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■■2000年07月30日■■暴力について
「ジェンダー素描」の新編、「48.『純粋下半身問題』について」では、 『頑張らない派宣言』(発行:京都精華大学情報館、発売:青幻舎)の座談会の記事、『「男」をめざすことをやめた「おとこのこ」たち』(P153〜176)の中から、タイトル通り「純粋下半身問題」を取り出して論じた。
ここでは今回、同じ座談会の中で触れられている「暴力」について考えてみたい。ここでは「純粋下半身問題」と違って、考えるべき事としての「男の非暴力トレーニング」という言葉が出てくる。この場合の「暴力」とは具体的にはドメスティック・バイオレンス(以下「DV」と略す)のことだろう。直訳すれば「家庭内暴力」だが、この言葉は日本では以前から、家庭内での少年による暴力沙汰という意味で使われてきた。それとの混同を避けるために、夫婦等のパートナー間における暴力(事実上、男性から女性に対してのもの)を意味する場合に、DVの語が使用される事になっているようだ。
今回の座談会では、これはあくまでも今後の課題として触れられているだけで、その具体的な中身や方針については何も言及されていない。もっとも、これは問題自体が新しいからと考えれば無理からぬことなのかも知れない。そこでこれを私なりに考えてみたいと思う。
1.暴力とは何か
まず最初に、ここでは「暴力」という言葉の意味を「不当な実力行使」と定めておく事にする。
というのは、変に観念的になった平和主義者や非暴力主義者、無抵抗主義に対する賞賛者などの手にかかると、あらゆる実力行使が不当だという前提に立って話を始めるので、かえって暴力の本質を考える事が不可能になるからだ。しかしそれは結論を急ぐあまりに「考える」という事を放棄していることに他ならない。非暴力や平和を唱えるだけでは、何の意味もない事は、すでに現実が証明している。「嘘も百回繰り返せば真実になる」という言葉があるが、この点では、「非暴力」や「平和」は「嘘」にも劣るのである。
暴力の動機は、とりあえず思いつくままに書いてみると、大きく二つある。強要と排除がそれだ。強要とは、自分の要求や考えを押し付けること(考えを押し付けるのも、自分の考えを飲めという要求である)で、そもそも要求内容が不当な場合と、要求内容それ自体は不当ではないとしても、その要求の手順が妥当性を欠く場合とがあるだろう。前者は、いわゆるノックアウト強盗が判りやすい典型例である。そもそも金銭の奪取を目的としているわけだから、この場合には「金をよこせ」という要求が不当なのだ。もう一つの排除だが、これはいわゆる復讐も含まれる。相手の存在の否定もしくは相手を貶める事を目的とした実力行使である。もちろん、正当防衛や緊急避難のように、この二つに含まれない種類の実力行使は「暴力」には含まない(この場合には、過剰な実力行使があって初めて「暴力」なのである)。
つまり、ある実力行使が暴力とみなされるか否かは、その状況の文脈から判断される価値判断によるのであって、特定の行為そのもの(あるいは、実力行使そのもの)ではない。「一人殺せば犯罪者だが、千人殺せば英雄だ」という言葉がある。しかし、戦争においては戦闘で敵兵を一人殺しても、それは凡庸な兵士であって英雄にはなれないが、殺人罪に問われることもない。逆に、現在の日本の社会において、街中で包丁を使って千人の人を殺しても、これはやはり犯罪者であって英雄ではありえない。犯罪者か英雄か(あるいは凡庸な兵士か)の判断では、人を殺すという行為そのものでも、何人殺したかという数字の多少でもなく、その行為がいかなる状況において行われたかが問われるわけだ。
2.暴力の動機と条件
では暴力、つまり「不当な実力行使」はなぜ行われるのか。よく、暴力に訴えることなく話し合いをという人がいるが、現在の戦争は(少なくとも先進国においては)、必ずといってよいほど話し合いの決裂から起こっている。これは湾岸戦争がよい例だ。多国籍軍の攻撃が始まってからも、日本では「話し合いを」と主張するしか能のない平和主義者が一山いくらで現れたが、あの時の多国籍軍の攻撃は、そもそも話し合いで片がつかないから起きたのだ。だから、具体的にそれまでとは違う話の進め方を提案するのであればともかく、ただ「話し合いを」と繰り返す事には何の意味もなかった。いいかえれば、日本の平和主義者がいかに戦争というものを知らないかということのよい例でもある。本気で戦争を防ごうと思ったら、戦争の事をよく知る必要がある。火事について知らなければ、火災予防や消化活動を効果的に行う事が出来ないのと、まったく理屈は同じだ。もっと具体的にいうなら、戦争が起こる条件を知り、その条件自体を回避する努力が必要なのである。私は断言してもよいが、「日本の常識は世界の非常識」を地でゆく日本の平和主義者は、実際には逆の事をやっているというほかない。
さて、暴力の動機は上に挙げた「強要と排除」だが、実際に暴力に着手するには、これ以外にも必要とされるいくつかの条件がある。
第一に、勝てる見こみがあること、つまり暴力を用いれば強要ないし排除という自分の目的を果たす事が出来る見込みがあるということだ。「勝てる」といっても、これは相手を屈服させる事を必ずしも意味しない。戦いそのものにおいては勝てる見込みがなくても、自分のプライドのためにケンカを売る場合もあるだろう。その場合には、自分のプライドを見せる、相手に思い知らせるという事が目的なのだ。
第二に、暴力に訴える以上にコストパフォーマンスに優れた他の手段がないこと。暴力に訴えるという事は、よほどの実力差がない限り、自分にとてもしんどい事である。だから、普通は他に手段があればそちらを使う。現在、先進国同士の間で戦争が起こらないのは、多分にこの理由が大きい。「話し合い」で済むものなら、平和主義者にいわれるまでもなく、そちらを選ぶのだ。湾岸戦争の発端となったイラクのクウェート侵攻(という暴力)も、フセインが「これくらいではアメリカは動かない」と踏んだ上で実施された。つまり、フセインにとってクウェート侵攻は、勝算があり、かつコスト割れしないはずだという「誤算」があって初めて実現すべき計画となった。
しかし私の考えでは、これは暴力に関して人間の一側面を捉えてはいるが、問題の核心をつかみ損なっている見解だとしか言いようがない。人間には、相手の「顔」を見たからこそ殺意や憎悪が湧き起こるということも、現実にあるからだ(日本で殺人事件の検挙率が高い理由の一つは、顔見知りの犯行が多いために、被害者から犯人を手繰り寄せる事が比較的に容易だからだ)。
それに対して、レヴィナスは戦後、戦争やナチによるユダヤ人虐殺について考えたので、あらゆる殺人について考えたわけではないという意見はあるかもしれない。確かに、そういう状況に限って考えれば、レヴィナスのいう「顔」の重要性はさらに増すだろう。しかし、「顔」で暴力の行使をためらう者に対しては、「恐怖」を与える事で再び彼を暴力の実行者となることに立ち戻らせる事が可能である。要するに「あいつを殺せ、殺さなければおまえを殺す」といわれた時に、どうすればよいのかという問題を、「顔」の思想はかえって隠蔽してしまうのではないか。
これに対して、「自分が殺人を犯すくらいならば自分が殺される方を選ぶ」という人がいるかも知れない。それはあるいは個人の信念としては立派だといえるのかも知れないが、しかしそれを他者に強要する事が正当だとは思えない。命令拒否した人間が自分の目の前で殺されたときに、「人を殺すことなく一生を終える事が出来てよかったですね」と心から祝福出来るというのであれば、私はどうしても、そこにある種の欺瞞を感じざるを得ない。自分の信念を他者に押し付けて、おまえははこの私の信念のために死ねといっているのと同じ事だからだ。それをいくら言葉で美化して飾ってみたところではじまらない。
私の考えでは、このようなケースは既に「緊急避難」であって「暴力」ではない。人を殺す事には違いないが、このような状況に置かれて人を殺したからといってそれを責めたり、「それよりもおまえが死ね」という権利を、誰がどのような根拠で持っているというのか。もちろん、このような事実が痛ましい事であるのは当然だが、だからこそこうした「現場」だけに視点を固定して考えるのではなく、このような事態が発生する原因となった、その条件(例えば戦争)について考え、それを防ぐ事に意義があるのである。
第三に、実力行使について充分に通暁していないことである。この点も、個人レベルの暴力から国家間の戦争に至るまで、まったく同じだといえる。不当とはいえないような実力行使にわたる場合でさえ、使いどころを誤ったり、使い方の程度をわきまえなかったりする。戦闘力が高く、実戦経験が豊富であっても、自らの能力に酔いしれているような場合には、やはりこれに当たる。また、経験が不足している場合には、逆に恐怖にとらわれてやりすぎたりする原因になる(いわゆる過剰防衛の中に、このような例がある)。人間以外の動物の場合、相手に過剰な攻撃を加えるのは草食動物の特徴なのだ。
したがって、暴力について考える場合、これは実力行使の否定ではなく、実力行使の制御(コントロール)という観点から考えなければならない。実力行使そのものを禁じ手にしてしまえば、かえって暴力を制圧する方法を失うばかりでなく、同時に実力行使の制御方法をも失伝する事になる。そうなれば、同じ問題が繰り返されるばかりで、解決は常に遠ざかる事になるだろう。
3.DVにおける暴力を考える前に
さて、DVの具体的な内容についてだが、実は私はそれほど実態を知っているわけではない。私の父がそういう人ではなかったし、私自身はむしろ母親からの被害ばかりが記憶にあるから、私の実家は実例としては適当だと思えない。他家の現場に居合わせた事がないわけではないのだが、暴力の現場に呼び出されても必ずしもその全体像がわかるわけではない。そこで今回はやむをえず一冊の本を参考にすることにした。『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』(安宅左知子・洋泉社新書 009)がそれである。この本は3人の女性の実例のドキュメントで、そのうちの一人は最終的には殴殺されている。
ところで、その前に一つ語っておく事がある。先日、「男女平等への道」(古館真・明窓出版)という本を買って読んで見た。カバーに『「男が王様で、女が奴隷であった」説の真価を問う』とあり、目次を見た限りではフェミニズムに対する異議申し立ての本かと思えたので、今回の「暴力」というテーマとは無関係に、何か参考になるかも知れないと思ったのだ。
ところが、実際に読んでみたらまったく逆だった。フェミニズムに対する異議申し立てには違いないのだが、「性差の否定」という点ではラジカル・フェミニズム等とまったく同じ前提に立ったもので、私から見ればどちらも五十歩百歩である。いや、むしろ人によってはフェミニズムの立場にある人の言説の方が優れているのではないかとさえ思えた。「ジェンダー素描」の「48. 『純粋下半身問題』について」の中で過日、私はメンズリブ、男性学の伊藤公雄氏を批判したが、本書の著者である古館氏と比べるならば、迷わず伊藤氏の方を評価する。
結局のところ、この本は「徹底した(?)相対主義による著者個人の思いこみの信念補強」の一言につきる。相対化に熱心なあまり、しばしば自分自身の意見まで他の個所で相対化してしまい、しかも著者自身がそれに気づいていないという念の入れ様である(^^;)。
本来なら取り上げる事自体必要のないような本なのだが、なぜここで突然この本に触れたのかというと、この本でも暴力の問題を取り上げていたのを思い出したからだ。古館氏はこの本の中でDVの問題に触れて、「女性に対する暴力」という表現は「男は殴っても構わない」という意味に取れるとして、「異性に対する一方的暴力はいけない」というような男性にも配慮した表現に変えるべきではないかと主張する(P106〜110)。
しかしこの古館氏の言い分を認めるならば、彼自身の意見もまた、
として相対化されなければならないだろう。ならば最初から単に「あらゆる暴力はいけない」といえばよいのであって、そもそも、なにゆえに暴力の問題を「性」という軸にそって考えなければならないのかという話になってしまう。だがこのような考え方に対して、ほとんどの人は何かしらの違和感を持つのではないだろうか。
もちろん、「あらゆる暴力はいけない」というのはいわば正論であって、これに反対する人はまずいないだろう。また、それだからこそ「女性に対する暴力」という表現に異を唱え、より汎用性の高い「異性に対する暴力」と言い換えようという古館氏の提案も、「ちょっと見」にはそれなりに合理的な意見に見えてしまいかねないのである。では、このような言い換えのどこに問題点があるのか。
これは簡単に言えば「考える動機」の問題である。古館氏は、
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…私には気になる事がある。それは、男性が暴力を受けた場合についてほとんど話題になっておらず、何の配慮もなされていない事だ。女性が男性から受けた暴力についてしか、語られていないのは性差別ではないのか。 (P106) |
というが、結論からいえば、これは少なくとも現在のところ、性差別はもちろん、その他どのような差別でもありえない。なにしろ、差別されている「被害者」がどこにいるのかといえば、実は当の古館氏も知らないからだ。麻薬の使用などを「被害者なき犯罪」という事はあるが、被差別者のいない差別というのはありえない。
そもそも、この女性から男性に対するDVは、「実態は現段階ではよく分からないが、決して件数は少なくないのではないだろうか」(P106)という、古館氏の思い込みないし推測の上で成立している、架空の問題なのである。ところが次のページでは、「しかし、女性から暴行を受けた被害者の男性は、大人しい人や大した理由もないのに激しい暴行を受けた人が少なくない」と、いつのまにか「少なくない」ということが事実として(正確にいえば、まるで事実であるかのように)語られてしまっている。だが、実例として語られているのは、なんと古館氏自身が大学時代に先輩の女性に殴られたという、その一例だけである。大学で先輩に殴られたことは同情するとしても、それのどこがDVなのか(その「先輩の女性」と同棲でもしていたのだろうか)。しかもそれが逃れようのない、執拗かつ生命の危険を感じさせるような暴力だったとは、私には到底思えない。
ここでは、DVの話から始まったはずの話が、いつのまにか程度や状況を無視した、暴力一般の話になってしまっている。明らかに話がずれてしまっているのである。これに対して、たった一件であろうと暴力は暴力であり、不当な事だという反論はありえるだろう。それはその通りである。しかしそれならば、私が上に書いたように「あらゆる暴力はいけない」という話であって、そこに性別を持ちこむ必要そのものがないのだ。異性に対する暴力だろうと、同性に対する暴力だろうと、年長者に対する暴力だろうと、年少者に対する暴力だろうと、同国人に対する暴力だろうと、外国人に対する暴力だろうと、そのすべてが不当なのである。なぜなら、暴力とは不当な実力行使を意味するからだ。
この本に記されている、都立大法学部の朝倉むつこ教授の「女性は社会の構造として支配される立場にあるから、この表現は仕方ない」という返答は、私も妙だと思う。ただ、社会構造うんぬんについては眉に唾をつけるとしても、私の知る範囲でも、家庭内において支配構造を作ってしまっているような夫婦は、確かにそれなりの割合で存在するのだ。そして、それは社会現象とは言えるかもしれないが、社会構造とは意味が異なるのではないかと思う。
社会構造のせいにしてしまえば、性差を否定する種類のフェミニズムにとっては都合がよいだろうが、それにはやはり無理がある。例えば前述の『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』で挙げられている3人の内の2人が日本人女性(もう一人は日本人男性と結婚したフィリピン女性)で、この2人とも収入がないか、少なくとも収入の大部分を男性に頼っている。この事実だけを見ると、女性の社会進出の問題に安易に結び付けて考えたくなる人も出てくるだろう(幸いなことに、この本ではそのような安直さはないが)。
しかしそれでは、いわゆる「ヒモ」の男性をパートナーとする女性の場合にはどうなるのか。この場合、主に収入を得ているのは女性のほうである。つまり経済的自立が出来るのだから、いつでも男と別れることができる経済的な条件に恵まれており、したがって彼女達にはDVという問題は存在しないという事だろうか。だが、それもまたこれまでに私が見聞してきた事実とは、大きく隔たりがある。問題は社会構造ではなく、それぞれの男女の関係の構造、つまり家庭内に目を向ける必要があるのではないだろうか。
私の考えでは、そこにこそ「女性に対する暴力」としてのDVをクローズアップする具体的な理由がある。つまり、大学で先輩の女性から一度引っ叩かれたことがあるというのと違って、「逃れようのない、執拗かつ生命の危険を感じさせるような暴力」がそれなりの割合で起こっているのはなぜかという問題だ。『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』の冒頭では、1%という示されている。1%という数字だけみると意外に少ないと思う人もいるかも知れないが、百人に一人といえば、学校でいうと2〜3クラスに一人の割合で生命の危険に脅かされるような家庭環境に置かれている人間がいるという事である。これは現在の日本では、むしろ異常な多さだといってよい。性差を否定する種類のフェミニズムは否定するだろうが、私はこのような「女性に対する暴力」だけが問題として取り上げられる根本的な理由も、やはり男女の非対称性に由来するのだと思う。
4.DVにおける暴力
『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』を読んでまず気づくのは、3人の「殴る夫たち」が未熟性とアイデンティティ不安において共通しているという事である。
私は前回この「りゅこ倫」で、「『私』という確信 」という一文を書いた。その中で述べた事と重なるのだが、人間は誰でも「自分」の存在を疑わない。確固とした「自分」という存在があって、「自分は自分だ」と思っている。誰でもそういう自己意識を持っているのだ。それだけではなく「自分は他者よりも優れている」と思っていたり、少なくとも「他者よりも優れている自分でありたい」と願っていたりする。だが、この自己意識は一方で、常に他人という存在によって脅かされてもいる。自分が優れているという思い込み、つまりプライドは常に他者という存在によって相対化される可能性にさらされているのだ。
このプライドの危機が(少なくとも本人にとって)現実のものとなるのは、一つは自他の能力の読み違いをしている場合である。つまり実際以上に自分を高く評価したり、他者を低く評価する事によって、「自分は他者よりも優れている」という世界「観」を作り上げている場合だ。ところがこれは単なる思い込みに過ぎないので、実際には思ったよりも自分が無能だったり、他者が有能だったりする。この「無能な自分という現実」が、本人にとってのアイデンティティ不安の原因となる。
もちろん、このことがただちに暴力に結びつくわけではない。少なくともこれがDVに結びつくためには、暴力を振るう側に、上に挙げた「勝算があり、かつコスト割れしないはずだ」という読みがあるはずである。このことは、DVの技術的側面からも窺い知る事が出来る。以前にも書いたことあるが、重複をおそれずにいえば、以下のようなことになる。
上述の『殴られる妻たち 証言・ドメスティック・バイオレンス』に描かれている例を見る限りでは、「暴力」の具体的な技術が、「首を絞める」という他は、おおよそ打突系で占められていることに気がつく。要するに「殴る蹴るの暴行」である。「殴る夫たち」の中に柔道やレスリングの経験者でもいれば、また違ったのかもしれないが(空手経験者の例は出ている)、投げ技や関節技、占め技が出てこない。これは、普通のケンカ(主に男性同士の)の場合でも同様だろう。
ただし、男性同士のケンカの場合には、一度組み合うと今度は容易に離れない。なぜかというと、相手との間の距離を取ると相手から打突系の技が出てくるからだ。つまり相手の技に対して警戒している。訓練を受けた者は別だが、素人(少々ケンカ馴れしたようなレベルも含めて)の「殴り殴られ」のケンカでは、これが普通である。だから、女性の側も反撃するような夫婦喧嘩でも、やはり往々にして最後にはこのスタイル(取っ組み合い)になる。DVのように執拗に打突系の技が連続して用いられるのは、空手(会派にもよるのだろうが)の試合のように打突系以外の技を禁止するルールに則った場合を除けば、一方的に暴行を加える場合の特徴だといえる。袈裟固めやアームロックのような技は、(書いていないだけかもしれないが)この本にも出てこない。
要するに、DVの場合には相手を(つまり男性が女性を)「なめてかかっている」のだ。ただし、この事がただちに「女性差別」であるわけではない。この場合の「なめてかかっている」というのは、女性一般(というカテゴリー)に対するそれではなく、あくまでも自分のパートナーである「この女」に対してのものだからだ。したがって、二人の間にどのような関係が築かれていたのかという問題を無視することは出来ない。一般論化、あるいは原理の抽出という事それ自体に反対するわけではないが、しかしこれを安易に一般論化すると、個々の具体的な問題がかえって見えなくなるだろう。そこにこの問題の難しさがある。
上に述べたように、DVの特徴は(主に)男性の側のアイデンティティ不安にある。DVはアイデンティティ補償を目的とした他者への不当な実力行使であり、この動機の点において極めて差別的である。繰り返すが、その差別は目の前の「この女」に対するものであって、女性一般ではない。たとえ彼が「女のくせに」といったとしても、それは「女は男よりも劣っている」という性差別的観念を、自分自身の差別行動の正当化のために使っているに過ぎない。
むろん客観的には、そのような理由で「暴力」が正当化されたりしないことはいうまでもない。しかし、この世に「女は男よりも劣っている」という性差別的観念が存在しなかったとしても、おそらく彼は何か他の理由付けをするであろうだけの話である。社会的な問題としての女性差別がなくなったとしても、それによってDVがなくなるとは思えない。なぜなら、彼は会社で面白くない事があったとか、その他自分の個人的な不遇感(世の中が自分の思い通りに行かないという、不幸の意識)を、身の回りの弱そうな他者に責任をかぶせて(つまり、言い掛かりをつけて)当り散らしているからで、多くの場合、女性一般に対する差別感がDVの動機となっているとは思えないからだ。
この問題について考えていて、もう一つ思い当たったのは、上の差別の問題とも関係する事だが、これを安直に「社会構造」の問題にしてはならないという事である。DVが問題になっているのは事実だし、また問題にすべきだと思う。前述の通り、生命の危険に脅かされるような家庭環境に置かれている女性が 1%も存在しているというのは異常な多さと見るべきではないか。そういう意味で、DVは「社会現象」ではある。
しかし、「社会現象」と「社会構造」とは基本的に別ものである。むろん両者の間に理論的な関連付けを行う事は可能だが(また、必ずしも反対しないが)、しかしDVの原因を個々の男女の関係の外側の、社会という抽象概念に求めてしまっては、見える問題も見えなくなるのが理の当然であろう。DVの解決はDVの解決そのものを目的として行われなくてはならず、何かしらの社会運動が盛り上がるために行うものではない。私達は、この問題について考える場合に、このような倒錯を犯さない事が重要である。
いわゆる「男らしさ」の中に、女を殴ってはいけないとか、女を殴る男はロクデナシであるという事がある。確かに、女を殴る事それ自体がロクデナシの仕業ではあるのだが、しかしアイデンティティ補償という動機の面から見れば、そもそもロクデナシだから女を殴るのだ、とも言える。いずれにしても、女を殴る男とは、それ自体がロクデナシ(ダメ男)の証明であり、さらに広げていえば、(性別に関係なく)差別という行為は自らのアイデンティティ不安の露呈である。
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だが、これは性差の否定という結論をあらかじめ措定したところから導き出される、「ためにする批判」の域を出ない。もし実際に知人の男性がそのような人物ばかりだとしたら、社会の問題について考える前に、自分の個人的な交友関係を再検討すべきである。 |
こういう男達には、「悪い事はやってはいけない。差別は悪い事である。ゆえに差別をしてはいけない」というような倫理的な三段論法による説教は、おそらく効果がない。効果があるように見えても、一時的なものであって、結局はDVを繰り返すばかりであろう。それより周囲の男性が、「お前ェ、カッコ悪りィんだよ!」と罵り、さげすんでやることだ。なまじ、おだてて彼の実力に似つかわしくないプライドを持たせれば、彼はいつまでもそのプライドを他者に相対化され続け(実力に見合わないプライドは常に虚像である)、アイデンティティ不安に悩みつづけなければならず、したがってDVも際限なく続くだろう。
DVの根本的な解決は、その男が自分をごまかすことなく自信を持てるようになる事である。そうすれば、アイデンティティ補償の必要がないからだ。だが、そのために必要な努力を嫌い、怠けるのが、ロクデナシのロクデナシである所以でもある。いうまでもなく、ロクデナシに倫理を求めるのは、砂漠で水を求めるよりも難しい。社会的な善悪の問題は、事が警察沙汰になってから裁判にいたる過程で問われればよい。それ以前の段階において有効なのは、DVをそういった善悪の問題として取り上げる事ではなく、むしろ、女を殴るのは男としてみっともない事、女を殴る男はロクデナシである、ダサイ、甲斐性なし等々の罵倒を、周囲の男女から投げつけてやることだ。
DVを重ねることが、そのまま本人のアイデンティティを破壊するような状況に追い込んでやること。これがDVを封じ込める有効な手段ではないだろうか。
