りゅこ倫

■■2001年12月22日■■

「個性」とは何か

 「個性」とは何か。なぜこんなことを考えようと思ったのかというと、しばらく前から何かと「××は個性である」という言い方が流行っているからである。しかし以下に述べるように、その大半は眉唾物の「言い換え」ないし「すり替え」に過ぎず、「個性」という言葉を持ち出したからといって、それで何かが解決するわけではない。それについて述べるためには、まず「個性」とは何かということから明らかにする必要がある。


 「個性」とは何か。まず大雑把に思いつく意味としては「他とは違った特徴」ということが挙げられるだろう。特に、この言葉が人間に対して使われる場合、この「特徴」は性質や性格を指していることが多い。そしてこの言葉は、使われる文脈によってよい意味にも悪い意味にも用いられる。たとえば、

「あの人は個性的だ。」

という場合、優れた性質や性格の持ち主だということを意味する場合もあれば、「変わり者」とか協調性のなさということを遠まわしに表現していることも、決して珍しくない(もしかしたら後者の用例の方が多いかもしれない)。

 ところで、「個性」が「他とは違った特徴」のことだとして、この「違う」とはどのような「違い方」を意味しているのだろうか。人間が他の人間と違っている点は多々あるが、その「違い方」には複数の種類がある。顔かたちのように生まれつきの違いもあれば、能力や考え方などを後天的に身につけた結果として現れるような違いもある。

「あの人は個性的な顔立ちをしている。」

という場合、それがよい意味で言われているかどうかは別にして、これは基本的には先天的な違いを指していると考えてもよいだろう。「基本的には」というのは、顔面の物理的な造形ばかりではなく、表情などが他者に与える印象に影響するからである。一方、

「個性的な考えの持ち主」

という場合には、これは後天的に現れる違いである。なぜなら、人間のものの考え方は、その人物がそれまでに学んできたことや、その他の経験によって形成されるからだ。

 両者に共通して言えることは、「個性」とは他者から見て、何らかの形でその人の「人となり」を想像させる材料になるものだということである。

 たとえば「顔」は、見る人に対して強い訴求力を持つ。人はどうしても他者の表情を読み取り、その内面を推し量ってしまう。眉や目の両端が垂れ下がった「垂れ眼」の人を見ると、何か困っているような、あるいは気が弱そうな印象を受ける。実際には、その人が何かに困っていたり気が弱い人だったりするとは限らないのだが、見る人に対してそのような第一印象を与えてしまうということは、よくある話である。身体の他の部分に比べて、「顔」は化区別の雄弁性を持ち合わせている。だからいかに特徴があっても、冗談としての言いまわしを除けば、「個性的な腹」とか「個性的な脚」とは普通は言わない。また、「考え方」や「行動」は、まさにその人の「人となり」を現すものだと考えられている。だから、これらについて「個性的」であるかどうかは、多かれ少なかれ人々の関心の的である。

 「障害は個性だ」という主張に対して、私はこの主張を知った当初から強い違和感を抱き続けてきた。その理由は、私の考えでは、単に障害を負っているという事実だけでは、障害者の「人となり」を判断するのに不充分な材料にしかならない、という点にある。

 例えば(何でもよいのだが)、『五体不満足』(講談社)の著者の乙武洋匡氏のような、先天性四肢切断(生まれつき手足がない)を考えてみよう。ある誰か未知の人について、彼(彼女)が先天性四肢切断という障害を負っているという事実が判っても、「それは不便だろうな」ということくらいしか、私には想像がつかない。先天性四肢切断なら誰もが乙武氏のように強く、明るく生きられるというわけではないだろう。仮に乙武氏の他にもそういう人がいるとしても、その一方で、自分の運命を呪い、親を恨みながら屈折した人生を送っている人が存在する可能性も、充分に考えられるからだ。「乙武氏にとって」彼の障害は、彼の個性が形成されるにあたって、無視できないものだったと思う。少なくともその形成過程に着目する限りにおいては、彼の障害と彼の「個性」とは不可分な関係にあると見てもよいだろう。

 しかしそのことと、障害それ自体が「個性」だということとでは、全く意味が異なる。人間が個人としての「人となり」を形成するにあたって、その背景には生育史や社会階層、職業や役職(社会の中での立場)、経済状況、その他の条件が複雑に絡み合っているはずなのである。障害の有無や種類はせいぜい、それらの諸条件の中の一つに過ぎない。

 もちろん、このHPのテーマである「性別」についても同じことがいえる。「性別は個性だ」という主張には、「障害は個性だ」というほどの妥当性もない(にも関わらず、こういう主張をする人も複数存在するのである)。男であれ女であれ、人類の半分は自分と同じ性別だということは常識以前の話である。そんなものが「個性」であるはずがない。もし性別が「個性」だというのであれば、それよりも人数の少ないカテゴリーに属することはすべて「個性」だという話になるだろう。「小学生は個性だ」、「金髪は個性だ」、「団塊の世代は個性だ」、「喫煙者は個性だ」、「モンゴロイドは個性だ」、「官僚は個性だ」、「脳死は個性だ」等々・・・。どう考えても、「個性」とは何かということをまともに考えていない安易な用法か、もしくは悪質な冗談だとしか思えないのである。「性別」も「個性」との関連で述べる限りは、上に挙げたような「人となり」を形成の背景をなす諸条件の一つでしかない

「性別は個性だ」という主張の中には、性二分法を否定して、「n個の性」のような考え方を提唱する人もいる。だが、これはあくまでもロジカルに生み出された性概念であり、人々の日常生活の中で使用されることのない「死んだ概念」に過ぎない。実際に人間の数だけ「性別」を区別し、それに基づいて行動している人がいるとは、私にはどうしても思えないのである。もちろん、個々人の間には必ず何らかの形で違いが存在しているし、私達は通常それを疑ったりはしない。だが、そうした個々人の違いを、けっして「性別」という概念で一括して呼んだりもしない。


 この問題をさらに掘り下げて考えてみよう。「障害は個性だ」とか「性別は個性だ」といった主張は、どのような動機で生まれるのだろうか。言い換えれば、このような主張をする者たちは、これらの主張によって何を(あるいはどのような状態を)企図しているのだろうか。

 まず、これらの主張における「個性」は、悪い意味で使われているわけではない。たとえば「障害は個性だ」という場合、これが障害者を貶める目的でなされた主張だとは考えられない。だからといって、ごく一部を除けば「障害者こそ素晴らしい」というような、ことさらに「障害」を何かよいものとして称揚しようという意図を感じ取ることも出来ない。ここで使われている「個性」の意味は、毀誉褒貶のいずれでもなく、むしろ価値判断の否定という目的で使われている。

 これは、一部の教育者や教育評論家がやたらと「平等」と「個性」という言葉を振りまわすのとよく似ている。「子供達の間に優劣はない、ただ『個性』だけがあるのだ」という、あの論法である。世の中には面長の人もいれば丸顔の人もいる。それと同じように、身体障害者もその身体がいわゆる健常者と少し異なっているに過ぎない。そういう相対主義的な主張である。

 もちろん私も、身体障害者がその障害ゆえに、人格的に劣っているというつもりはない。これは性同一性障害についても同じである。しかし、身体の障害であれ、性同一性の障害であれ、障害は不便である。もちろんこの不便は、障害の種類と程度にもよるが、ある程度は克服が可能だ。私は中学生の頃に右手の中指を骨折し、人差し指と一緒に1ヶ月ほど固定されて箸が使えなかった経験がある。しかし、左手ではどうしても上手く箸が使えず、右手の残りの3本の指(親指と薬指、小指)で箸を使うようになった。最初の内はなかなか思うようには箸が使えなかったが、1ヶ月も経った頃には思った以上に器用に箸を操ることが出来るようになった。だが、このような取り組みをしなくてはならないということ、それ自体が一種の不便に他ならない。これは文字通り「ハンディキャップ」であり、そんなものが「個性」であろうはずがない。誰だって(よほどの物好きでもなければ)そういう努力をしないで済むものなら、それに越したことはないのだ。そういう意味では、障害者と健常者の間には人格的な優劣の差はなくても、障害と健常の間には優劣の差がある

ついでに書いておくと、私は近視と乱視という性質を持っている。障害者として認定されなくても、これもやはり不便には違いない。乱視はここ数年のことだが、近視はかつて、これのためにある大学の受験資格を失った。私はとても「近視は個性だ」と主張する気にはなれない。

 私の箸の例はごく一時的なものに過ぎないが、身障者の中には両腕を失っても口に筆や棒をくわえ、見事な絵を描いたりパソコンを駆使する人がいる。健常者がそれを見て感嘆するということがあるが、確かにそれができるようになるまでの努力は感嘆すべきものがある。それは素直に認めるべきである。ただし練習さえすれば健常者にも習得可能な能力なはずなのだ。私のように古流剣術をやっていると、健常者同士の間でも、自分の身体をいかに精密に制御できるかに大きな違いがあることがわかるし、高次の技術を身につけてその身体が術理そのものと化しているかのような人物に対しては、畏敬の念が湧く。つまり、このような感嘆や畏敬の念は、相手が障害者であるか健常者であるかということは問題ではない。少なくともそれが主題なのではない。重要なのは、障害者と健常者とを問わず、彼(彼女)がどれほどの修練の努力を積み、その結果どれほどのものを身につけたか、という点にある。

 障害が「個性」なのではない。絵を描くために口で絵筆を駆使する技術を身につけ、描画を楽しむようになったとき、そこに彼(彼女)の個性が開花するのである。障害は単にそのきっかけであるに過ぎず、また障害者なら誰でもそういうことをするというわけではない。ここで感嘆の対象になるのは、障害者一般ではなく、あくまでも「彼(彼女)」という個人なのだということを忘れてはならない。また、そうでなければ「個性」とはいえないのである。能力だけではなく、ものの考え方についても同様である。乙武氏の「個性」は、彼のものの考え方や、彼の自分自身の人生に対する取り組み姿勢にあるのであって、手足のないことが「個性」なのではない。「障害は個性だ」という主張はむしろ、障害とは何か、「個性」とは何かということが充分に考えられていない謂いではないか。

 一方、上にも述べたように、「性別=個性」という主張はさらに愚劣である。このような主張は、性別それ自体を相対化し否定しようとする意図に基づいている。もちろん、男女は法の下に平等であり(もしくは平等であるべきであり)、もしそうなっていない実態があるならば、それは改められなければならない。だが、男女平等の実現が、性別の否定によってしか実現できないと考えるのは、致命的な誤りである。数年前から繰り返し述べているように、差別は差異を利用して行なわれるが、差異が差別の本質なのではない。性差別が性差の否定によってしか解決できないと考えるのは、肌の色が同じにならなければ人種差別がなくならないと考えるのと同じである。このような考え方であらゆる問題を解決しようと考えるならば、言語や宗教も、統一もしくは否定しなければならなくなるだろう。しかし、もちろんこのような考え方は「個性」という概念とは両立が不可能である。

 私が子供の頃(1970年代)には、戦争や人種差別をなくすために肌の色や言葉の違いがなければよい、という話を聞いた記憶がある。だが、人種や宗教に関係なく平等、というのは、身体的特徴を統一することや、世界統一宗教を作ったり、宗教を否定したりすることではない。人種や宗教の違いがあっても平等に扱うということなのだ。もちろんこんなナイーブな差異否定の思想は今では通用しない。それがどういうわけか、性別という分野にだけは根強く残っている。そういう意味で性に関する差別の問題は、他の分野に比べて少なくとも数十年は遅れているといってよい。性の分野で進歩的と考えられているフェミニズムやジェンダーフリーの思想は、平たくいえば時代遅れの左翼思想に他ならない(昨今の社民党などは、いっそ「フェミニス党」とでも名前を変えたらどうかと思う)。

 もちろん、性別は障害と同様に「個性」そのものではないが、「個性」の形成の基礎条件には充分になりうる。例えば、男と女でものの考え方が違うといういことは、個別論としてはともかく、一般論としては成立する(ただし、昔の一般論が必ずしも現代にそのまま通用するとは限らない)。性同一性障害についても同じことで、性同一性障害であることがそのまま「個性」だということは出来ない。しかし、性同一性障害であるがゆえに、ある当事者個人が独特の「個性」を形成して行くということは、充分に考えられる。ここを混同してはならない

 「自由」や「平等」も同じだが、「個性」という言葉もまた、現代においてその意味が充分に考えられていないままに、あまりに安易に乱用され過ぎているのではないだろうか。こういった言葉を使えば、何事かを考えたつもりになれるようなターム(用語)がある。これを仮に、「擬似思考用語」と呼ぶことにしよう。どんな言葉が「擬似思考用語」に含まれるかは、思想的な流行の問題である。だが私の印象では、その大半は「思考」というよりも、単なる「言い換え」に過ぎない。

 例えば「個性」という用語を使うことによって、身障者に対する差別が解決できるわけではない。悪意さえあれば、身障者に対して「なんとも個性的な身体だね」と揶揄することも可能だからだ。さしずめ性同一性障害などは「きわめて個性的な性別」とでも呼ばれることになるだろうか。差別用語の禁止を「ネガティブな言葉狩り」と呼ぶとしたら、「個性」等の「擬似思考用語」の使用はいわば「ポジティブな言葉狩り」である。だが、そこには差別の本質は存在しない。どちらの言葉狩りも、いつまでも差別という現象の周囲をウロウロと徘徊するだけで、問題解決のために差別の本質に迫ることは不可能なのだ。

L.Jin-na


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