りゅこ倫

■■2001年12月06日■■

「欲望」とそれに先立つもの

 私は常々、「欲望」を考察の底板として置いているわけだが、ひるます氏のホームページ(http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/)に、

「欲望の主体―対象」という図式自体が「ハビトゥス」によってカタチづくられた「結果」として、いま・ここにあるのであって、「欲望から」それを説明することはできない
(中略)
そこらへんの逆転の発想が「ハビトゥス論」の面白いところだと思う

臨場哲学通信「習うより慣れろ!」号 No.72(01.10.25)
http://www.bekkoame.ne.jp/~hirumas/RIN/head72.html

という見解がある(引用中の「ハビトゥス」とは「習慣」の意味)。今回は、これについて考えてみたい。

 といっても、私が自分の従来の考え方について変更の必要を感じるわけではないし、かといって、ひるます氏の上の引用のような考え方を否定する必要も感じない。私の考えでは、この一見相反する2つの考え方は「どちらか一方が正しい」のではなく、いわば「層が異なる」問題なのである。したがって、この2つの考え方の間にどのような関係があるのか、それを明らかにする必要があるだろう。


 私が「欲望」を考察の底板にしているのは、もちろん現象学の考え方に根拠を置いている。まず、ここで改めて現象学の考え方について説明しておこう。

 近代哲学の重要な課題に、主観が客観を正確に捉えることは可能かという「主客一致問題」がある。人間は自分の主観の外に出て主観と客観を比べることはできないから、これが不可能だということはすぐにわかる。また、この問い自体がすでに「客観」の存在を前提としているわけだが、主客一致の確認が不可能なのと同じ理由で、そもそも「客観」の存在そのものが証明不可能なのだ。

 しかし、「客観」の存在は証明不可能でも、「『客観』が存在するという確信」は存在する。それはなぜか。例えば、私の目の前にパソコンがある。普通は、「パソコンが存在するから、私にパソコンが見える」と考える。つまり「客観があるから、その客観の像が私の主観に現れる」と考える。これは、これはごく普通の認識方法(自然的態度)だが、これを前提にすると上の「主客一致問題」という証明不可能な難問が発生することになる。なぜなら、パソコンが「客観」的に存在しているかどうかが証明不可能である以上、この証明不可能なことを前提として「主観」(私にパソコンが見える)を説明しても、何一つとして確かな事はいえないからである。

 そこで現象学では、逆に「私にパソコンが見えるから、パソコンが存在する(という確信が生じる)」と考える。この場合、パソコンの存在は事実として「客観的に」存在するのではなく、あくまでも「パソコンが客観的に存在するという確信」として捉えられる。「私にパソコンが見える」ということは、証明の不要な「原的な体験」である。もちろん、それが直ちに「このようなパソコンが『客観』として存在する」ことの証明になるわけではない。そうではなくて、この「原的な体験」は「パソコンが存在するという確信」が成立する理由なのである。こう考えることで初めて、「主客一致問題」が解消されるのだし、これ以外には方法がない。

 さて、最初に挙げた「欲望」もまた、自分の意識に現れるという意味で、やはり「原的な体験」として現れるものである。ハイデガー『存在と時間』の中で、現存在(人間)の本質を「情状性・了解・語り」だとしているが、「欲望」はこの内の「情状性」と重なり合う。この「情状性」とはいわゆる「気分」のようなものであり「感情」といってもよいかもしれない。これも「欲望」と同様、意識に「原的な体験」として現れるものである。そしてそれは、自分の意志によってではなく、ただどこからともなく「やってくる(到来)」という仕方で現れるのである。そしてそれは、自分の現在の状態を告げ知らせるものとして到来する。

 「欲望」もまた、同じ仕方で到来するのであり、それ以前にこの「欲望」が「どこ」で発生したとか、どのような過程を経て生成されたのかということは、「原的な体験」として私達に与えられるわけではない。つまり証明不要な「原的な体験」を説明の最初の置こうとすれば、「欲望」とは、それ以上さかのぼることの出来ない「底板」になる。つまり、この場合の「底板」とは、あくまでも人間について考える場合の出発点(原理)という意味である。


 一方、ひるます氏が指摘するように、私達は「欲望」がなぜ発生するのかという問いを持ち、またその問いに対する答えを考えることができる。これも、誰にとっても自明の事実だろう。だから、この指摘にもこの指摘なりの妥当性がある。

 まず確認しておきたいことは、「欲望」の生成過程や、生成の原因等は、私達に対して「原的な体験」としては与えられない、ということである。「欲望」は常に「欲望」として私達の意識に現れるのであり、その生成過程を私達は自分の意識の中で体験することはない。「欲望」の生成過程や生成の原因等についての説明は、「原的な体験」として与えられた「欲望」から、いわば逆算的に(因果関係を遡るように)導き出されたものとして考え出されたのである。

 そういう意味では、ひるます氏が挙げている「ハビトゥス」は、欲望発生の「因果関係」における「欲望」の原因なのであって、論理展開の順番として「欲望」がその原因に先立つこととは別問題なのだ。これは、上に挙げたパソコンの例と比較してみると、わかりやすいだろう。

主観(原的な体験)客観
パソコンが見えるパソコンが存在する
欲望ハビトゥス

 右の表において、「客観」を原因と考えるのが自然的な態度(パソコンが存在するから私にパソコンが見える)である。その考え方をひっくり返して、いわば「主観」(原的な体験)に原因を置くのが現象学的な考え方(還元)である。

 「ハビトゥス」の考え方は、現象学が自然的態度を逆転したのに対して、それをもう1度逆転し、自然的態度の視点を取っていることがわかるだろう。もちろん、それが悪いというのではない。これは何を問題とするかの違いであり、問題の違いに起因する視点の違いの問題であり、その区別をつけることが必要なのである。

 「ハビトゥス」とは「習慣」のことだが、これを私なりに言い換えてみよう。「欲望」は他の動物も持っているような生理的なものを除けば、人間特有の世界分節(意味文節)を前提としている。そしてその在り方は、「彼」がこの世に生まれて以来の経験い負うところが大きい。その内容は、他の時代や文化においては異なる在り方をしているものかも知れず、そういう意味では必然性がない(偶発的なもの)という事もできる。人間はそういう「何らかの意味や価値の体系」を身体化(内面化)しているのであって、それをここでは「習慣=ハビトゥス」と呼んでいる。このような考え方は、実は「客観」を前提とするような自然的態度の視点からしか成立しない。自然科学もそうだし、社会科学や人文科学も自然的態度に立脚しているのが普通である。

 例えば、心理学や精神医学において、分析者に「原的な体験」として与えられるのは、被分析者の症状、あるいはもっと広い意味での「言動」である。当たり前だが、分析者に対して被分析者の「無意識」が「原的な体験」として与えられるわけではない。この場合(というのは、つまり分析者が深層心理学の立場を取る場合というほどの意味だが)、分析者にとって被分析者の無意識の存在やその内容は、あくまでも被分析者の言動の背後に「想定」されるものである。それにも関わらず、分析者はあたかも被分析者の無意識が客観的に存在するかのように振るまい、それを被分析者の言動の「原因」として語ることができる。

 この例でいう「言動」を「欲望」に、「無意識」を「ハビトゥス」に置きかえればよい。因果関係を語る場合には、「言動」や「欲望」よりも「無意識」や「ハビトゥス」の方が先行する(因果関係における「原因」として扱われる)。しかし、考察や精神分析の手順について語る場合には、あくまでも「欲望」や「言動」が先立つのであって、原因である「無意識」や「ハビトゥス」はそこから導き出された概念である。どちらを先におくかは、何について語られているかというそのモチーフによって決まるのであって、両者を混同してはならない。

 もう1度、精神分析を例に取ると、被分析者がいかなる言動を取ったかについては、複数の分析者の間で意見が分かれることはないだろう。例えば分析者同士の間で、「彼はいま『いぬ』といったのだ」、「いや『ねこ』といったのだ」という争いは起きない。しかし、被分析者の「無意識」がいかにあるかについては、見解が分かれることがあり得るし、実際に見解が分かれることもある。だから、フロイト派だのユング派だのという複数の学派が存在する。異なる学説を前提としてスタートすれば、意見が合わないのはむしろ当然だろう。

 だから、現象学では疑いようのないところ、つまり「原的な体験」を考察の手順の最初に置く。それは「因果関係の出発点」ではなく、あくまでも「考察の出発点」なのだ。しかし、しばしばこの区別を失って混乱する人も多い。なぜなら、自然的態度(客観の存在確信)それ自体がそれこそ「ハビトゥス=習慣」になっているからで、名の知れた哲学者でさえ「還元」を徹底できずに、無自覚に自然的態度を混入させてしまうことがある。

 どちらの方法を取るのであれ、両者の区別がついており、それが「何を語るか」という目的において適切に選択されているのであれば、問題はないと思う。危険なのは、両者を無自覚に混在させ、そこから混乱を引き起こすことにある。還元が徹底できないということは、「主客一致問題」のパラドクスが解けない思想を導き出すことを意味する。したがって、それは現象学に代わる「原理=考察の出発点」にはなり得ない。

L.Jin-na


[前章] / [りゅこ倫] / [インデックス] / [次章]