りゅこ倫

■■2000年09月11日■■

「現実」とは何か

 私達は、どういうものを「現実」と呼んでいるのか。真っ先に思い浮かぶのは、それが「何らかの感覚(五感)によって捉えられるもの」だ、ということである。別の言葉で言いかえれば、空想のようなものを、私達は「現実」とは呼ばない、という事でもある。しかし、例えば「私」にある「像」が見えているのは、「視覚」によって生じているのか、それとも夢を見ているのか。私達はそれを厳密に区別する事ができるかといえば、それは不可能である。

 私達は通常、夢の中の出来事を、その夢を見ている時には「現実」だと思っている。「夢」を夢だと判断するのは、夢から覚める(目が覚める)事によってである。今、私達はこの場所で、それぞれ「自分は目が覚めている」と思っている(たぶん)。しかし、夢を見ているときと同様、一瞬後の未来に「目覚め」が訪れないと断言する事は(今現在、自分が夢を見ているのではないと断言する事は)不可能である。したがって、「私」にとっての「現実」とは、常にその都度の妥当としての「現実」であって、いついかなる時も、自分が今「現実」に接していると断言する事は不可能である。

 一方、私達は目が覚めていると自覚しているときでも、「これは夢ではないか」と思うことがある。とてつもない幸運を得たにせよ、不意に大きな不幸に襲われたときにせよ、予想外の事態に接して「現実味」を感じる事が出来ないという場合に使われる表現である。逆にいえば私達は、「現実」とはある程度の「予測可能性」を持っている、と思っているわけだ。

 とはいえ、私達が「現実」のすべてを見通す事が出来ると考えている、という意味ではない。ある事態に接したときに、「これは何が起こるか判らない」と思うことも、一種の予測である。この場合にも「このような事態は、先を読むことが出来ない事態である」という事が「判って」いるからだ。もっとも、私達はこのような場合でさえ、「その場合に起こり得る事」の候補を、おそらくは無意識のうちに挙げている。

 例えばある人に向かって、侮辱の言葉を投げつけたとする。その人が怒り出すか、泣き出すか、冷静に抗議してくるか、その段階では判らない。しかし、その後に「起こり得る事」の候補を、私達は自分の経験に照らして幾つか挙げる事が出来る。相手がその候補のいずれかの行動を取るならば、私達はたいして驚く事はないだろう。しかしそこで、侮辱された人が突然「安来節(どじょうすくい)」を踊り出したら、これは大変シュールな光景に映るはずである。

 上に、「私」にとっての「現実」とは、常にその都度の妥当としての「現実」であると書いた。この妥当の条件として、「現実」の「予測可能性」を挙げる事が出来る。眠っていようと(夢を見ていようと)目覚めていようと、私達は「予測」不可能な事態に放りこまれたとき、周囲の事態に対して「現実味(リアリティ)」を失うのである。


 ところで、「現実」と似たような言葉に「事実」や「真実」がある。これらの言葉には、どのような意味の違いがあるのだろうか。「事実」というのは本当にあった事柄であって、これは断片であっても構わない。私達はそれらの断片をかき集めて「真実」を読み取る。もしくは、構成する。つまり「真実」は「事実」の一連の流れであり、しばしば、その流れの原因という意味をも含んでいる。「現実」という言葉はもっと曖昧で、「事実」や「真実」が展開される「場」である。あるいは、「事実」や「真実」を「図」に例えれば、「現実」とはその「地」である

 「事実」を「事実」として認め、「真実」を「真実」として認識するためには、そこに「現実味」が伴わなくてはならない。この事は、既に起こった「事実」や「真実」だけにいえる事ではなく、未来に対する予測という領域でも、同じ事である。「その計画には現実性がない」といえば、「それは事実にはなり得ない」という意味である。

 ところが、何が「事実」であり、何が「真実」であるかという事は、人により立場によって異なることが、しばしばある。なぜかといえば、その「地」である「現実」が、人によって異なるからだろう。さらにその原因を考えると、これは「予測可能性」「現実味」を構成する基礎となった、個々人の経験とその解釈に違いがあるためではないか。


 では、私達はそれぞれ、自分の「現実」をどのように作り上げているのか。繰り返しになるが、その基礎となるのは「経験」である。様々な「経験」を積み上げる中で、私達はそれらの「経験」を、ある仕方によってまとめあげる。つまり、個々の「経験」を何らかの「整合性」によって、自分の「現実」の中につなぎ足して行き、そのために必要があれば、それまでの「整合性」を編み変える。「現実」が持つ「予測可能性」も、この「整合性」があるからこそ可能になる。逆にいえば、理解不可能(かつ予測不可能)な現実は「現実」として受け入れ難いものになる(現実味の欠如)。

 「整合性」について、さらに考えたい。目の前にあるものが、瞬きしたら消えた、あるいはまったく別の物に変わっていたという場合、私達は「整合性」を欠くと考えるだろう。「ある」はずのものがなくなったり、別の物に代わったりするのは、自分のそれまでの「経験」に照らして、おかしなことだからだ。舞台の上の芸人を見て「彼は手品師だ」と判っていてさえ、私達はその芸に「目を疑う」思いをする。だから彼らは、たいていの場合、自分がこれから行う手品について、事細かに説明したりはしない。手品とは、いわば私達の「現実味」を逆手に取って驚かせる「予測不可能性」の芸である

 もう一つ、「現実」は「現実」である以上、それは誰にとっても同じはずだ、という思い込みが、私達にはある。だから、他者も自分と同じように「現実」を認識している、と知ると、ますます「現実」が「現実味」を帯びてくる間主観性。逆に、他者と意見が合わなければ、どちらかが間違っているのだと考えてしまうのである。実際には、意見が合わなければおかしい「像」もあれば、そうとは限らない「像」も存在するのだが、人はしばしば、この区別を忘れて、あらゆる「現実」は誰にとっても同じはずだと考えてしまいがちだ。

 しかし、直接的な経験(目の前にあっる物の色や形がどう見えているか、など)ならば意見は一致するが(ふつうは)、過去の「経験」によって編み上げられた「現実」は、必ずしもこの限りではない。逆に、他者との意見が一致したとしても、それが単なる思いこみに過ぎない場合もあり得るのである(同じ宗教の信者同士は同じ「神」の存在を信じるが、それは彼らにとっての「現実」ではあっても、無神論者にとっての「現実」ではない)。

 「私」が時々、眠っている最中に「夢」を見るという事は、当の「私」にとっては疑いようのない「現実」であるが、「私」以外の誰も「確かにあなたはそういう夢を見ていた」ということは出来ない。なぜならば、それは「同じ宗教の信者同士は同じ「神」の存在を信じる」という事と同じで、「私」にとっての「現実」ではあっても、他者と共有出来る「現実」ではないからである。逆にいえば、だからこそ、いかなる他者も「確かにあなたはそういう夢を見ていた」ということが不可能なのだ。

 以上をまとめていうと、私達は、

  1. 経験(経験可能性)
  2. 整合性、予測可能性
  3. 事実や真実の「地」
  4. 間主観性

などの性質を備えた世界認識の「像」を指して「現実」と呼んでいるのではないだろうか。

L.Jin-na


[前章] / [りゅこ倫] / [インデックス] / [次章]