも、「科学的認識」という事をいって、それを「歴史的必然」という事の前提にする。しかし、もしそんなことが可能だとしたら、私達は自分達の運命をすべて知ってしまうという事になる。つまり、私達がこれからどう在るかという事は、既に決まっているという事になる。ここでいう「自由」というのは、私達の未来が既に決められているなどという事があるはずがない、という「真理」への反発に根を持っている。

 だが、これは結局は同じ事なのだ。なぜならば、私達が自分の未来を知ることが出来ないということは、すべてが自分の思いのままになるわけではないという事でもあるからだ。この事は、「真理」はもちろん「完全な自由」とも矛盾する。そもそも、人々が「真理」を求めようとするその根底には「完全な自由」を求める心が存在しており、「真理」を求めるという事は「完全な自由」を得る事を動機とした手段なのだ。


 もう一つ、ソシュールの難問の原因になっているのは、おそらくはソシュール自身がこの時に、自分の「言語」についてどういう見方をしているかという事を忘れていた事にある。

 ソシュールの言語学は、言語が「いかにあるか」を見るものだった。言い換えれば、彼の言語学は言語しか見ていない。もちろん、言語学の在り方の一つとしては、それはそれで構わない。それも立派に、一つの見方だからだ。だが、「自由」の問題は基本的に、言語にとっての問題ではなく人間にとっての問題である。ところが彼は、この問題を考える時に自分の「言語しか見ていない」言語学にこの問題を持ち込んだのだ。

 「言語しか見ていない」彼の言語学では、人間の世界分節は自分が使っている言語(ラング)に規定される。つまり、自分の言語学の研究成果を踏まえて、ソシュールは人間が世界分節をすることの原理を、ラングに還元してしまう。そうでなければ、彼の難問は生じない

 だが実際には、人間の世界分節というのはそんな一義的な還元が出来るものではない。例えば日本語という同じラングを共有している人達の間でも、興味の持ち方によって世界分節のありようはまったく異なるのだ。

 この「興味」というのは、大昔ならば「生きる上で必要な知識」が大部分を占めたのではないかと思う。例えば、キノコの研究をしている学者なら、彼が知る限りすべての種類のキノコを、その学名に分節するだろう(要するに見分けて分類するということだが)。しかし、山に生えているキノコを採取して食用にする人にとっては、一つひとつのキノコの名前は知らなくても「食べられるキノコ」と「毒キノコ」という二分法(これも世界分節だ)は最低限使う。キノコ学者に比べればきわめて大雑把な分類だが、しかしこの分類を知らないと自分の命が危ない。そういう人が山に入る時には、蛇も「マムシ」と「ヤマカガシ」と「その他の蛇」の見分けがつけばいい(地域によっては「ハブ」を知らないと危険だが)。

 現代では、この「興味」の種類が増える。自分が生きていく上では知らなくていいような芸能人の名前にやたら詳しい人もたくさんいる。私など、芸能人もそうだが、ブランド名もよく判らない。先日もある女の子が私の財布を見て、「これは××じゃないですか」といった。「××」とはあるブランド名なのだが、伏せ字にしてあるのはそれを隠す必要があるからではなく、私が覚えていないためである(私は自分の財布がブランド物であることさえ知らなかった。店頭に並んでいた中で、使い勝手の一番よさそうなものを選んだだけなのだ)。

 これを上の表現で言い換えれば、この女の子と私とは、若干(?)異なる世界分節の中で生きている。その証拠に、ときどき言葉が通じない(たぶん先方もそう思っているだろう。ふん!)。これがソシュールのいう「自由」か?

 私の考えでは、ソシュールは「自由」について考える前に、人間の「生」について考えるべきだったのだ(それは実際には、フッサールハイデガーの思想を待つ必要があったのだが、待ちきれずに亡くなってしまった)。

 人間の世界分節は、上に書いたような広い意味での「興味」の持ちようの問題である。毒キノコやマムシのように「遠ざけたいもの」や、芸能人やブランド品のように「引かれるもの」(遠ざけたい場合もあるかも知れないが)、正負いずれにせよ、そこには人間自身の「興味」による働きかけがある。いつの時代にも、誰にとっても、興味のないものは分節される動機を持たず、「その他」という未整理箱に放り込まれるのだ。あるいはせいぜい「バイク」とか「さかな」という、一般名詞レベルの分節しかされない。逆に、興味のある人ならばこの分類はとてつもなく細分化される。単なる「さかな」でも「イワナ」でもなく、「俺が去年の夏に○○山の渓流で釣った、一尺以上もある光り輝く山イワナ」になったりもするのだ(この釣り自慢の世界分節は、通じるのが不幸なのか、通じないのが不幸なのか、よく判らないが、私の経験では前者である)。


 もちろん上に書いた事も、その多くは既成のラングによって成立している。あるいは、自分が強い興味を持つ分野に関しては、独自のパロールを発しても、それがラングに回収されてしまうという事もありうる。だが、人間にとって不幸なのは、むしろそういう独自のパロールがラングに回収されない場合である。それは自分の表現が他者と共有されないという事であり、あるいは数多くの仏教用語のように、言葉は流通してもその意味を知る人がいないという、シニフィエ(意味)なきシニフィアン(記号)を作り出す場合である。簡単に言えば「判り合える他者がいない」という事だ。

 しかし私達は、言葉を通じて自分に固有の「ほんとう」や「よい」や「きれい」を、それなりに表現する事が出来る。さらに言葉は、それらを他者と交換し合ったり、あるいは他者と共同で「自分達」の「ほんとう」や「よい」や「きれい」を編み上げることさえ出来る。むろん、言葉は逆に他者を傷つけたり、また言葉によって他者から傷つけられたりすることもある。だが、それは「言葉の使い方」の問題であって、「言葉」そのものの問題ではない。包丁で怪我をする人がいるからといって、この世から包丁をなくしてしまえという人がいないのと同じ事だ。

 もちろん、言葉によって表現される自分と他者の「ほんとう」や「よい」や「きれい」の、どちらが本物(真理)だという事ではない。そもそも、そんなものはない。しかし、何もかもが「個人の勝手だ」といって、バラバラでよいわけでもない。バラバラでもよいのは、それがお互いの不利益にならない場合だ。

 例えば、古銭と切手のコレクションはどちらが上かというのは、どうでもよい話である。どちらの趣味が「真理」だという事もないし、お互いに好きなものを集めていて不都合がなければ、それでよいではないか。

 しかし、バラバラでは済まない事柄もある。私はA氏を社長に推し、私のライバルはB氏を社長に推す。この場合、バラバラでいいじゃないか、私はA氏を、ライバルはB氏を、それぞれ社長だと思っていればいいじゃないか。そうはいかない。何もかもバラバラでよいのであれば、話し合いはいらない。バラバラでは困るから、話し合いをする。つまり言葉を使う(言葉ではなく他のもの、例えばお互いに腕力にものを言わせようとすると困った事になるのを、わきまえていれば・・・の話だが)。

 つまり、「完全な自由」などという観念をいきなり持ち込むのではなく、しかもそれを「人間は本来そういうものだ」という夢物語を現実と混同させるのではなく、「どうすればお互いが上手く行くのか」という、現実的な方法(手順・手段)を考えることが大切なのだ。

 もちろんそれは、「相手が私のいう事を聞けばよい」などという話ではない(でも、たくさんいるよね、こういう人)。そういう人は、「人間は自由な存在である」という仮定を置いた上、「人間」という言葉を、実は「自分」という意味でしか使っていないような人だ。あるいは「人間」という言葉を、「セクシャルマイノリティ(=自分達)」意味でしか使っていない人である。


 人間は、常に関係の網の目の中で生きている。自分という「主人公」から見れば他者は「脇役」かもしれないが、他者から見ればその人が「主人公」で自分が脇役なのだ。それが判らないと、お互いに「主役」を奪い合うような闘争が始まる。幼稚園や小学校に入ったばかりの男の子がやたらとケンカをするのは、その典型だ。あるいは、社会運動に舞台を移して、自分こそが「真理」を握ってると主張してみたりするが、本質的には同じ事である。

 ソシュールの言語学や、それにヒントを得たレヴィ=ストロースの構造主義、さらにその後のポスト構造主義(ポストモダン)などに優れているのは、「関係」という概念を前面に出したことだと思う。それはよいのだが、私の印象では「新しい展開」というよりも、「それ以前の思想に対する反動」という面が強く、それが彼等の思想を歪めているように思える。例えば「反・真理」、「反・ロゴス」、「反・同一性」などがそれだ。

 西洋の思想でいう「真理」は、座禅を組んで言葉に出来ない「何か」を悟るようなものではなく、言語(ロゴス、論理)によって考え、到達するものだ。だから「真理を得る」という事は「真理を言い当てる」という事でもある。そういえるためには、言葉(ロゴス)が物事を正確に表わす事が出来るということ(言い表す言葉と、言い表される対象との同一性)が前提になっている。そのため、「真理」を否定するために、「ロゴス」や「同一性」といったものまで否定することになった。しかし、その考えも「言葉」で表現するものだから、自分の言葉さえ相対化しようとしたりして、どんどんわけの判らないものになってゆく。

 例えば、デリダという人についての説明を読んだ時、私は彼の<脱−構築>というのはギャグの作り方の説明ではないかと思った事がある(^^;)。実際に、そういう使い方も出来ると思うゾ・・・。

 だが、そういう風土に生まれ育っていない私には、こういう事情はとても判り難い。たぶん、日本で多くの人達が「思想や哲学というのは、一体何をやっているのか」とか「わけの判らないことをいうものだ」という印象を持っている原因の一つは、ここにあると思う(そして、その印象は日本人にとっては正当なものだと思う)。日本で生まれ育って、しかも先に仏教なんかに馴染んでしまった私にとっては、真理を言葉で言い尽くせるとは思っていないし、だいたい「真理」という概念がそれほど強く擦り込まれていない。

 少なくとも私の理解では、禅の教えを一言でいえば「視線変更」なのだ。
 世界が輝いて見えたり(←これは実は私もかつて経験があるのだが ^^;)、
あるいは仏様の姿が見えるなどといって、「悟った」という者がいたら、
迷わず叩きのめすべきである。

 現在のポスト構造主義で本当に重要な核は「反・真理」だろう。他は、それをヨーロッパで納得させるために必要なものであって(必要ではあるのだ、かの地では)、私の目には今のところ、オプションにしか見えない。


 「関係」をどう捉えるかという事を私なりにいえば、それは「その都度の関係」であり、仮のものでしかないのだが、しかしそれは同時に、常に「仮にはある」という事でもある

 このように簡単に書くと、かえって判り難いものになってしまうのだが(^^;)、つまりこういう事だ。人々の在り方(私も含めて)に決まった在り方などない。人間に限らず、そんな在り方をしているものなどない。それはむしろ常に変化しているものだ。だから、その変化のある一瞬を捉えても、それはその時だけの姿、つまり「仮初(かりそめ)の姿」だ。

 例えば、私は生まれた時からずっとバイク便をやっていたわけではない(当たり前だ)。小学生だったり高校生だったり、公務員だったり、ニューハーフだったり、会社員だったり、その時その時の姿がある(あった)。職業だけの話ではない。一時的には(といっても10年近くだが)パソコン通信を主宰していたりもしたし、もっと端的には、コーラを飲みたくなったり、コーヒーを飲みたくなっていたりもする。だから、バイク便をやっていたり、ホームページにこういう文章を書いていたりするのも、それは「今の私」であって、私が常にそうしているわけではない。つまりこれも私の「仮初の姿」だといえる。

 では「私」は存在しないのかといえば、そんな事はない。「私」は今、このような「仮初の姿」で皆さんの前にいるのだ。注意すべきなのは、これが「仮初の姿」ならば、どこかに「真実の姿」があるとは考えないことだ。そういうものを想定すると、人はすぐに「真理」だとか「本当の自分」を探したくなる。しかし、そういうことではないのだ。

 今度は「私」ではなく、川を例にしてみよう。鴨長明が書き残した通り、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」である。「さっき」目の前の川を流れていた水はどこかに流れ去ってしまい、「いま」目の前に流れているのは「さっき」とは違う、どこかから流れて来た水だ。これを同じ川だと思うのは「移り変わり」という事を忘れて物事を固定的に見ているからだ。「さっき」の川も「いま」の川も、それぞれ「仮初の姿」である。だからといって、「本当の川」や「川の真理」を探し求める馬鹿はない。川は流れること(移り変わること)があるからこそ、その都度「川」なのだ。

 「私」も同じ事だ。私は単独に「私」であることは出来ない。世の中にさまざまな職業や、パソコンや哲学やコーラやコーヒーや・・・その他、数え切れないものがあって、またもちろんさまざまな人がいて、それらの事物、それらの人々との関係において、初めて「私」は「私」なのだ。そうでなければ誰も私を「私」だと特定することは出来ない。私は「私」ではなく、単なる観念上の「ひと」でしかなくなってしまう。いや、それどころか何の変化も見られない、死人やミイラのような「もの」でしかないだろう。

 だから「移り変わる」のは「私」というより、正確には「私」を取り巻く「関係」なのだが、私を取り巻く「関係」が変化するからこそ、「私」の有り様も変化する。私が「生きる」とはそういう事だ。

 だが、私は「関係」の変化に受動的に流されて「私」なのではない。その都度の「関係」(状況といってもよいが)に応じて、その与えられた条件の中で何が出来るかを考え、自ら行動することができる。ここにもう一つ、私が「私」であることの理由がある。同じ状況に置かれても、誰もが私と同じ行動をとるとは限らないからだ。私達の行動は、常にそれなりに状況によって条件を限定されてはいるが、しかし束縛といえるほどに決定論的に拘束されているわけではなく、なにがしかの選択の幅がある(乗っている飛行機が墜落したなど、選択の幅がかなり狭くなることは有り得るが)。

 「真理」は否定してもいい。「真理」それ自体が、上にいう「本当の川」や「川の真理」のようなもので、人間が作り上げた錯覚に過ぎないからだ。だが、だからといって、私が「私」であることを誰が否定できるだろうか。「真理」の否定とは、「いま」の私を「私」だとを固定的に見ないという事だ。しかしだからといって、どこかに「本当の私」があると考えるのも、やはり「真理」を求める事になる。これは「真理」がここにあると考えるか、それともどこか別の場所にあると考えるかの違いでしかない。

 また、この事は「私」がいないということとは区別されなくてはならない。それは逆に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と考えて、目の前の川の存在を否定するのと同じくらい馬鹿げた行為である。「私」とは私を取りまく関係であり、その関係の移り変わりであり、移り変わる関係に自ら行動することで関係する私である。

 また表現がややこしくなった。さっきは川だったから、今度は山を例にしよう。私が山の中で遭難したとする。私を取り巻く崖や草木や川の流れ、今にも雨が振り出しそうな空模様など、これが私の現在の状況(関係)だ。つまり、私に与えられた条件だ。そこで何もしなかったり、誤った行動を選択すれば、「死」が待っているばかりである。だが、私に与えられた一見して絶望的にも見える条件は、私の行動次第では、私が生きるための可能性も与えてくれる。食料になる木の実や葉を集め、ナイフと蔓草を駆使して木の枝や葉を組み合わせ、屋根をかけて雨に備える。続いて飲み水を得ようとしたが、雨が強く降り出して水の流れが濁ってしまった。そのままでは濁り水が与えられただけだが、竹の筒や小石、砂などを利用して水をろ過すれば、澄んだ水が与えられるのだ。周囲に散らばっている木の枝は濡れてしまっているが、ナイフで表面に何ヶ所も刻みを入れれば火の付きもよく、火力も強い。その前に、水に備えて大き目の石を並べて火床を作ろう。火を起こしたら、ろ過した水は念の為に沸騰させる。それにも竹筒を使う。中に水が入っていれば、竹が燃えたりはしない・・・。私は与えられた条件によって生かされ、同時に自らの行動によって生きている。これが「私」だ。

 すさまじい例になったが、こんな極限状況でなくても、普通は誰もが日々の生活の中で、他者と、あるいは周囲の事物と共に、自分の「生」を生きているはずである。普段のなにげない事、それを「生」の観点で見る事が出来るかどうか、それによってその都度の現実の(固定的でもなければ、空想的でも形而上的でもない)自分に必要なことを出来るかどうか。要するにこれが、上に書いた「視線変更」によるものなのだ。

 この時、ラングによる世界分節はやはり「仮初」のものになる。言語による切り分けがなくなるわけではなく、しかしそれにとらわれない在り方が、人間には可能なのだ。言語だけを見ていると、この事は見えてこない。

 ここまで書いて、ようやく気が付いた。ソシュールの難問は、実は、ハイデガーがその著書『存在と時間』の中で解決済みなのではないか。

L.Jin-na


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