りゅこ倫

■■2000年09月26日■■

スポーツ・ゲームにおける規則の存在理由

 今度は、別の講座の方で「スポーツ・ゲームにおける規則の存在理由」について考える事になった。そもそもは「規則・ルールの存在理由」について考える事が目的だったのだが、まずはそれを、

  1. 国家・社会の規則(法律等)
  2. 会社・職場の規則
  3. 学校の規則
  4. スポーツ・ゲームの規則
  5. 家庭の規則

に分けて考える事になり、私が4番目の「スポーツ・ゲームの規則」を担当したためである。私はもともと学問に縁のなかった人間で、「文武」の「武」の方が本貫だから、実は、武道・武術の各種目の技術の構造や、それぞれの種目においての(あるいは種目間においての)ルールと技術体系の関係などについて、何年も前から独自の考察があった。今回の考察は、いわばそれを「スポーツ・ゲーム」に一般化した話だといってもよい。せっかくなので、これもやはり、字句を若干改めて掲載することとした。

 下に示した通り、考え方としては、まず「ゲームとは何か」を問う事から始めている。それが判らなければ、「ゲームのルール」が何であるかなど判るはずがないからだ。この考え方は、他の4つのテーマにも共通して使えるはずである。「国家とは何か」、「社会とは何か」、「会社(企業)とは何か」、「労働とは何か」、「教育とは何か」、「家庭(家族)とは何か」・・・等々。そこから考えれば、それぞれの「目的」が判る。実は、それで作業の大半は済んでしまう。そこから「ルールの存在意義」を導き出すことは、容易な作業だからだ。

 そこで、「国家」あるいは「規則」それ自体が悪であるとか、「教育はかくあるべし」や「家族とはかくあるべし」というような、現在の社会に流通している「言説」や「思い込み」を一度保留して、自分で根本から考えてみると、かなりの範囲の問題が解決出来るはずだ。少なくとも、その土台を築くことが可能になるはずである。むろん、このことは「性(性別)」についても同様である。下の考察は、単に「スポーツ・ゲーム」についての考えを述べたものというよりも、「根本から考える」事の一つの例として受け止めてほしい。そして、「自分の頭で根本から考える」人が増えて欲しい。下に示すとおり、それは必ずしも難しい事ではないのだから。


1.スポーツ・ゲームの本質

 「ゲーム」という言葉にも幾つかの意味がある。例えば、戦争や人生でさえ「ゲーム」として捉えることも可能である。そのため、まずはここで扱う「ゲーム」の意味をはっきりさせる必要がある。

 ここで扱う「ゲーム」とは、スポーツ競技や将棋やチェスのようなものをいう。それらに共通する特徴は何か。まず思いつくのは、ルールが存在し、そのルールを「ゲーム」に参加するプレイヤー全員が知っているということである。それは同時に、自分が参加しているのがどのような種類の「ゲーム」なのかを知っている、という事でもある。碁盤に石を置きながら、自分がやっているゲームが「囲碁」なのか「五目並べ」なのか判らないのでは、「ゲーム」をしているとはいえない。

 次に、「ゲーム」は行われる場所の範囲が限定されている、という事である。碁盤や将棋盤、テニスコートなどを考えればよい。いずれも、その範囲が限定されないと「ゲーム」が「ゲーム」として成立しない。その単純な例として「鬼ごっこ」を考えてもよい。逃げる側Aが、オニBよりも足が速い場合、Aがどこまでも真っ直ぐに走って逃げると、これは「鬼ごっこ」ではなく、徒競争のようなものになる。といっても「ゴール」が存在しないので、正確には徒競争にすらならない。このような場合でも、教室くらいの範囲を決めて、その中で「鬼ごっこ」をすれば、BがAを捕まえる可能性も、それなりに現実的なものとなるだろう。それに加えて、スポーツでは競技時間にも一定の限界を定めているのが普通である。

 つまり、「ゲーム」には必ず終了がある。そうでなければ勝負が決まらない。少なくとも「勝ち負け」の形で結果を出す種類の「ゲーム」は必ず終了がある(あるいは勝負が決まった時点で終了となる)。では、勝負を競わない「ゲーム」があるか。ある。それは「ゲーム」の経過そのものを楽しむような種類の「ゲーム」である。つまり、ゲームには、勝負を競うものと、経過そのものを楽しむものとの2種類がある。「鬼ごっこ」などは、一見すると勝負のようであるが(事実そういう側面もあるのだが、しかし基本的には)、誰が何回オニになったかなどを競うわけでもなく、追い掛けっこそのものを楽しむ。「鬼ごっこ」のルールは、この追い掛けっこそのものを楽しむための工夫だといえる。

 勝負を競うタイプの「ゲーム」においても、その過程を楽しむという要素を多かれ少なかれ含んでいる。そのためには、どのような工夫が必要か。それを一言でいえば「フェア」という事だろう。

 インチキをしたり、自分だけに都合のよいルールを定めてゲームを行うと、それによって負け続ける者はもちろん、勝ち続ける者にとっても、その「ゲーム」が、つまらないものに感じられるようになる。それはなぜか。「ゲーム」を行わなくても勝つ事が判っているからである。勝つ事が「当たり前」になると、勝利そのものに何の価値も感じられなくなるのだ。通常のゲームやスポーツ競技では、対等のルールのもとに、その「ゲーム」においての実力(や運)を競い合う。ゴルフでは、「ハンディ」という概念を持ちこむ事で、実力差まで均等化してしまうほどである。

 ただし現実には、インチキやイカサマがなくならないゲームもある。それが賭博(ギャンブル)である。賭博では、勝利そのものの価値ではなく、勝利に伴って得られる金品の価値を目的とする人が必ずいる。この場合は当然、「勝利そのものに何の価値も感じられなくなる」という理由でイカサマがなくなることは、原理的にはありえない。

 勝負を競うタイプの「ゲーム」の本質とは、この「価値ある勝利」の獲得を目指す事に他ならない。実は、この事は勝負を競わない(ように見える)、経過を楽しむだけのゲームについても同じ事がいえる。勝負を競うタイプの「ゲーム」は、ルールの設定によって、この本質をより顕在化しているに過ぎない。つまり勝負を競うタイプの「ゲーム」とは、その分だけルールの工夫が進んだ「ゲーム」だといえる。

 勝利の「価値」についてさらに考えてみる。勝つ事が「当たり前」になると、なぜつまらないのか。何もしなくても、あらかじめ結果が判っているからだろう。そこからは、勝利の獲得の為にその都度の工夫をするとか全力を尽くすという事の意味が感じ取れない。目の前のペンを手にとっても、その事が何の達成感ももたらさないのと同じ事である。逆にいえば、勝利の「価値」とは、勝利を得るための「経過」によって支えられている。その経過の本質とは「困難」ではないか。困難を乗り越えて手にした結果(勝利)は、貴重なものに感じられる。この貴重さが「ゲーム」における勝利の「価値」の本質である。


2.スポーツ・ゲームにおけるルールの役割

 「ゲーム」のルールとは、その「ゲーム」においての勝利を価値あるものにするための装置である。それだけでなく、「ゲーム」(の種目)そのものだとさえいえる。つまり、「ゲーム」のルールとは、その「ゲーム」において、いかなる手段が可能であるか、同時に、いかなる手段が不可能(禁止)であるかを定め、その条件下においてどのような「価値」ある勝利を得る事が出来るかを定めるものである。

 ここでいう手段とは、能力の種類とその発揮方法と言い換えてもよい。「ゲーム」のルールは、プレイヤーが使用する能力の種類を直接的・間接的に限定する。直接的限定とは、例えば剣道で言うと、道具(竹刀や防具)の形式と使用方法の限定である。長さが3mもある竹刀を使用する事は出来ないし、定められた部位を定められた方法で打突しなければならない。間接的限定とは、試合場の設定や試合の運用ルールである。試合場は限られた広さを持ち、試合の開始時点での両者の距離も定められている。例えば、開始線の間の距離を短くして、最初から両者がお互いの「間合い」の内側に存在するような位置から試合を開始すれば、それだけでも、現在の剣道とはまったく異なる試合展開になってしまうだろう。具体的には西部劇での決闘のように、反射と瞬発力を競う「ゲーム」になってしまうはずである。

 という事は、「ゲーム」のルールは、人間が持つ様々な能力やそれ以外の要素(運など)の内、何をその「ゲーム」において使用し、何を使用しないか、その取捨選択をするものでもある。スポーツやゲームのルールは、しばしばルール・ブックを必要とするほどに複雑である。ルールが複雑であるほど、使用する能力の種類を制限するとさえいえる。サッカーにおいて、空手の極真会のように、顔面突きと股間への攻撃以外のあらゆる「直接的な身体への攻撃」を認めるとどうなるか。いうまでもなく、サッカーの選手には現在以上の能力が要求されることになる。したがって、「ゲーム」および「そのゲームに必要とされる技術」は、飛躍的に複雑にならざるを得ない。逆に、極真会の試合のルールを、従来の一対一ではなく、11人同士の闘いにしても同じような事がいえるだろう。

 しかし、そういうゲームが面白いかというと、必ずしもそうとはいえない。「ゲーム」にあまりに多くの要素を含め込んでしまうと、どのような要素において勝った(負けた)のかが判らなくなる。ボールの扱いには「からっきし」のチームが、それでも相手チームを「全滅」させたために連勝を重ねるといった場合、これはそもそもサッカーどころかいかなる「球技」ともいえず、かといって格闘技の技量を比較するためには、ボールやゴールなど無用の存在である。

 ここまでに述べた、「ゲーム」とは何かについて、もう一度まとめてみよう。

  1. 価値ある勝利の獲得を目指し、その過程をも楽しむ。
  2. すべてのプレーヤーがルールを知っている。
  3. そのルールが「フェア」な内容である。
  4. 限定された特定の要素(技量や運)を競う。

 およそ以上について述べてきたわけだが、これをまとめなおすと、以下のような事になるだろう。

 「ゲーム」とは、プレイヤーが「価値ある勝利の獲得を目指す」ものである。その勝利の「価値」は、何によって支えられているか。あらかじめ自分に有利な条件が与えられているのではなしに、対等な条件において、自分自身の技量やその時の自分の「運」によって得た勝利である、という事だ。もっと簡単に言えば、「与えられた勝利」ではなく「自ら掴み取った勝利」が「価値ある勝利」なのである。では、そのような勝利を競い合うために必要な条件は何か。

 技量や運を競うといえるためには、他の条件を対等にしなければならない。内容によっては、他の要素が入り込む余地をなくし、あるいは排除(禁止)しなければならない。これが、ルールの意味の最たるものだろう。

 しかし、ルールの意味(目的)は他にもある。将棋のような「ゲーム」は別として、スポーツにおいては、プレイヤーの安全を図るためのルールが存在する。どの程度の「安全」を図るかは種目によって異なるにせよ、それがまったく考慮されないのでは、プレイを「楽しむ」という事が不可能になる。

 上に挙げた、「ゲーム」とは何かということを、今度は「ルール」の存在意義という観点からまとめ直せば、こういうことになる。

 「ゲーム」とは価値ある勝利の獲得を目指し、その過程をも楽しむものである。「ゲーム」のルールは、その実現のために、

  1. 限定された特定の要素(技量や運)を「フェア」に競う。
  2. プレイヤーの安全を図って「ゲーム」を楽しむ余裕を確保する。

という2点を、その本質とする。この事は同時に、ルールそれ自体が「ゲーム」の内容とゲームで競われる技量の種類とを、有形・無形に規定する事になる。そういう意味では、「ゲーム」のルールとは、「ゲーム」(の種類・種目)それ自体であるともいえる

L.Jin-na


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