|
■■2000年09月11日■■「身体」とは何か
半年ほど前の「『無意識』とは何か」と同様、哲学の講座で「身体」と「現実」の本質直観(現象学によって、その本質(essence, wesen)を考えること)に取り組んだ。そこで今回と次回に渡って、この2つの考察結果を、字句を多少改めた上で掲載することにする。まずは、「身体」である。
まず、「身体」あるいは「身」や「体」という言葉を、私達が日常の中でどのような意味に使っているかを考えてみる。すると、そこにはその都度、様々な意味があって、もしかしたら「身体」とはこれこれのものである、と一語で言い表す事は不可能なのではないかと思えてくる。そこで、とりあえず「身体」の様々な意味について考えてみる事にした。
まず、私達が「私の身体」という場合、この言葉には微妙に異なった2種類のニュアンスがある。ひとつは「私」の意識に対象化された身体で、これはいわば「身心二元論的身体」といえる。一方、「私の足が踏まれている」という場合には、踏まれているのは「私自身」に他ならない。このような身体は、「身心一元論的身体」といえる。
「身心二元論的身体」とは何か。これは要するに「私」にとっての「道具」であろう。つまり、「私」が何かを行うのに必要な「可能性の源泉」である。「身体」以外のいわゆる(通常の意味での)道具は、身体の延長であり、身体の能力拡大の手段である。例えば、同じ駅までの道のりでも、自分の足で歩けば「遠い」と感じられるが、自動車を使う事を前提に考えれば「すぐそこ」だと感じられる。「身体」の能力が拡大可能だという事は、そもそも身体の能力には限界がある、という事も、同時に意味している。したがって「身体」は「可能性の源泉」であると同時に、それと表裏一体の性質として「不可能性の源泉」でもある。
この「身心二元論的身体」において、強いて「身体」と他の「道具」との違いを挙げるとすれば、「身体」とは「私」にとって「常に」「最も身近に」存在する「道具」だという事だろう。
「身心一元論的身体」とは何か。この身体は「感覚」を持つという点で「道具」とは決定的に異なっている。「おいしい」とか「涼しい」と感じることには「道具」との共通点はない。例えば温度計という道具を使っててお風呂のお湯の温度を測ることは出来るが、その目盛りから「適温の心地よさ」を感じ取る事は出来ない。つまり、この意味での「身体」とは「価値の源泉」である。
ところで、(他の言語は知らないが)日本語には身体やその部分を使った、様々な比喩的な言い回しがある。
など、おそらくは探せば他にも見つかるのではないか。身体の動きについては当然として、他に、認識、意気込みや心構えを伴った行動、能力、個人的人格や社会的人格などを表現する言葉として用いられている。
「身(み)を張る」は「体(からだ)を張る」と言い換えても同じ意味だし、「体で覚える」という言い回しもあるにはあるが、ほとんどの場合は「身体」の「身」が使われていて、「体」はあまり使われていない。それはなぜか。「身」とは「中身」の「身」でもある。「身」とはそもそも、解剖学的な「身体」だけでなく、内面や能力を含めた概念なのではないか。
少なくとも日本人の場合、「感覚」に限らず「認識」についても、それを単に精神的な活動として捉えるのではなく、「身体」の機能として捉えていたのではないか。例外的に「精神」の意味で「頭」という言葉を使う事がある。「頭でっかち」ではだめだとか、「頭では判るが腑に落ちない」という言葉がある。「腑」は「五臓六腑」という言葉があるように、本来は内臓を意味する。あるいは「飲み込めない」という言い方をする。
哲学でも「身体化」という言葉を使う事があるが、何らかの知識を「頭」で覚えるだけでなしに、自分の行動原理と出来るほどに本当に納得できたような場合、あるいは無意識に手が動くほどに技能が習得できたような場合に、「身になった」とか「身についた」という。したがって、このような意味での「身体」は、「その人そのもの」であるともいえる。もう少し突き詰めてみると、行動原理、価値観、能力など、やはり上に挙げた「身心一元論的身体」や「身心二元論的身体」と無関係ではなさそうである。しかしそれだけでは、何かが足りない気がする。それは何か。
「他者にとっての身体」が、その足りない「何か」ではないかと思う。「身体」は他者の視線にさらされる。人は「身体」の姿形や行動によって他者を評価し、評価される。単に容姿だけでなく、性格などの内面やその人の人格そのもの、あるいはその都度の気分に至るまで、様々なことが「身体」によって表現される。例えば、「美人だけど性格がきつそうだ」とか「美人だけど、よく見たら男だった」というのは、よくある(?)話で、これは当人がいくら「余計なお世話だ」と思っても、どうしようもない。
この意味での「身体」は、よく言えば「自己表現」だが、必ずしも当人の意思による能動的な表現だとは限らない。「他者にとっての身体」は、自分と他者との複数の主観の場において成立するのだから、能動的に表現することと、受動的に「読み取られる」こととは矛盾なく両立する。こちらが意識していなくても「身体」(または身体運動の結果。この文章も私の発話ないし記述という身体運動の結果である)を読み取られている事もあれば、こちらが意図したのとはまったく別の情報を読み取られる事もあるだろう。
もし、このことが矛盾ないし不当だと思えるとしたら、それは相手が読み取った「私」の像と、「私」が持つ自己像との間にズレが生じる、そのズレに対する不満が、その正体ではないかと思う。ということは、「他者にとっての身体」を見る視線を「私」もまた「私の身体」に対して向けている、ということだ。つまり「他者にとっての身体」とは、自他にとっての「『私』の評価の源泉」であり、「私」にとっての「自己表現の手段」なのである。
以上をまとめれば、「身体」の本質とは、
の3点にまとめる事が出来るのではないだろうか。
