りゅこ倫

■■2001年09月05日■■

「意味」や「価値」の共有について

 人間は、あるモノやコトについての「意味」や「価値」をどのような形で持っているのだろうか。例えば人間は誰でもその人なりの世界観を持っている。この世界観は「意味の網の目」という形で存在しており、そのある部分は他者の持つ世界観と重なり合い、またある部分はその人に特有の世界観として認められる。また、他者と共有される世界観の内のある部分は、彼らが生活する社会の規範という形をとる。もちろん、いわゆる性規範もその例外ではない。

 では、たとえば「自由」の概念をとことんまで押し進めた結果として、「あらゆる規範からの自由」ということがあり得るだろうか。答えは「否」である。このことを、順を追って考えるために、まずは個々の人間にとっての「意味」や「価値」について考えてみよう。


 そもそも「意味」や「価値」とは何か。ハイデガーの考えを敷衍していえば、この世に存在するあらゆる物には意味がある。より正確にいえば、人間はあらゆる物に対して意味付けや価値付けをする。コップは飲み物を飲むためのものだし、ペンは紙に文字を書くためのものである。人間は物に対してそれぞれ「何のためのもの」という規定をする。もちろんそれは必ずしも役に立つものだとは限らない。紙くずは「役に立たないもの」であり、その価値を数学的に表現すれば「ゼロ」あるいはマイナス表示になるだろう。また、いわゆる粗大ゴミであれば「場所を取る邪魔なもの」として明確にマイナスの価値を感じられることも珍しくない。しかし、ここでいう「役に立たないもの」という規定も、そもそも「何のためのものか」という問いにおいて初めて現われる「意味」なのである。

 ここでいくつか注意すべきことがある。まずひとつは、ある「モノ」の意味は、必ずしも固定的なものではないということである。例えば上に例に挙げたコップは、普通は「飲み物を飲むためのもの」だが、場合によっては「メモ用紙を押さえる重し」として使われる。つまり同じモノ(コップ)でも、時と場合によって異なる意味を伴う、ということである。

 二番目として、これらの「意味」は、自分の工夫によって思いつくこともあるが、他者から教えられたものも数多く存在する、ということである。この場合の「教える」はできるだけ広い意味に考えたい。つまり「これはこうやって使うんだよ」と教えられる場合だけではなく、あるモノを他者が使っているのを見て、習い覚えるという事もあるわけだ。その場合、そのモノがその他者に対して、どういう「意味」を伴って現れているかを知る、という事でもある。

 私達は、このような「意味」をどのようにして獲得しているのだろうか。発生的には(発達段階の最初には)、他者が持っている「意味」や「価値」を自分の中に引き写す(習い覚える)という形でだろう。ということは、この段階では既に他者が、「意味」や「価値」の評価をする主体として「意味」付けられているということでもある。その他者は多くの場合、赤ん坊の最もひんぱんに接する人間、つまり母親をはじめとする家族である。

 もちろんこの段階での他者に対する「意味」付けは、後の段階に見られるような意識的・自覚的なものではあり得ない(赤ん坊はまだそういう段階にない)だろう。では、この最初の「他者」はどのように現れるのだろうか。私の考えでは、「他者」が他のモノと区別されて「他者」であることのゆえんは、それが自分の思い通りにならない存在として現れることにある。もちろん、赤ん坊のころにはモノでも自分の思い通りにならない。しかし、その在り方が異なる。なぜなら「他者」は意思を持って動くものであり、自分の思い通りにならない、その「ままならなさ」が他のモノとは決定的に異なるからである。それはその「他者」の自分の対する働きかけの在り方によっても区別されるだろう。

 一方、「他者」が「他者」であるゆえんは、自分(赤ん坊)からの働きかけに対する反応の違いという形でも現れる。赤ん坊は、様々な知識や能力を身につけて徐々に社会化するのではなく、最初から人間同士が形成する在る共同性の中に置かれている。たとえ母親と2人きりでの生活であっても、母親がまだ言葉も解さぬ赤ん坊に語りかけたりする。つまり現在の赤ん坊の能力を越えた次元の働きかけをする。また母親以外にも家族がいる場合には、家族同士の共同性の中に身を置いているわけで、これもまた赤ん坊の能力を越えた次元の共同性の中に身を置いているといえる。

 赤ん坊を見ていて興味深いのは(私には子供はいないのでこれは妹の子供の話なのだが)、言葉をしゃべるようになるよりも早い時期に、既にどうやら大人同士の会話をある程度理解しているらしいということだ。赤ん坊は、大人の目から見ると面白いと思えることをしたり、時には愚かと思えるようなこともしでかす。大人同士でそれを話題にして笑っていたら、しがみつくようにして「だぁ!」と抗議された。まさかと思いつつ、謝ってあやすと機嫌を直すのである。どのようにして大人の会話の意味を理解していたのかは不明だが、おおよその趣旨は理解するらしい。もっともこれは話題にもよるのであって、赤ん坊に時刻を尋ねてもキョトンとしているだけである。つまり、質問の意味がわからない。時計の見方がわからないのはもちろんだが、おそらくは、それ以前の問題としてまだ時刻という概念がないからだろう。だから答えがわからないのではなくて、そもそも質問の意味がわからないのである。

 赤ん坊が言葉を覚えるのは、社会参加の条件ではない。厳密にいえば赤ん坊は生れ落ちた当初から何らかの共同性の中に置かれているのであり、言葉を覚えたり、ものを覚えたりするのは、その共同性の中でより高次のコミュニケーションを可能にするための条件に過ぎない。赤ん坊が言葉を覚えるのは周囲の人間と「意味」や「価値」の共有を、より詳細なものにしてゆくということであって、「意味」や「価値」の共有の「はじめ」なのではない。

 このことは、逆に大人の目から赤ん坊を見た場合にも同じことがいえる。大人は、赤ん坊と言葉が通じなくても(まだ赤ん坊が言葉を覚えていなくても)、機嫌が悪いとか、喜んでいるとか、大雑把なことは理解可能である。。もちろん、赤ん坊が成長して言葉を交わすことができるようになれば、なぜ機嫌が悪いのかということまで言葉を通じて知ることが出来るようになる。これは大人同士でも全く同じことである。

 さて、もし仮に赤ん坊が、大人との間に一切「意味」や「価値」を共有することなく、独自の「意味」や「価値」を持つようになったとしたらどうなるか。もちろん、話が通じなくなる。話が通じるとか、あるレベル以上での意思の疎通ができるということは、「意味」や「価値」、つまり世界観の共有という前提があってはじめて可能になるからだ。そうでなければ、この赤ん坊は私達にとって、まったく翻訳不可能な別体系のコードを使用する、理解不可能な存在になってしまうだろう。

 では、「意味」や「価値」を共有した上で話が通じるとは、どういうことなのか。それは、相手のいうことが理解出来るということであり、この理解はある程度、聞き手の予測の上に成り立っている。といっても、これは一方的な「予測する−予測される」という関係ではない。お互いが言葉を交わす以上、両者が語る存在であると同時に聞き手でもあるのだから、お互いに相手の言うことを予測しあっている、といってよい。だからこそ、予想外のことを言われて驚くということもあり得るのである。また、予測が外れっぱなしだと「話が見えない」ということにもなる。さらに考察を進めると、私達は聞き手としてだけではなく、語り手としても相手の反応を予測している。だから、自分が語ったことに対して相手が予想外の反応をしても、やはり驚く。もちろん、これらの予想は自分と相手とが共有しているはずの「意味」や「価値」の上に成立している。

 このことがわかると、現代思想が問題にしている言語の謎も解ける。これは以前に、「ラングとパロールの難問」の中でわかりたいあなたのための現代思想・入門』(宝島社文庫)から引用した部分だが、

 しかし、この記号学の発見によって、ソシュールは困難な問題をかかえ込むことになる。
 ここで、冒頭の都市と森の話を思い出してほしい。
 都市の旅行者は、都市にさまざまな意味を見いだした。これは、これまで見てきたように、都市の外観がそれぞれ記号化し、旅行者はその記号に含まれたメッセージを読みとってゆくのである。
 では森はどうか。旅行者は森をそのまま森として見ることはできない。まず、さまざまな言葉が頭のなかに浮かび上がり、即座に森を分節化してしまう。「樹海」「広葉樹林」「針葉樹林」「ブナ」「ヒノキ」その他いろいろ。
 旅行者の目前に広がる自然は、すでにラングによって切りきざまれているのだ。われわれと自然との自由な関係を、ラングは疎外してしまう。
 ラングにはもともとそのような力があり、ラングなくしては、われわれの文化は成立しない。これは事実である。しかしラングは恣意的体系であり、パロールによって変更可能な体系である。感動的な光景を前にして発せられる言葉は、ラングの専制を離れ、新しい意味、分節化を生み出すことが可能なのだ。パロールによって、自然は新しい姿を見せる。われわれはその姿を確立することが可能なのである。
 だが、ラングは文化を惰性化する。歴史によって積み重ねられら文化/ラングは、パロールの可能性を疎外するように機能するのである。われわれが自然を前に発した言葉は、その多くが以前に誰かが言った言葉なのだ。

(上掲書、PART3「記号論という新しい波」・志賀隆生、P152〜153)

上記のことから、ここでいうソシュールが突き当たった「困難な問題」も解けるだろう。言語学が対象としている言語(特にラング)とは抽象概念であり、言葉を語る人間や、言葉が語られる場面から切り離された「言語」なのである。したがって、そこには上に述べたような、語り手や聞き手による予測が存在しない。言語から「意味」を受け取るのはあくまでも人間の解釈によるものであって、人間の具体的な営みから切り離された「言語そのもの」に「意味」の根拠を求めようとしても無駄なのだ。言語について調べたり考えたりする場合、このように人間から切り離された言語を対象にするのではなく、人間の「言語行為」を研究対象にしなければならない。そもそも言語とは人間の営みであって、自然科学が対象にするような「自然」ではないからだ。

 さて、言語を扱う上で私達は語り手や聞き手としての「予測」を行なっている。これは「これからこのように語るであろう他者」や「このように聞くであろう他者」を自分の内側に想定しているということである。両方を合わせれば、人は「語り・聞く他者」を自分の内に想定しているという事になる。

 さらに考えてみると、このことは何も言語行為だけに限られないことがわかる。自分が持っている「意味」や「価値」の体系が他者と共有されているということは、逆に言えば「意味」や「価値」の体系を自分と共有している「他者」の存在が、自分の内側に想定されているということである。この「他者」は子供のうちは自分の両親という具体的な形を持っているかも知れない。あるいは尊敬する人物であったり、自分が好きな異性であったりするかもしれない。また大人においては、漠然とした「他者一般」という抽象的な「他者」であることも多いだろう。

 もちろんこういう「他者」は、普段は「他者」としては意識されないことの方が多いだろう。だが、私達が「社会」や「世間」という概念を使って何かを語るとき、そこには必ず社会や世間に属する「他者」の存在が想定されている。また、自分が誰も見ていないところで何か悪いことをした場合には、この「他者」は悪い事をした自分を裁く視線となって現れることもある。それは往々にして、親や尊敬する人物、好きな異性といった具体的な形を取ることもあり、あるいは(信仰深い人の場合には)神仏の形をとることさえあり得るかもしれない。なぜかというと、自分が悪い事をしたという自覚がある時、その善悪の価値観を共有する「他者」の視線を意識するからである。たとえば「自分がこんなことをしたと知ったら、彼(彼女)は何と思うだろうか」という形で自覚されたりする。

 誤解のないように言い沿えておかなければならないのだが、これはあくまでも人間が「他者の視線」を内在化しているということであって、現実に自分の外部に存在する「他者」(あるいは神仏)を倫理の基準や根拠に据えるということではない。むしろ、善悪の基準(倫理)という「意味」や「価値」を他者と共有することによって、「内なる他者」が想定されるのである。

 もちろん現実の「他者」が、自分が様々な「意味」や「価値」を獲得する際の契機になっているということは充分にあり得る。特に子供のうちは両親やその他の周囲の大人から、彼らが持つ「意味」や「価値」を自分の内側に引き写していることが多い。

 しかし、成長するにつれて、因果関係が逆転する場合も出てくるだろう。つまり自分なりの「意味」や「価値」を持った場合にも、その価値観に自信があればあるほど、それを自分だけでなく「他者」も認めるはずだという確信が生じてくる。この場合、自分の価値観を認めるはずだと思われる「架空の他者」が「内なる他者」の形で想定されるということもあり得るのである。


 最初の問いに戻ろう。「自由」の概念をとことんまで押し進めた結果として、「あらゆる規範からの自由」ということがあり得るだろうか。答えは「否」である。理由は簡単で、これは言い換えれば「他者と規範を共有しない」ということだから、社会生活そのものが不可能になるからだ。

 たとえば、この「規範」と言うことを具体的に性規範と考えてみる。「男らしさ」や「女らしさ」や貞操観念などを一切無視するとどうなるか。いうまでもなく、周囲からは「異常な人」とか「理解不可能」とみなされる。あるいは、これらの規範を「周囲から押し付けられたものだ」と考えるとする。この確信を支えているのは、実は周囲の「現実の他者」であるよりも、自分の内側に想定された「内なる他者」(自己に内在化された他者の視線)による方が、いっそう強力である。

 たまに「内なる他者」が構成されなかったり、「現実の他者」とは全く異なった形で構成されたりする人がいる。前者の場合には自閉症、後者の場合には分裂病がこれに当たると考えられる。特に前者の場合には、他者の視線を規にしないで行動するということが観察されるらしい。逆に後者の場合には、「現実の他者」が誰も押しつけていないような規範に縛られることがある。傍目には自縄自縛のようなものなのだが、当人はあくまでも「現実の他者」に縛られているつもりでいる。「内なる他者」を内在化された他者の「視線」だと書いたが、こうなると視線どころか「声」まで聞こえるらしい。

 ここまで極端な例でなくても、自分の肉体にコンプレックスを持っている人は、その部分に他者の視線を感じる。「現実の他者」が誰もその部分に注目していなくても、誰かに注視されているような感覚が生じてしまう。女装外出に慣れない TV の場合にも、丸で周囲の人間全員が自分を注目しているかのように感じられることがあるだろう。だがたいていの場合、そういう自分に注目しているのは「現実の他者」ではなく、その人の「内なる他者」なのである。

 これは一昨年に書いた、「真に『差別』を乗り越えるために」で述べたことにも通じるだろう。差別される「痛み」の原因は「言葉」ではなく、「痛み」を感じる人の中にある、というのがそれだ。この場合にも、差別用語(とされる言葉)について自分自身が「負の価値」を持っている(それを差別者と共有している)という事実なしには、「痛み」は生じようがない。言い換えれば、この場合には差別者が「内なる他者」という形でその人の中に内在化しているのである。

 だからといって、この内在化された差別者が気持ちの持ちようで一瞬にして消える、というわけにはゆかない。いや、むしろそういう場合を「内在化(内面化・身体化)している」というのである。それは、長い時間をかけて自分の内面に染み込んだものだから、簡単には消えない。しかしそれは、当人の決意なしには消えない、ということもまた事実なのである。その決意とは、当人の他者との関わり方の変更である。「痛み」が「内なる他者」によって発生している以上、自分の外側の「現実の他者」(差別者や社会一般)を告発・糾弾することには、ほとんど意味がない。それは自分の虫歯の「痛み」を消そうとして、他人の口の中を覗き込むようなものである。これは「内なる他者」を自分の外部に存在する「現実の他者」に投影している、ということに他ならない

 逆の例としては、自分の欲望の一般化ということがある。自分が持つ「意味」や「価値」に自信を持っていると、それは自分だけでなく他者から見ても認められるはずだ、と思い込むようになる。この場合にもやはり、自分と「意味」や「価値」を共有すると想定されている「内なる他者」を自分の外部に存在する「現実の他者」に投影することになる。ただ、上の例が自分にとって「負の価値」だったのに対して、この場合には肯定的な「価値」だという違いがある。しかし、この場合には本当は、「現実の他者」に対する確かめ直しが必要なのだ。そうじゃないと、独善を独善と思わずに、勝手に「真理」を振りまわす人になる。フランス革命直後の恐怖政治も、ファシズムもスターリニズムも、「現実の他者」を、自分にとって都合のよいような「内なる他者」像にむりやり合わせようとする。これはいわば「関係の病」であり、司馬遼太郎の表現を借りれば「政治的発狂」である。

 人々が共に暮らして行く中では、お互いが「現実の他者」に対する確かめ直しを不断に行なう必要がある。「自分はこんなことを考えてみたよ」と発言してみたり、他者(現実の)に対する振る舞いの変更を行なったりしながら、その都度の「現実の他者」の反応を見てみること。そこにお互いが納得ずくで現実を変えて行く力と根拠があるのだと思う。逆にいえば、様々な手段によって人々が「意味」や「価値」を共有したり、それを自分の中に引き写したりすることそれ自体は、けっして不当なことではない。それどころか、それは人々が共に暮らして行く上で、必要欠くべからざる働きなのだ。

 そして、それが健全な自由の発露として行われることが大切なのだと思う。何が正しいかということの根拠は、お互いが確かめ合うことによって得られた合意としてのみ存在する。それだけが、人々に実感に応えることの出来る「正しさ」を支えることができるのだ。

 「神」も「科学的真理」も「外部」も「他者」も、その他の何であれ、「正しさ」の根拠を自分(達)の外側に超越項として置くことは、人々のその都度の妥当(合意)を無視することになる。それは「正しさ」を固定する真理主義への堕落を意味する。相対主義もまた、この真理主義の裏返し(反動形成)に過ぎない。

L.Jin-na


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