りゅこ倫

■■2001年03月25日■■

過去を乗り越える在り方へ

 『Queer JAPAN』(クィア・ジャパン、勁草書房)の最新号(Vol.4)が出た。昨年、ジェンダー素描の、51.『クィア』の終焉で取り上げた、野口勝三氏は今回も健在・快調である。

 今回、まずは先回りして、伏見憲明氏の「編集長あとがき」から、その一部を引用させて頂く事にしよう。

▼前号の長大な論文で注目された野口勝三さんも、再び座談会に登場し、なかなか刺激的な議論を展開しいている。現在、ジェンダー/セクシャリティの学問領域で流行している社会構築主義やクィア理論から派生しているある種の理路に対して、正面から「駄目だと思う」と主張している。ここまではっきり否定されて、そういった立場で研究活動をしている人たちはだまっているのだろうか。「あの人はアカデミズムの人じゃないから」とか「雑魚はいずれ消えるでしょ」とか「バトラーが読めていないのよ」(爆笑)とか陰口を叩いているだけでは、言説が象牙の塔の狭い共同性に閉じられてしまうことにしかならない。ここは正面から彼の論理に論理で向かい合ってほしい。その議論の土俵は「クィア・ジャパン」で用意します。ただし、「……野口のようにいまさら近代市民社会の議論を持ちだされても、社会構築主義やクィア理論は、その近代市民社会という土俵自体を問うているのだから、話にならない」といった程度の批判では駄目です。彼もそのレベルの議論は折り込み済みでやっているのだから。ありがちに問題をずらしたり、重箱のすみをつつくような批判を持ちだすのではなく、骨のあるロジックで向ってきてほしい。そして、「クィア・ジャパン」は漁夫の利を得る!(ほほほ)

 なんとも(反論側にとって)厳しい注文ではあるが、いかなる意味においても、決して不当な注文ではない。野口氏の論文「クィア理論とポスト構造主義−反形而上学の潮流として」(『Queer JAPAN』Vol.3)に対しては、批判も上の「陰口」レベルのものしか集まらなかったらしい。だからこそ、伏見氏もこうした書き方になるのだろう。

 ついでに書いておくと、野口氏の紹介の中に「97年3月総合研究大学院大学後期博士課程終了退学」という一文がある。当然、思想や社会学に関わる人文・社会科学系を専攻したのだろうと思っていたら、なんと彼の専攻は遺伝子工学だったそうだ。なるほど、「人文・社会科学系」においては、彼は「アカデミズムの人じゃない」といえるわけだ。だから、件の論文は彼の独学の成果である。それであそこまでデリダフーコーを読み解いたのだから、(比較するのもおこがましいが)彼に比べたら私のやっていることなど、児戯に等しい。

 もっとも、私のように肯定的な評価をした者は批判派よりも少なく、逆に一番多かったのは、最後まで読み切れなかったり、最後まで読んでも理解できなかった人達だろう。だから、肯定・否定いずれにしても、反響そのものが少なかったのではないかと思う。

 幸いな事に、今年に入ってから、野口氏と顔を合わせる機会を何度か得た。ゲイT's とでは抱える問題が異なるが、これからの取り組み方として、従来のような告発・糾弾型の「対抗主義」、「弱者」絶対主義では駄目だという点では、意見が一致している。その考え方がよく現れているのが、今回(Vol.4)の対談(鼎談?)記事である。


1.クィア理論/社会構築主義の欠陥

 クィアとは、一言でいえば、ゲイや T's といったカテゴリーの相対化である。人間には様々なカテゴリーや利害、立場の違いなどがあるから、そこで利害の調整が必要になる。逆にいえば、「利害の調整」とは本来、こう言った立場の違いが存在する事を前提としている。上に引用した中から言えば、「近代市民社会」とは、いかなる立場からもこうした利害に関する主張が出来る事を前提として、お互いの間で上手く利害調整をしましょう、という話になる。だから、近代市民とは自分達でルールを作り、そのルールに従う人達という意味になる。

 ところが、クィア理論やその原型となっているポストモダン思想では、こうしたカテゴリーや立場の違いそのものを、問題(差別や利害の対立)を生み出す元凶と見る。利害の調整ではなく、いかにして利害の発生を防ぐかという話になってしまう。だが、この理論からいえば、例えば「性差」をなくさない限り性差別はなくならないという話になるし、肌の色が同じにならなければ人種差別はなくならないという話になってしまう。これでは、野口氏が言う通り「駄目」な(非現実的な)理論にしかならない。

 また、「社会構築主義やクィア理論は、その近代市民社会という土俵自体を問う」のは勝手だが、それならそれで、「近代市民社会」に変わる現実的な社会原理を提出する必要があるだろう。しかし現実には、そういうものはクィア理論からはもちろん、ポストモダン思想からも出てきたためしがない。そもそも、「いっさいのものが社会的に構築された無根拠なもので在るとするならば、新しいプランもまた社会的に構築された無根拠なものにならざるを得ないから」(P245・野口)、それは原理的に不可能なのである。

 この「いっさいのもの」を、具体的にジェンダーに置き換えて考えてみよう。この場合、社会構築主義の立場からすれば、ジェンダーはセックス(身体的性別)に根拠を置かない、社会的、恣意的に構築された無根拠なものである。現に、様々な時代や文化を見れば、そこには異なるジェンダーの在り方が存在しているわけだから、このような見方にも理がないわけではない。そういう意味では、「ジェンダーは身体的性別によって完全に規定されている」というような、ガチガチの本質主義はもはや通用しない。ここまでは、おおかたの人達が納得するところだろう。

 しかしこの事実は、ジェンダーがいかなるものにも根拠を置いていない、という事を意味しない。少なくとも、社会構築主義ではこのことを完全に否定し切れない。社会構築主義は、その名に反して、「現在のようなジェンダーの在りようがいかにして構築されてきたか」という問いを捨象したところに成立しているからである。要するに、ジェンダーに根拠がないのではなく、ただ社会構築主義においては、その根拠が始めから視野の外に押しやられているのだ。「ジェンダーに根拠がない」という主張は、そういう見方をした場合の結果として出てくるに過ぎない。また、ジェンダーが構築される過程を度外視する事の正当性が説明されているわけでもない。

 その理由は簡単で、一つは、こうした見方が構造主義の「共時論」を前提にしているということである。「共時論」とは、時間の経過を問うことなく、ある時点でのものごとの在りようを見るような見方をいう(逆に、時系列に沿った見方を通時論という)。例えば、言語学において「現在の日本語の在り方」を問題にするような場合が「共時論」になる。ジェンダー研究を共時論に限定すれば、「文化の違いによって様々なジェンダーの在り方が現に存在している」という、文化相対主義的な主張が可能になる。

 こうした見方をする限りにおいて、日本の社会とは異なるジェンダーの在りようが「なんとかいう部族ではこのような例がある」という形で主張される。それは、現在の私達に生きられている、この社会のジェンダーの在りようがどのように成立したのかを無視する事で、この社会では既に何らかの形で乗り越えられたかもしれない、現在では辺境的な意味しか持ち得なくなった在りようを、日本の現在のそれと等価であるかのように主張するのである。「文化人類学を踏まえた学問的成果」などと主張しているジェンダー論において、私達はこのトリックを見破る事が出来るだろう。

 ところが、こうした見方からは、「社会構築主義」が口をつぐんでいる事実が浮かび上がってしまう。ジェンダーの在り方は具体的に異なっていても、あらゆる文化において「男/女」という性二分制そのものは普遍的に見られるという事実だ。ここに、「社会構築主義」がジェンダーの構築過程を問題として取り上げない、もう一つの理由がある。文化の違いを問わず、性二分制があらゆる文化に普遍的に存在すると言う事は、ジェンダーがいかなる構築過程を取ろうとも必ず性二分制になる、という結論があらかじめ見えてしまうのだ。

 では、私がここでいうジェンダーの根拠とは何かといえば、端的には「人々の欲望(価値観)」の一言に尽きる。既に、二年以上も前に「T's とジェンダーフリー」で述べたとおり、

  1. まず、男の子が(あるいは女の子が)好みそうなもの(こと)が存在する。より正確に言えば、男の子(女の子)は、自分が住む世界の中から、自分がエロス(快、ほんとう、よい、きれい)を汲み上げるものを見出す。

  2. その社会の中での、文化的、技術的要件の変化に連れて、男の子(女の子)のエロス的対象が増え、あるいは失われる。それは「ジェンダーの変化」という形で表れる。

  3. それと同時に、自分を「異性にとってのエロス的対象」として作り上げる。その在り方(性的魅力)は、やはり時代と共に変化するから、ここにもジェンダーの変化が存在する。

  4. 一方、時代ごと、社会ごとのエロスの在り方は、それぞれの時代の中では固定的なものとして受け取られる。そのため、通時的には変化しているジェンダーが、それぞれの時代の中では共時的に受け取られ固定化される。

  5. しかし、ジェンダーの在り方は、通時的には常に変化してやまないものであり、それは歴史から検証される。それが共時的に固定的なものとして受け取られるのは観察者の都合であって、ジェンダーそのものが実際に不変なものであるわけではない。

といった基本図式がいかなる文化、いかなる時代においても存在しており、これを否定する事は、人間が価値観を持つことそれ自体の否定になる。したがって、こうした考えは必然的に、抑圧的な社会を作り出さざるを得ない。むろん、人々の欲望に対するこうした抑圧は不当であり、近代市民社会の原理にも反する。上述の通り、近代市民社会に代わる現実的な社会原理が提出できない限り、このような主張が受け入れられる事はあり得ようはずもない。「思想」と「夢想」とは区別されなければならない。

 本質主義は、その内容自体のまずさはともかくとしても、それが「性差」や「ジェンダー」の否定に対抗したいという動機に支えられている限り、この「不当な抑圧に対する抵抗」という動機自体は正当だといわざるを得ない。問題は、それをよりよい形(と内容)で表現出来るかどうかにかかっており、繰り返すが、本質主義をそのまま認めることもまた、既に不可能である。


2.「弱者」絶対主義/「共闘・連帯」論の欠陥

 思想面におけるゲイと T's の違いとして、T's のオリジナリティのなさが挙げられる。これはあくまでも比較の上での程度問題なのだが、ゲイ/クィアやフェミニズムが思想・哲学を直接に学び、そこから「自分達の理論」を構築しているのに対して、T's の場合には、さらにそこからの「孫引き」になっているという構図がある。そのため、おおもとの思想・哲学が判らなくなっており、ゲイと比較すると、議論が表面的なものに留まらざるを得ない。むろん人数の上から言えば、ゲイでもそういう人達が大半を占めるのだろう。だから、あくまでも「比較の上での程度問題」なのだが、T's は(現在の状況においては)原理的・根本的な話が出来ない。そのため、何が問題の核心なのかという事が定まらないままに、ひたすら話が錯綜してゆくのである。

 同じ、『Queer JAPAN』(Vol.4)の別の記事から例を拾い上げてみよう。TNJ の運営メンバーの TS がアンケートに答えているページ(P136)である。

が、そもそもの前提として、少数派は多数派と一緒に何かをやらざるを得ないし、好むと好まざるとに関わらず関係性を無視することはできない。逆に、多数派から見れば、何もわざわざ少数派と一緒に何かをやる必要などない(これは数の違いから言って当たり前)。つまり「あえて一緒に……」という言い回しが出てくること自体、多数派理論ではないかと思う……。意義は「多数派が少数派を理解して配慮すること」に尽きるし、「多数派のメリット」を問うこと自体ナンセンスだと思う。

 これは、「15.ゲイ(レズビアン)は、レズビアン(ゲイ)やトランスジェンダーなど他の性的少数者と、何かを共有する事が可能だと思いますか。どのような友情を結ぶ事が出来ると考えますか。」という問いに対する回答である。この人物は、上に引用した部分の前に、(個人間ではなく)カテゴリーとしては難しいとか、

「何を共有できるか」を考えるより、「何かを共有できそうな人」と交流を深めていく以外にないと思う。

と述べており(同ページ)、このこと自体は私も得心の行く回答であり、特に異論はない。問題は、ここでいう「共有」の内実である。上の引用の、

を見ると、「少数者=弱者」という図式や、「弱者」絶対主義が根強く残っているという感じがして、暗澹としてくるのだ。

 はたして「友情」や「共有」とはこのような一方的な「配慮」を意味するのだろうか。これでは、「少数者」はいつまで経っても自らを「弱者」の位置に固定化する事になるのではないかという気がしてならない。そう、実はこういう「弱者」の在り方は、居心地がよいのである。その、居心地の良さに甘えているところに、こういう意見が生じるのだ。

 この人物がなぜ「『多数派のメリット』を問うこと自体ナンセンス」と考えるのか、その理由は述べられていないが、私にとっては「多数派のメリット」に対する「配慮」は、むしろ必然的である。それは、なぜか。

 一度、多数派・少数派という数の問題を取り払って考えれば、誰にでも判る事だと思うが、人間が自分から望んで(=押し付けや職業上の必要からではなく、個人的・自発的に)誰かと付き合ったり、付き合いたいと思ったりするのは、相手に対して何らかの魅力を感じている場合である。逆の立場から言えば、そう望まれるということは、相手にとって何らかのメリットがある場合なのだ。さらに進んでいえば、「友情」とは「配慮し合う関係」に他ならず、一方的な「配慮」を仲立ちとしたものではない。

 仮に、「友情」において一方的な「配慮」と見える場面があったとしても、「配慮」する側にはその動機が存在しているはずなのである。しかし、「『多数派のメリット』を問うこと自体ナンセンス」だとしたら、それは動機の有無に関係なく、「配慮すべきだ」という外側からの命令・要請に過ぎないものになる。こうした「義務的な配慮」は、人間同士の「よい関係」とは別物だろう。だとすれば、この回答者はいったい何を求めているというのか。これはしばしば、「共闘」や「連帯」を唱える人達が陥る論理矛盾でもある。

 一方、今回取り上げている対談(鼎談?)記事は、これとは非常に対照的である。例えば、伏見氏も、昔は「ゲイと他のセクシャル・マイノリティとの共感とか、共通性への幻想がすごく強かった」と述べている。しかし、「クィア・パラダイス」「クィア・スタディーズ'96」「クィア・スタディーズ'97」などに取り組む過程で、セクシャル・マイノリティ同士での、彼我の距離が感じられるようになってくる。といっても、この場合は、けっして差別的あるいは排他的な話ではなく、彼我の違いが理解出来るようになったということだろう。

もちろん、いっしょにやるのなら数になるし、その多様性は力にもなると思うけど、それが一緒でなければならないという理念を押し付けられるのはどうかと思う。というか、そういう前提で出発するのは間違っている。

(P239・伏見)

 卓見である。ここにあるのは、もはや私が以前から批判しているような、古臭い運動(社会運動)理念ではない。

差別運動業界って、より排除されている人とか、よりマイナーな人の方にアドバンテージがあるという、妙なヒエラルキーが出来ちゃってることがあるよね(笑)。ゲイに対して、「ゲイよりもっとマイノリティである○○のことがわかっていないのはいかん」、○○には「さらにマイノリティである××のことがわかってない……」みたいな調子。
(中略)
なら、そう言うあんたは、中部タンザニアで暮らす障害者でバイセクシャルのインターセックスの状況をどこまで知ってるんだっつーの。冥王星に暮らす金星人と火星人のハーフのブスの話でもいいけど(笑)。

(P252・伏見)

これなどは、上に引用した某 TS の回答と対をなす見解であろう。日本人なら誰でも、「中部タンザニアで暮らす障害者でバイセクシャルのインターセックス」に「配慮」する動機を持たないだろう。そんな事はないという人でも、「冥王星に暮らす金星人と火星人のハーフのブス」に「配慮」する動機は持たないに違いない。「配慮すべき」だと言おうが、その動機を問うのは「ナンセンス」だと言おうが、説得力を感じる人はいないだろう。上のアンケートの回答の引用中に、「多数派理論」という言葉が否定的なニュアンスで使われているが、「少数派理論」だって、それが「少数である」と言うだけの理由で正当化されるのなら、それは「多数派理論」を裏返したに過ぎない。「数の論理」だという点では、どちらも同じ事である。

 それは、ここに引用したような想定が馬鹿げているからではなく(もっと具体的な例で考えても)、「弱者のヒエラルキー」的な考え方そのものがおかしいのだ。数が多かろうが少なかろうが、人は基本的に自分の幸福を追求する「自助努力」が基本である。といっても、現実にはそれでどうしようもない場合もあるから、そのときは人の手を借りる。余力と動機のある人は、手を貸す。「少数派理論」という「数の論理」を押しつけられただけで、「手を貸そうかな」という動機を持てる人が、世の中にどれくらい存在するだろうか。

 私の考えでは、「では、どうしたらよいのか」という事を考える場合に、その「原理」だけはゲイと T's とで(他のあらゆるマイノリティとも)共有できるし、そういう原理を創って行くという過程では協同出来る。しかし、それぞれに抱えている具体的な問題が異なる以上、具体的な方法については、各カテゴリーに独自のものにならざるを得ない。その際に、お互いの違いが本当に了解できるような形で相互理解が成立していれば、相互差別的・排他的な関係に陥る事なく、それぞれの道を行く事が出来るだろう。まさに、「一緒でなければならないという理念を前提として出発するのは間違っている」のである。


 以上に述べてきた事から言える事は、マルクス主義に源を持つ思想であれ、ポストモダンに源を持つ思想であれ、現実には既にいかなる展望も先進性もない、ということである。もし、アカデミズム内部において、いまだにこうした思想を先進的だとするような共通了解が成立しているとしたら、最初に引用した、伏見氏の「編集長あとがき」にあるような、野口氏に対する真正面からの批判は、到底なし得ないだろう。

 これは、言い換えれば「学問」と「現実」との乖離である。従来の学説に拠りかかる限り、例え当事者であろうとも、この弊害を免れる事は出来ない。いま必要な事は、物事を根本から捉えなおし、新しい方法を模索する事なのである。私のこの考えは、この「りゅこ倫」の最初から、3年余に渡っていまだに変わる事はない。

L.Jin-na


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