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■■2000年06月04日■■「私」という確信
今回、以下に述べる事は、ほとんどの人にとってはどうでもよい事かもしれない。なぜかというと、具体的な問題についての考察というよりは、そういった考察を支えるような、認識についての根本的な問いと、それに対する私なりの答えだからだ。「知」の根拠と言い換えてもよい。内容としては、一年あまり前にこの「りゅこ倫」で扱った、「『どう解く』の系譜」(特にフッサールやハイデガー)に連なるものである。
フッサールの現象学では、「客観」という項目を廃止する。それ以前の哲学では、「主観は客観を正しく認識する事ができるか?」ということが、重要な問題になっていた。しかし、この「主観と客観の一致」という問題は、そもそもその一致を誰にも証明することの出来ない問いである。なぜなら、誰もが主観を持ち、その主観の中でものを考えていて、そこから外へ出られる人はいないからだ。そもそも、この問いは「客観」が存在しているという前提の上に成り立っている。しかし、本当に「客観」なるものがあるのか、といえば、これも同様の理由で証明不可能な前提なのだ。だから、「主観と客観の一致」という問いを立ててそこから考えはじめることが、既におかしい(ただし現在でも唯物論などでは、この証明不可能な「客観」の存在に固執している。そうしないと唯物論自体が成り立たないからだ。逆にいえば、唯物論とは証明不可能な「物語(フィクション)」であり続けるしかない)。
一方、「主観」の存在は否定する事ができない。もう少し正確にいうと、例えばいま私が「主観は存在するか」と疑っているとして、この「主観は存在するか」という疑いが私に対して現れている事、その事自体は疑いようがない。また、いまこの稿を書いている私の目の前にパソコンがある。しかし本当にパソコンがあるのか、と言われれば、それは証明する事ができない。否定できないのは、私にパソコンの像が現れている事、あるいは私の指先がキーボードに触れているその感触そのものである。こうした視覚や触覚が、客観的な事物としてのパソコンを正しく認識しているかどうかの保証はない。しかし、とにかくもそういった「認識」が現れているという事、その事自体は否定する事ができないのである。
いま上に、言語表現としての必要上「私が」とか「私に」と書いた。では「認識」に先だって「私」が存在しているという事なのか。そうではない。日本では普通、デカルトの「コギト、エルゴ、スム」という有名な言葉を、「われ思う、ゆえにわれあり」と訳す。これが「われ」の存在証明であるとすると、では「われ思う」の「われ」はいったい何なのか。「われ」の存在を前提に「われ」の存在証明をするというのは、明らかな誤謬である。デカルトが本来、これをどういう真意で述べたのかはとりあえず別にしても、少なくともこの日本語訳によって述べられている内容は正確ではありえない。ではこれを、どう解釈すればよいのだろうか。
おそらくこの問題の原因は、「認識」がある以上、「認識する主体」もまた存在するはずだという「思い込み」にある。デカルト自身も、
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そして「私は考える、ゆえに私はある」という命題において、私が真理を言明していることを私に確信させるものは、考えるためには存在せねばならぬということをきわめて明晰に私が見るということより以外に、まったくなにもない、… (『方法序説』中公文庫、野田又夫訳、P44) |
と述べているところを見ると、おそらくは同様の「思い込み」を自明の事としていたように思える。ただし、彼がここでいう「私」とは、身心を兼ね備えた人間としての「私」(いわば自然人としてのデカルト)ではなく、「思う」とか「考える」という精神活動が存在する以上、その主体としての「精神としての私」が存在するという事だ。それに対して、身体はその存在を疑い得るものと考えられている。また、それだからこそデカルトでは、この後に心身二元論が展開される事になるのだ。
しかし、私はこれをさらに疑ってみようと思う。「考える」でも「パソコンを見る」でもよいが、そういう時に私達は、「思考内容」や「パソコンの像」と、それを受け取る「精神」とを、認識の主体と客体という別々の存在として捉えているだろうか。そうではない。私達にとって(この「私」が問題なのだが)実際に現れているのは、「思考内容」や「パソコンの像」だけであって、それを受け取る「精神」なるものの存在はまったく認識していない。いいかえればこの場合の「精神」とは、「認識」がある以上「認識する主体」もまた存在するはずだという「思い込み」を前提として想定するしかないものなのだ。
したがって私はまずここで一度、フッサールが「主観−客観」という二項図式を廃止したように、「主体−客体」という二項図式も取り払ってみようと思う。実際に「ある」といえるのは「思考内容」や「パソコンの像」といった「認識内容」だけである。それも「認識」という働きがあって、それによって「認識内容」が得られるのではなく、むしろ私達はその都度の「認識内容」が与えられる事によって、「認識」という働きの存在を確信しているのだ。その意味では「認識」とはその都度の「認識内容」そのものであって、「認識内容」を取り払った「認識」そのものは存在しない。つまり、フッサールの師のブレンターノが「意識は必ず何ものかについての意識である」(意識=意識内容)と喝破したように、(同じ事だが)「認識=認識内容」なのだ。
そう考えると、「精神」の存在すらも疑わしくなってくる。というのは、いわゆる「精神」の活動とされている諸機能さえ「認識=認識内容」に還元できるからだ。例えば「思考」はその思考内容が「認識=認識内容」として現れ出る事によって初めて「(私は)考えている」ということが認識可能なのだ。そう考えると「私」とは、現れ出る「認識=認識内容」そのものであるという事になる。それ以外に、どこに確固とした(実在としての)自分が「ある」といえようか。
こう書くと、ほとんどの人が「そんな馬鹿な、無茶苦茶だ」というだろう。それは当然のことで、なぜなら、デカルトも含めて、実際には自分の存在を疑う人はまずいないからだ。私自身、実は自分がこの世に存在しないのだと本気で考えているわけではない。ではなぜこんな事をいうかというと、自分の存在を確信しているにもかかわらず、「認識=認識内容」以外の存在証明が不可能だからだ。しかし、「私」という存在が客観的に存在しているかどうかという事と、私が「私」の存在を確信しているという事とは本質的に別問題である。
なぜなら、「私が存在している」という「認識=認識内容」が現れているという事、それ自体は疑いようがないからだ。もちろん、「私」という存在が客観的事物として存在しているかどうかは証明できないし、したがって、「私が存在している」という「認識=認識内容」が、事実と一致しているかどうかを問う方法もない。「私の身心」についても同じことで、まさに「無我」であり「身心脱落」である。
「私」がいて様々な事物を認識しているのではなく、「私」という存在(あるいは「私」という概念)もまた、現れ出る「認識=認識内容」なのだ。「認識」があるから認識する主体としての「私」があるのではなく、「認識=認識内容」そのものが主体なのだから、「誰が認識するのか」という問い自体が、ここでは一度無効となる。より正確にいえば、ここでは「主体−客体」の区別そのものが無意味になる。
だから次に必要な事は、デカルトのように「私」の存在証明をすることではなく、「私」が存在するというその確信成立の条件と、「私」の意味本質を問うことなのだ。つまり、「私」があって「認識=認識内容」があるのではなく、「認識=認識内容」があって「私」(という概念)があるのである。
しかし、その前にもう一つ付け加えておかなくてはならない事がある。なぜここで身心の存在を疑う必要があるのかという事だ。その主な理由は、ここまで述べてきたように、原理的にそれ以外に考えようがないためである。それに、「私(自分)」とは何かが判らなければ、「アイデンティティ」について語るにせよ、「性自認」について語るにせよ、そもそもの前提を欠いた、文字通りの「虚仮(こけ)」のような議論にしかならないだろう。だが普通は、こんな事を疑う人はいない。というよりも、疑う動機をほとんどの人は持たないだろう。
また唯物論者であれば、まず身体が存在しているから「身体がある」と認識するのだ、というだろう。しかし、それでは性同一性障害は説明できないか、あるいはその存在を否定されるしかない。なぜなら、(MTF の場合でいうと)男の身体を持っている以上、その身体にしたがって「自分は男だ」という性自認を持つのが「正しい認識」だという話になってしまうからだ。だから、唯物論に忠実である限り、性同一性障害の性自認を説明できないか、せいぜい「その認識は間違っている」というしかない。
もちろん私はそういう説には組しない。上に述べたように、唯物論ではそもそも認識問題(主観と客観の一致)が解決不能だからだ。認識問題が解決不能になるような論理にしたがって「あなたの認識は間違っている」といわれるのでは、まったく本末転倒である。
では、「私」とは何か。上に挙げたように、現れ出る「認識=認識内容」そのものである。ところが私達は、その「認識=認識内容」をさらに「私」と「その他」に裁断する。「無我の私」から、なぜ「実体としての私」が存在するという確信が生じるのか。その根拠は何か。その前に、まずはもう少し、「無我の私」について考えてみることにしよう。
「無我の私」が「認識=認識内容」そのものであるなら、いかなる認識内容も現れ出ない状態においては、「無我の私」でさえも存在しているとはいえない。ここで仮に主体と客体という考え方を再び招き入れたとしても、「無我の私」は認識の客体(対象)が存在する事によって、初めて存在しているといえる。したがって、主体としての私と、私の認識対象とは、どちらが先でも後でもなく、同時に現れ出るのだ。これは自分自身を認識する場合、つまり「主体としての私」と「客体としての私」について考える場合でも同じ事である。どちらが先に存在するのかと考えれば、これは「鶏と卵」のような循環論になる。しかしこの場合には、「鶏と卵」とは違ってどちらが先でもなく、主客両方の私が同時に現れ出るのだから、「どちらが先に存在するのか」という問いを立てること自体が誤りである。
しかし実際には、「認識=認識内容」だけが現れ出て、「主体としての私」が現れない事がある。例えば、とある山頂で日の出を迎える。その荘厳な美しさに文字通り「我を忘れて」見入るとき、「認識=認識内容」には日の出の景色だけがあって、主体としての私は存在しない。しかし、私が存在しないからといって、日の出の景色も存在しない、という事はない。その景色が現に「認識=認識内容」として現れ出ている事は、疑い得ないことだ。人はこの時、「主体としての私=実体としての私」を抜きにした「無我の私」となる。
この時に感じるある種の感動は、自分の本来の姿(無我の私)を感じ取る事に由来する。だからこの時の感動は、宗教体験に近い神秘性を伴っている。「実体としての私」を超えた「超越」を目の当たりに感じ取る。ただ、それが本来の自己、無我の私であることの自覚にまで結びつかずに、例えば「神の存在」といった物語によってその感動を説明付け、語り合い、共有してきたのではないだろうか。しかし、人が感動を覚えるのに、神も仏も必要不可欠な存在ではない。無神論者だって感動することはある。
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「無我の私」は「認識=認識内容」であるから、「認識内容」として現れ出る何かがなければ「無我の私」も存在しない。前述のように、「認識」とはその都度の「認識内容」そのものであって、「認識内容」を取り払った「認識」そのものは存在しないからだ。ここで、以前に「ジェンダー素描」の「34.実存への冒険」の中で引用した、道元の言葉を思い出して欲しい。
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身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影を宿すごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし。 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。 (正法眼蔵・現成公案) |
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(神名訳) 身心をもってものを見、音を聞くのも、「モノ」と「見る人」、「音」と「聞く人」という2つの間の関係ではない。つまり、まず「モノ」と「私」とがあらかじめ別個に存在していて、「モノ」が私の主観という鏡に映るのではない。「見る私」がなければ「モノ」はなく、「モノ」がなければ「見る私」はいない。どちらが「ある」から、もう一方も「ある」のではなく、両者は同時に表れるのだ。 仏道を習うということは「自分」を知ることである。「自分」を知るということは、分別による「実体としての私」という思い込みを忘れることである。「実体としての私」という思い込みを忘れるとは、「自分」と出会うあらゆるもの(こと)によってこそ「自分」があるのだということへの気づきである。それが判るということは、自分も万物も本来「実体」ではないということへの気づきである。それが「悟る」ということで、「悟る」とはもともとのありように気がつくことであり、ただ、今まではそれに気がつかなかっただけなのだ。気がついたからといって、その在り様の何が変わったわけではなく、これからもその在り様が続くのである。 |
私がここまで述べた事は、この道元の考えとも、またハイデガーの考えともそれほど違わないだろう。ただ、後に述べるように、ハイデガーと私とでは、「死」についての考え方が少し違う。ハイデガーは「私」の「死」について「経験不可能なものであり、いつ訪れるか判らないもの」といいながらも、それを現存在(人間)の根底に置いた。だが、私の考えでは「実体としての私」という概念がなければ、「私の死」という概念は成立しない。つまり(ハイデガー自身が指摘するように、それは経験不可能なもの、つまり「認識=認識内容」に現れ出ないものだから)、「無我の私」において「私の死」は存在しない。彼の指摘は重要なものだと思うが、しかしそれは、まだまだ根底の問題ではないのだ。
しかし人は通常、「実体としての私」の存在を信じて疑わない。ここでは、この確信を成立させる要因を「我執」、この確信を「自我」(我執による自己像)と呼ぶことにしよう。「実体としての私」、つまり自我とは「仮構の私」である。
私も含めて、人々が「仮構の私」を生きているということそれ自体を私は否定しない。しかし、それが「仮構」である事を自覚せず、「実体」だと思い込んでいることには問題がある。
西研氏の解釈を参考に私見を述べれば、もしかしたらヘーゲルも同じことを考えていたのではないかと思う。
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こういう自己意識の成長が可能になるのは、つぎのような原理に基づいているのだ。<自我とは、他に関わりつつ自分であることである>。人間はたんに頭の中で「俺は俺だ」といい続けている存在ではない。かならず、外と関わらねばならない。外と関わることは、「自分であること」を揺るがす。そこで、その経験をふまえてより包括的で強い自我を作る。だが、それもまた外から脅かされる。そういう運動が最終的にストップするのは、「世界は私であり、私は世界である」という<絶対知>、もう他から脅かされることのない地点ということになる。この絶対知こそ、究極の<和解>でもあるわけだ。
『実存からの冒険』(西研・ちくま学芸文庫 ニ3-1)P226 |
これはヘーゲルの『精神現象学』について述べられたものである。これを踏まえて考えると、『精神現象学』は「俺は俺だ」という「自己意識」(自我、実体としての私、仮構の私)から始まって、「世界は私であり、私は世界である」という<絶対知>、つまり自分が本来「無我の私」である事を自覚するにいたる話として読む事もできるのではないだろうか。つまり、私が上に考えたような方法とは別に、弁証法によって「無我の私」である事の自覚にいたる考え方が述べられている、と考えると、また面白い。
私は昨年、「『どう解く』の系譜」のヘーゲルの項で、この<絶対知>について、
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だが、ちょっと待てよ・・・と、私は思う。ヘーゲルのいう成長の「運動」というのは判るし、私なりにリアリティすら感じるのだけれども、しかし、この成長の「運動」が終着点に行き着いて「止まる」ということが有り得るのだろうか? 上の引用の中で、西氏が「自我」という言葉を使っているが、この運動は「自我の安定」を求める働きでもある。ところが、人間の自我には一見して相反する二つの性質がある。一つは自我の安定の欲望であり、もう一つはそれまでの自分の殻を打ち破って変化しようとする欲望である。人間は、急激な変化を苦痛に感じるが、それと同時に退屈もまた苦痛なのだ。 |
と書いた。ここでいう「運動」とは、人間(個人)の精神が<絶対知>へと向かう弁証法的「運動」である。しかし、この<絶対知>ということを、自分が本来「無我の私」である事の自覚と考えるならば、これは一つの終着点と考えてもよいと思う。もちろん、だからといって人間が考える事をやめるという事はありえない。
しかし「自我の安定」というテーマに限って考えるならばどうか。自分が本来「無我の私」であり、その上に「仮構の自分」としての自我を持っているという事を自覚したら、これ以上の「より包括的で強い自我」はないだろう(それをも「自我」と呼べるならば、だが)。むろんこの場合の「自覚」とは、それを知識で知っているというだけではダメで、その事が自分で本当に実感できているという話である(実際には、理屈では判っても、この実感するという事が難しいのだが)。
なお、ヘーゲルの『精神現象学』については、同じく西研氏に『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHK ブックス 725)という判りやすい好著がある。
ヘーゲルとは順番が逆だが、次にこの「仮構の私」(=「実体としての私」という確信、自我)について考えてみよう。人はなぜ、様々な「認識=認識内容」の中から、「実体としての私」を分別(ふんべつ)して概念化し、しかもそれが概念である事を忘れて実体と見るのか。
結論から先に言えば、「実体としての私」の概念化の原因は「欲望」にある。というよりも、むしろ「欲望」が世界分節そのものの根本だといってもよい。概念や言葉による「切り分け」は、何らかの動機(必要)があってなされるものである。「実体としての私」という概念も、その例外ではない。
こういう言葉を使って書くと、表現上どうしても不必要な難しさが出てきてしまい、私自身やや不愉快である。だが、この事は別にたいしたことではない。自分の口に食べ物が入れば「おいしさ」が現れるが(認識されるが)、他人の口に食べ物が入っても「おいしさ」は現れない。それが経験的に判れば、食べ物を「自分の」口に入れたくなる。つまり、この食べ物は「私」のものだ主張したくなる。つまり「私」が実在するという事にリアリティが生じ、確信するにいたる。「自我」の誕生だ。そのためには、それに先だって「おいしさ」を欲する「欲望」が現れているはずだ。この事が、おそらく認識論的には、これ以上さかのぼる事のできない底板なのである。
ここでいう「欲望」それ自体は、決して否定されるべき性格のものではない。第一、この欲望を否定すれば、生きて行く事ができないだろう。この種の欲望は、人間に限らず動物であれば必然的に備えているものであるように思える。
ただし、「認識=認識内容」という側面から見れば、この原初的な「欲望」は死を避ける事を考えない。なぜならば、「実体としての私」という概念がなければ、「自分の死」という概念もないからだ。「欲望」は「快」を求めると同時に、「不快(苦痛)」を遠ざけようとする。客観的には、この事が「死」を回避する手段になっている。例えば私達が物を食べるのは、そもそも「自分の死」を避けるためではなく(そんな事を考えてものを食べるのではなく)、「空腹」の苦痛を解決するためである。「食べなければ死んじゃう」というのは、あとから知識で知った事、つまり「知見」であって、モノを食べるためのそもそもの動機ではない。
とすれば、「主体」というものを考えるとき、その基底には既に「欲望」の存在が潜んでいる。だから「主体」としての人と人、あるいは共同体同士で、利害の対立が起きると、そこに「我(が)」のぶつかり合いが生じる。あるいは「権力」が生じる。ここでいう「権力」とは、国家などの特定の存在をいうのではなく、「主体」としての個が集まれば、その関係の中に必然的に生じるものだ。近代国家においては、その一部を国家に預けているに過ぎない(すべてを預けるわけではないから、例えば企業内にも、また個人間の関係においても、ある種の「権力」が存在している)。
繰り返すが、私は人々が「仮構の私」を生きているということそれ自体を私は否定しない。問題は、それが「仮構」である事を自覚せずに「実体」だと思い込んでいることである。
一方、ポストモダンのように、何もかも相対化して「空だ、空だ」といいふらして喜んでいる人達がいる。これも愚劣のきわみだと思っている。また、「空」といえば大乗仏教の大切な概念だという説がある。しかしこれは誤解であろう。「空」という言葉こそ使っていなくとも、「色即是空」というだけなら、同じ意味の事は釈迦のはじめから言われている。つまり大乗仏教だけでなく、上座部(いわゆる小乗)仏教でも同じ事をいっているのだ。何が違うかといえば、「色即是空」といったあとに「空即是色」と返ってくるかどうかの違いだと、私は思っている。これがなければ、在家は在家としての生活を送る事ができないだろう。つまり、大乗は大乗ではなくなるのだ。
在家としての生活、つまり(出家するのではなく)普通の社会生活を営む上で、この観点は不可欠である。世界分節(意味分節)それ自体を否定して、社会生活を送る事は不可能だからだ。問題は、そこから起こる問題をどう処理するかという事にある。この問題処理の一方法として「世界分節(意味分節)の否定」を主張するのは、あまりに素朴過ぎる考えだろう。
「私」という概念についていえば、「実体としての私」(自我)のあるを知って「無我の私」を知らないのは自己執着の病の元である。逆に、すべてを相対化して「実体としての私」をひたすら否定すれば、これは自己喪失の病である。もっとも、ポストモダンの思想を体現するような生き方をしている人は、実際にはまずいないだろう。それはそれで、ある意味では健康的な事ではあるが、しかしそれでは何のための思想だかわからない。せいぜいインテリの暇つぶしとしての有用性が得られるというに過ぎないのではないか。
人は皆、本来は「無我の私」としての在り方を基底に持っている。そして、その事に気づいていようといまいと、「無我の私」の上に「実体としての私」(自我)を築いて、その「生」を生きている。とすれば、「本来そういう在り方をしている」のだから、それについて特に改めて考えなくてもよいのではないかという人もいるだろう。そういう人は昔からいて、「無事禅」といって非難されてきた。なぜなら、本来「無我の私」としての在り方をしているという事と、それを自覚しているかどうかという事とは別問題だからだ。この気づきの有無で、その人の「生」の在り方が変わるといってもいい。
ということは、もちろん「性」についての在り方も変わるはずである。
上にはとりあえず「自己執着」と「自己喪失」とを分類して書いたが、実際には多くの人の場合、この二つの病を併せ持っている人が多いのではないかと思う。その根本的な原因は、やはり「実体としての私」を実在だと考えている事による(なぜなら上に書いたように、ポストモダンの思想を体現するような生き方をしている人は、実際にはまずいないからだ)。だから、基本的には「自己執着」の病と、それに起因する病としての「自己喪失」という事になるだろう。
「本当の自分探し」は、その事が如実に現れているような現代病だろう。「実体としての私」を実在だと思うからこそ、どこかに「本当の自分」が在るはずだと探し回る。だが、どこを探したってそんなものがあるはずがない。「自分探し」に挫折を繰り返して、その事が判って来るとともに、ニヒリズムとしての「自己喪失」に陥る。ちょうどニーチェが、「真理を信じているからこそ、その真理がないとわかった時に(真理を信じられなくなった時に)ニヒリズムに陥る」と指摘したのと同じ事が起こるのである。むろん、こうした「自己喪失」が起こるのは、「実体としての私」が実在ではなく、そもそも「仮構の私」に過ぎないからだ。
いわゆるアイデンティティや性自認も、この「仮構の私」に属する項目である。だから、いくぶん語義矛盾のきらいはあるが、自己同一性という事を固定的に考えると無理がある。自己同一性は、それ自体の性質として固定的なのではない。私達が「自分」の性質について固定的に考えている事、それが自己同一性(アイデンティティ)なのだ。だからアイデンティティも、したがって性自認も、仮構のものである。しかしアイデンティティや性自認が仮構のものであるという事は、その内容が恣意的なものであるという事を意味するのではない。なぜならこれらの内容も、そう確信するべき条件があって初めて「自分はこれこれの存在である」と確信する事が可能になるからである。この事も、既に「ジェンダー素描」の「34.実存への冒険」で述べた。その中で私は、
「私」とは私が生きる世界(社会)の中での、私のさまざまな可能性の総体である
と書き、その前にその「可能性」の内容は自由意志による自己決定ではないという事、また、まったく恣意的なものではなく、「私」がどういう社会に生きているかによって既にある程度方向づけられている、とも書いた。この考えは、今回の考察の中でもそのまま生きている。アイデンティティも性自認も、その根底には「欲望(希望、可能性)」が必ず存在しており、それはあくまでも「私」にとって「到来するもの」なのだ。
また、誤解のないように書いておくが、私はここで「自我」や「自己同一性」の解体その他の否定を主張しているのではない。もともと、「自我」や「自己同一性」が仮構であることを知るという事が必要なのだ。つまり、もともとある、その在り方を知ることの必要をいっているのであって、それを自覚しようとしまいと、その在り方それ自体は変わらない。上に引用した道元のいう「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ」である。
以上は、いわば方法的唯識論、現象学でいう方法的独我論の立場に立って考えてきた。この考え方について、少々述べておきたい。この考え方だと、客観的事物の存在証明は最終的に不可能である(もっとも、どういう考え方をとっても不可能なのだが)。ただ、この事は「実はすべてが幻である」という事ではない。客観的事物が実在する事を証明できないのとまったく同じ理由で、「すべてが幻である」ということも証明不可能だからだ。しかし、この考え方でゆくと、「他者」の存在がどうなるのか、という疑問を持つ人が出てくるかもしれない。
乱暴に思えるかもしれないが、私はこの「他者の存在」についても方法的唯識論で考えてかまわないと思う。つまり、「私」にとっての他者もまた私に現れた「認識=認識内容」としてのみ、「私」にとって確かである。こう書くと、「おまえは、私もそこのコーヒーカップも同じだというのか」と怒る人がいるかもしれないが、それはお互い様である。私(神名)もまた、他者にとってはその人の「認識=認識内容」としてのみ存在するからだ。
問題は、その「現れ方」である。私達は、他者が存在するという事を証明する事はできないが、しかし他者が存在するという確信を持つ事は可能だし、実際にそういう確信を持って社会生活を送っている。
ここで「他者」を一度脇において、「私」と机で考えてみよう。机は「私」の「認識=認識内容」として現れている。そして、「私」が自分の足の小指を机の角にぶつけたとする。「私」は机の実在を証明する事はできなくても、強烈な「痛み」が現れる。その「痛み」そのものは否定できないだろう。そういう経験があれば、次に別の机を見たときにも、その机に足をぶつけないようにしようと思う。その机の存在が証明できなくても、である。それは私に「痛み」という苦痛を遠ざけようとする「欲望」が生じるからだ。
他者の場合は、もっと厄介である。机と違って、相手の方からこちらにぶつかってくる事もありえる。つまり他者は(語弊を恐れずにいえば)机よりも厄介なものとして現れる。そもそも、何かの像を想像した場合と違って、私達は自分で恣意的に消したりする事のできないもの、必ずしも思い通りにならないものを「現実」として確信するのだ(それが本当に現実であるかどうかの保証はなく、事実、私達は夢を見ている間は、その夢の世界をしばしば現実だと思っている)。それと同じように、他者もまたその現れ方の独自性があって「他者」と認識されるのである。
現実の他者も、他の現実と同様、しばしば自分の思い通りにならない存在として現れる。それも机よりも厄介な存在として現れる。だから(中には傍若無人な人間もいるが)、私達はたいていの場合、他者に対しては机に対してよりも気を使う。この他者に対する行動は、他者が実在であろうと、単なる認識への現れであろうと、結局は同じ事なのだ。他者の存在証明が不可能であっても、私達は自分が他者の存在を確信している限り、他者への気遣いが無用だという事にはならないのではなかろうか。
もっと簡単にいえばこういうことだ。私が目の前にいる人を「この人は存在しない、単なる像だ」と考えて殴ったとする。そうしたら殴り返された。その時に私に対して現に表れた「痛み」を「この痛みも幻だ」といって無視する事ができるか、という事なのだ。こういう場合、相手も「痛み」を感じる人間であり、自分と同じように感情や意識を持つ存在であると考えて(そういう確信のもとに)行動するべきではないか。それが「妥当」な行動というものではないだろうか。
上に書いてきたような方法的唯識論、あるいは現象学的な考え方は、一見するととても変わった考え方のように見えるが、しかし非常識な見解を出すための詭弁術ではないし、またそのような使い方をしてはならない(第一、そういう使い方をしたとしても、その結論は他の人達にとって「妥当」なものとはみなされないだろう)。ここに挙げた「他者の存在」などは、よほどのひねくれ者でない限り、誰でも認めるだろう。なぜかというと、他者が存在するという事を前提に物事を考えても、何の支障も生じないからである。その場合には、その前提は「妥当」なものとしてそのまま使えばよい。もし万が一、それで支障があったら、その時初めて「他者の存在」を疑う動機が生じるのである。
はじめに書いたように、今回の考察は多くの人にとって、直接的には役に立たないかもしれない。特に一切を「性」という切口で見ようとする人には、このような根源的な考察は、そもそも必要を感じないだろう。しかしもちろん、「生」について考える私にとってはそれなりの意味がある。今回は、「私」について考えるために、まず「私」が存在するという事を疑う事からはじめた。これは、このテーマについて考える場合に必要な手順だからで、私だって常に自分の存在を疑っているわけでは、もちろんない。もちろん今回の見解についても、疑う必要が生じたら何度でも疑って確かめなおすつもりである。
