りゅこ倫

■■2001年12月01日■■

「道徳」とは何か

 道徳とは何か。まず思いつくのは、それが人間関係における一種のルールだという事である。そしてそれは人間の行ないの善悪の基準であり、「〜すべし」といった命令形、あるいは「〜すべからず」といった禁止形で表現される。それが掟や法律と異なるのは、通常は明文化される事もなく強制力も弱いという点にある。言い換えれば、それは個々人が内面化している原理である。

 では、道徳における善悪とは何か。道徳においては、他者に対して危害を加えたり、迷惑をかけたり、不快にさせるような行為が禁止される(だから内容的には掟や法律と重なり合う事も多いが、必ずしも一致しない)。ではここで禁止される「悪」とは何か。これらの「悪」は、自分と他者との関係を悪化させる。それはなぜかを、さらに掘り下げて考えてみよう。

 現象学的に考えれば、人間に最も根本的なのは「意識=意識内容」である。デカルトは、「我考える、ゆえに我あり」を出発点としたが、私の考えでは、ここにはまだ予断が含まれている。「我あり」の「我」とは何か。これは、思考(意識表象)が現れている以上、考えている「我」が存在するはずだという推論の結果である。つまり、「私が存在しているはずだ」という確信であって、直接に与えられた経験ではない。この「私という確信」を「自我」と呼ぶ事にしよう。

 「自我」は「他我」の存在確信を呼ぶが、「他我」は翻って「自我」という確信を(間主観性によって)維持・強化する。つまり「私が存在しているはずだ」という確信(自我)は、それも一つの確信である以上、その維持・強化のためには他者の「あなたは確かに、あなたとして存在している」という承認を必要とする。つまり「自我」は他者の承認を求める。この事から、次の2つの事がいえる。

  1. あらゆる人間は「承認」を得るためのゲームをしている。
  2. したがって、自分を他者との関係の網の目の中に置かざるを得ない。

 ゆえに、「自我」はいつまでも単純な「我あり」ではいられない。なぜならば「私=自我」は他者から承認されるような「私」でなければ、その存在自体が危うくなるからである。この「承認」が人間関係のエロスの源泉となって、様々な価値観が生まれる。他者との関係において「私」が承認を得られるような事は「よいこと」であり、「私」が否定されるような事は「わるいこと」である。身体レベルの(人間以外の動物も持っている)「快・不快」は別にして、人間は「自我」(幻想我)を持つ事によって、人間に独特の価値観や行動規範を生み出すのである。

 ただし、このような価値観を持ったからといって、具体的に何が「よいこと」で何が「わるいこと」なのか、その判断が直ちに出来るようになるわけではない。周囲の他者との関係によって決まるので、独断で決める事が不可能だからだ。人間が自発的に他者に対する気遣いをする動機が、ここにある。ただしこの場合、「他者」とは誰彼の区別のない一様な「他者一般」なのではない。したがって、何が「悪=他者を不快にさせる行為」であるかは、具体的には相手により、また自分と相手の関係によって決まる。例えば、親子、恋人、夫婦、師弟、友人などによって、関係の在り方が違ってくる。

 その一方で、関係の如何を問わない、いわば普遍的な善悪の基準も定まってくる。例えば、『南総里見八犬伝』で有名な「仁義礼智忠信孝悌」という八つの徳目の内、儒教では「仁義礼智信」を「五常の徳」という。なるほど、残りの「忠孝悌」は、それぞれ君臣、親族親子、それ以外の関係における長幼の序(例えば先輩−後輩のような)といった、特定の人間関係における徳目である(友人間に「孝」を求める事は不可能であろう)。逆に「仁義礼智信」は、自分と相手との関係の種類を具体的には限定されないという意味で、より一般性の高い規範だといえるだろう。

 人間関係における善悪は、それが各人の「自我」の維持・強化に必要なものである以上、元々は個人ごとに、あるいは特定の関係ごとに発生した、個別的なルールだったはずである。しかし、やがて「自我」の維持・強化に有効な手段が、経験則として共有されるようになる。言い換えれば、個人的な規範としての倫理の内のあるものが、社会的な道徳という形でまとめあげられ、伝統的に共有される。しかし、法律のような強制力はなく、あくまでも個々人がそれを内面化し、遵守される事が期待される。

 なお、ここでいう「経験則」とは、それが必ずしも論理的に導かれたものではない、という意味である。例えば、他者に危害や迷惑を及ぼす行為は誰の目にも判りやすいものだが、それ以外にも、非常にささいな言動が他者に及ぼす影響というものがある。例えば、他人から無視される場合と、あるかなしか程度の会釈でもされた場合とでは、気分に違いが出る。だから、挨拶や礼儀といった事も道徳に含まれるようになるのだが、その際、なぜ気分に違いが出るのかという事について、論証されている必要はない。

 以上をもう一度、まとめ直してみよう。「道徳」の本質として挙げる事が出来るのは、

  1. 他者からの「承認」による「自我」の維持・強化。(目的)
  2. 人間関係を損なわず、よりよいものにする行動規範。(内容)
  3. 特定の人間関係におけるものと、より一般性の高いものに二分される。(種類)
  4. 共同体内における経験則として伝統的に共有・伝承される。(形態)
  5. 法律のような強制力はなく、個々人が内面化し遵守される事が期待される。(運用)

の5点である。

L.Jin-na


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