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■■2001年11月25日■■「悪」とは何か
一年半前からの本質直観・「『××』とは何か」のシリーズで、今回はテーマは「『悪』とは何か」です。9月に掲載するはずだったのを忘れていました、すみません。
(そういえば、半年前の「『道徳』とは何か」を掲載するのも忘れていたな・・・ ^^;)。
次のような想定を考えてみよう。「私」がある部族の一員だとして、
このことから、「悪」の基準となる価値観は一面では相対的だが、利害の一致する間柄では共有される価値観でもあることがわかる。つまり、共通の利益に反することや、誰もが不快に思うであろうことは「悪」だという評価が共有されることになる。
一方、その存在自体が「悪」とされる事物がある。人に不快感をもたらしたり(悪臭)、行動を制限したり(悪天候)、生命・身体を損なったり(天災・病気)するものも「悪」と評価される。この場合にも、それが誰に対しても不利益や不快感をもたらすものだと考えられれば、やはり「悪」という評価が人々に共有されることになる。これらはいずれにしても、禁止したり防いだり、あるいは排除すべき対象とみなされる。
ところで「美しい音楽」や「美しい絵画」はそれぞれ、「よい音楽」や「よい絵画」に置きかえることが可能である。「よい」や「わるい」はすべての五感について使用することができる。だから「よい香り」や「よい味」、「よい手触り」ということもできる。しかし「美しい香り」や「美しい味」、「美しい手触り」という表現は成り立たない。これはなぜか。視覚や聴覚が言語を扱うことが出来るのに対して、嗅覚や味覚で言語を構成することは出来ない(触覚については、盲人が優れた彫刻を触って「美しい形だ」と感じ取ることが出来るかどうかわからないので保留する)。
このことから、「美しい」とは何らかの「意味の世界」と不可分な価値観ではないかと想像出来る。一方、意味の世界よりも原始的な「快−不快」はすべて「よい−わるい」に置きかえることが可能である。このことから「美醜」よりも「善悪」の方が意味の範囲が広いという事がわかる。「真偽」についても同様で、「本当の生き方」とは「この作品はホンモノだ」という場合、それは「よい」に置きかえることができる。
以上のことから「悪」の本質として、
の3点を取り出すことが出来る。
