りゅこ倫

■■2002年01月01日■■

寄稿『「公」と「個」』によせて

 昨年12月27日、高橋宏さんから、下の考察をメールで頂いた。小林よしのり氏の『戦争論』を読んで、「個」と「公」についての考え方に違和感を感じ、インターネット上でこの「りゅこ倫」「51.公の根拠としての私」「75.公と私と文化」「61.国家とアイデンティティ」などを探し当てられたとのことである。

 拝見したところ、実感から離れずに根本から考えるということのお手本のような考察とお見受けした。考察の内容と方法とが優れていると感じられたので、ご本人のお許しを得て公開させていただくことにした。下に、まず寄稿文『「公」と「個」』を全文掲載させていただき、さらに蛇足ながら私の感想と意見を添えさせていただくことにした。


「公」と「個」

(高橋宏さん)

小林よしのりの戦争論を読んだ。共感する部分もあったのだが根本的な部分で私の考え方との違いを感じた。それは「公」と「個」の議論に集約されるように思う。
「公」=「国」なのかという一点である。以下に私の考えを整理してみたい。

ただ「公」といっても漠然としていていろいろな意味を込めて使われるので捕まえにくい。{「公」のために××する}という文脈における「公」とは何かを考えることにする。
私の考えでは「公」=「共同体」あるいは「共同体を尊重する意識」である。「共同体」とは「ある絆」によって結びついた「個」の集合体であり「ある絆」の中味によっていろいろなレベルでの共同体が存在する。

血縁による結びつき→一族    (「ある絆」=血縁)
愛情による結びつき→家族
地縁による結びつき→古代の村落共同体
支配圏による結びつき→戦国時代の各地方勢力
民族による結びつき→ユダヤ人社会など
宗教による結びつき→イスラム世界など
経済的利益による結びつき→会社
人工的取り決めによる結びつき→スポーツのチーム
同じ「場」にいることによる結びつき→1台のバスの乗客

ここで重要なのは単純に「個」が集まっただけでは「共同体」にはならないという点である。つまり「公」もない。「ある絆」が「個」をむすびつけて「共同体」を成立させる不可欠な役割を果たす。また事実として「ある絆」が存在するだけでも不十分で、それぞれの「個」が「ある絆」を肯定的に意識しているときにはじめて「共同体」が成立する。

これをバスの乗客の例で説明してみたい。彼らは客観的事実として同じ「場」にいるという「ゆるやかな絆」で結びついている。乗客が他の乗客と乗り合わせていることを意識しなければそれは「共同体」ではない。従って「公」の意識もないから、他人の迷惑になる行動をとってもなんとも思わない。
乗客が他の乗客と狭い車内に一緒にいるのだという意識をすこしでも持てば、ゆるい結びつきではあるが「共同体」の感覚が発生し、すくなくとも他の乗客に不愉快な行為を自発的に控えようとするだろう。ちなみにどのような行為が不快かについての具体的な知恵は「慣習・文化」の受け持ちであって「共同体」のためにという意図までが「公」なのだと思う。
仮にそのバスがバスジャックにあったとすると、乗客の間に同じバスに乗り合わせている事実が強烈に意識され連帯感が生じるだろう。体験を共有するなかで「公」の意識も強まり、自分を犠牲にしても他の乗客を助けようとする人さえでてきても不思議ではない。

同じことの説明になるが、チームであるという事実だけでは「個の集合体」であるに過ぎず、「公」は存在しない。彼は個人プレーに走り、自分の評価さえ高まればそれで満足だろう。その結びつきをその個人が愛着を持って大切に思うかどうかがポイントであって、それがあるときそのチームは「共同体」であるといえる。

「共同体」の意識は客観的事実が同じでも人によって異なるし、同じ人であってさえそのときの状況によって変化する。バスの乗客の「公」は同じバスに乗り合わせたという「場」の生む「共同体意識」で「国」ではない。他の乗客の迷惑にならないようにするのは「国」のためではなく「バスに乗り合わせた他の乗客」のためである。その同じ乗客がサッカー選手で試合へ行く途中だったとする。試合中のその選手の「公」は「チームという共同体」のためにかわるだろう。戦争が起きてその選手が戦場へゆくときにはじめて、彼の「公」は「国」であると意識されるのだ。

現実の個人は、家族、親族、クラスメート、チームメート、同僚、会社、地域自治体、地方社会、民族、宗教、国家・・・様々なレベルの「個の集合体」に同時に所属している。これらの全てが自動的に「公」なのではなく、ある特定の状況下で肯定的に意識された「共同体」が「公」となるのだ。

さて、ある個人にとって複数のレベルの「共同体」が同時に成立するという状況もあり得る。その場合の「公」とは何か? 小林よしのりの「戦争論」のなかで藤井中尉の特攻隊の物語があるがこれを例に考えてみたい。

藤井中尉は特攻隊員の部下を「国のために死んでくれ」「自分もあとで行く」と言って送り出す。一方彼には妻子がいて家族を残してなかなか行けないという悩みがある。彼の奥さんははじめ「死なないでほしい」と言っていたけれども最後には「あなたが思いのこすことがないような行動がとれるように、先に行って待ってます」と遺書を残して身投げしてしまう。それで思い残すことがなくなった藤井中尉は特攻を志願して行く。そんな物語があった。 このとき藤井中尉には「部隊」と「家族」と「国」という3つの「共同体」意識が共存し自分の死をめぐって個人の私情を含めると4つの立場からの葛藤があったのだろうと思う。つまり

個人の私情としては 「死にたくはない」
部隊長としては   「部下だけを死なせはしない。俺も行く」
家族のためには   「死ぬわけにはいかない」
国のためには    「死を厭わずに役立ちたい」 の4つである。

この4つのなかで藤井中尉は個人の私情としての「死にたくない」は最初に捨ててしまったかもしれない。彼にとって国のために私情をすてることは比較的にたやすいことだったようにも見える。しかし「国・部隊のための死」と「家族のための生」の二者択一は大変な苦悩を伴うものだった。実は彼は最後までその選択をしていない。奥さんの決意により「家族」という共同体が消滅することで選択する必要がなくなったからだ。

では、彼の奥さんにとってはどういうことだったのだろうか?藤井中尉と自分自身の生死について3つの立場からの葛藤があったと思われる。

藤井中尉について自分自身について
私情としては「死んでほしくない」「死にたくはない」
家族のためには「死なせるわけにはいかない」「死ぬわけにはいかない」
国のためには「死も厭わずに役立ってほしい」「死も厭わない」

単純に考えるなら奥さんは私情を乗り越えて、また「家族」という「国」に比較して小さな共同体の立場も超越して、藤井中尉が心おきなく「国」のお役にたてるようにわが身も犠牲にすることを選択したのだといえるだろう。そしてそれは感動的な行為であるというなら、私もその通りだと思う。

しかし、素直でない私は本当にそうだったんだろうか?と考える。奥さんが身投げしたのは本当に「国」のためという意図だったのだろうか?奥さんは藤井中尉の葛藤を知っていた。愛する人の苦しみの一因が自分の存在にあることもわかっていただろう。通常では考えられないことであるが、戦時中のあのような状況においては愛する人を苦悩から解放するために身投げするということもありえたと思う。奥さんは「国」のためではなく「藤井中尉」への愛情のためにあえて自分自身の死を選択した可能性もあるのではないか?もしそうであったとしたらそれは「国」のために比べて価値の低い決断だったとして貶められてしまうべきことなのだろうか?

小林よしのりは複数のレベルの「共同体」が同時に成立しているときには、そのなかで最も大きなレベルのものが「公」であると言いたいのだと思う。
先の例では「家族」よりも「部隊」よりも「国」が上位の「共同体」であり、「国」のためが「家族」のために優先すべきである。従って「公」=「国」だということになるのだろう。藤井中尉の場合はこの論理によく適合しているように思われる。{彼が「公」=「国」だと考えること}に反対しようなどと私は思わない。むしろ藤井中尉の考えは美しいと思う。しかし、{すべての個人にとって「公」=「国」でなければならない}と言われれば、私はそうは思わない。{「公」=「国」だと思わないやつは人間の屑だ}という思考にいたっては醜いとさえ思う。

国家間の戦争という状況においては(善悪はおいといて既に戦争状態になってしまった状況で)「公」=「国」と思わない個人が多ければ国民全体の生命が危うくなるという意味で他に選択の余地がなかったとは言えるのかもしれない。それでも{「公」=「国」である必要があるからこれが絶対に正しいのだ}という理屈は成り立たない。
私の考えでは「共同体」が単なる「個」の集合ではなく個人の価値観を含んだ結びつきによって成り立つものであるいじょう、ある個人が「家族」・「部隊」・「国」のどのレベルを「公」として優先するかはその状況下で各個人が決断することであって、外部から「こうあるべきもの」として与えられるものではないのだと思う。

また「共同体」の最も大きなレベルは「国」である。だから「公」=「国」なのだとも小林よしのりは言う。「世界」が「公」になり得ない理由として彼は慣習や文化の相違をあげて「公共心」が違うから無理なのだと言う。はたしてそうだろうか?慣習や文化とは{特定の集団の間で合意された表現方法の体系}といえるのではないか。文化の相違とは例えばお客様をもてなすやり方の相違であって、お客様を大切にする心そのものが違うということではないだろう。文化が違っても共通の「公共心」が成り立たないなどということはなく、表現方法が異なるために誤解を生みやすく理解しあうことが困難であるに過ぎないのだと思う。困難であることと不可能であることは違う。小林よしのりが「世界」を「公」にするのは大変だからやめようと言うのなら理解できる。しかし「公」の限界は「国」までだと言い切ってしまうのは間違いだと思う。何度も繰り返すが「共同体」の意識は「個」を結びつける「ある絆」が存在し、「個」がそれを愛着をもって大切にすることから生まれる。簡単に言えば「ある絆」による仲間意識である。「公」の限界が「国」だと言い切ることは、{自国民だけが仲間であり他国の人間はどうでもいいのだ。}と言っているように私には聞こえてしまう。小林よしのりは確信犯的に「それでいいのだ」と言いたいのだろうか?
{誰もが常に「公」=「世界」だと思うべきだ}というのが小林よしのりの言う左翼の思想であるらしい。私は{ある状況で「公」=「世界」であることがあっていい}と思うし「世界」という共同体を私は好きだけれども、他者に好きになることを強制するつもりはない。私は小林よしのりが「国」という様々なレベルの共同体の中の一つに過ぎないものに特別の地位を与えたがることを疑問に思う。彼が「国」を特別に好きであるのは自由だし私はそれを尊重するが、「おまえもこれを好きになれ!ならないやつはおしおきだ!」などと言われては嫌いでなかったものまで嫌いになってしまいそうだ。(私は「世界」だけが好きなわけではなく「国」だって好きだ。念のため。)

「公」を人に押し付けることはできない。「公」はそれぞれの「個」の中で自発的に育つものだから。ムチをふるって国を愛せと強要することなどできない。愛されるような国にする努力ができるだけなのだと思う。それはどんな「共同体」でも同じことだ。世界についても。「共同体」が大きくなるほど、より多くの努力が必要になり困難さが増すという違いがあるだけだと思う。


 結論から言ってしまえば、私からはまったく異論もなく、考える道筋もしっかりとしたみごとな考察で、お世辞抜きに素晴らしいと思う。高橋さんはまず「公」(=「共同体」)とは何かという事を考えるところから始めているが、これが何かの辞典から引っ張ってきた言葉というのではなく、ご自分の実感として「公」の意味本質を取り出している点に注目する必要がある。これが、現象学風にいうと、きとんとした「『公』の本質直観」になっていることに驚かされるのである。たぶん、私が考えても同様の結論に至っただろう。小林よしのり氏の『戦争論』に書かれている藤井中尉のエピソードに関する考察も同様である。

 それから小林よしのり氏は、「共同体」の最も大きなレベルは「国」だから「公」=「国」なのだという。そして、「世界」が「公」になり得ない理由として彼は慣習や文化の相違をあげて「公共心」が違うから無理なのだという。それに対して、高橋さんは、「国」の場合よりも難しいけれども「世界」だって「公」になりうる、少なくともその可能性はあると考える。私は、これも高橋さんに賛成だ。

 例えば、日本はかつて数百の藩に分かれていた。そういう時代に「日本」という単位は「公」にはなり得なかった。もし、小林よしのり氏が江戸時代に生まれていたら、彼は「公」=「藩」が限界で、「日本」は「公」になり得ないと考えたかもしれない。だが少なくとも現在では、仮に「藩」を「都道府県」に置き換えたとしても、そういう「公」の限界付けは誰も認めないだろう。

 高橋さんの考察では「公」の本質が言い当てられているわけだが、この本質は「国」あるいは地域や人種などの具体的な制約とは無関係である。「公」=「共同体」の本質である何らかの「絆」があると認められれば、どんな範囲でも「公」たり得るし、逆にそれが認められなければどんなに狭い範囲でも「公」にはなり得ない。それだけの話である。

 そして、その「絆」というのは、歴史を見る限りでは常に宗教や政治単位(藩や国家)を越え出る性質を持っている。これも江戸時代の日本を例に取ると、江戸時代というのは「藩」という政治単位で分かれていたわけだ。だが少なくとも中期以降には、海運の発達によって国内貿易がかなりの規模で行なわれている。政治的には二百数十の藩に分裂していたのだが、流通・経済の分野では統一が進んでいた。現在では、「日本」を「世界」に、「藩」を「国」に置き換えた規模で、同じような現象が起こっている。

 ヘーゲルはこの経済活動の領域を「市民社会」と呼んで「国家」と対置するのだが(もう一つ「家族」というカテゴリーもある)、近代初期は一応は「市民社会」が「国家」の枠の中に収まっていた。もちろん当時にも貿易はあったが、現在ほどには国家間の相互依存性が高くなく、だからこそブロック経済なんかも可能だったのである。したがって当時は一応は、ヨーロッパのあちこちに「市民社会」があり、それぞれの「市民社会」の上に「国家」があるという形を取っていたと考えることが出来る。

現在では通常、市民というと「市民権」みたいに政治に参加する人というイメージがあるが、それはヘーゲルでは「国家」に属する話である。彼のいう「市民」はいわゆる「シトワイヤン」ではなく「ブルジョワジー」で、契約などを通じて商業活動をする人、もっと広い意味でいえば経済活動をする人の意。要するに、ここでの「市民社会」というのは利益を追求する領域を意味する。そして、そこで起こる利害対立の調整を行なうのが「国家」である。もちろん、同一人物が一面では「シトワイヤン」であり、別の一面では「ブルジョワジー」であり、同時に「家族」の一員でもある、ということもあり得る。高橋さんの表現をお借りすれば、「ある個人にとって複数のレベルの「共同体」が同時に成立するという状況もあり得る」ということになる。

 だが、現在ではこの考え方ではやっていけない。日本の場合も貿易をやめたら経済が立ち行かなくなる。これはアメリカや西欧諸国も同じだし、アメリカはしばらく前から、東アジア地域との貿易額がヨーロッパ相手の貿易額を追い抜いている。したがってアメリカとしても、アメリカ一国で孤立できないことはもちろん、「欧米」という範囲の中だけで経済活動を完結させることも不可能である。この経済的な相互依存性のために、いまや先進国同士の戦争は事実上不可能になっている。例えばもし仮に、いま日米が戦争をすると、どちらも経済的に立ち行かなくなるだろう。

 世界の大半の国は(そして少なくともすべての先進国は)、多国籍企業に象徴されるように、いまや流通・経済の面では国境などないも同然である。だからアメリカが、あるいは西欧諸国がどうなっても日本は関係ないとはいっていられない。彼らがコケたら、日本の経済にも深刻な影響が及ぶことは避けられないからだ。日本という「国」からいきなり「世界」は無理でも、少なくとも何カ国かに共通する利害というのは考えざるを得ない時代になっている。そういう意味では既に、「公」の範囲を「国」をもって限界とする、という考え方は成り立たない状況になっているのである

 経済というのは、ただ儲ければいいというわけにはゆかず、例えばどこか1箇所に富が集中したらそれまでの話である。少なくとも資本制の下での流通や経済というのは「活発に流れていること」が大切なのだ。資本制というのは放置しておくと貧富の差が開くのだが、一人勝ちを許すと、結局はその勝者も含めてガタガタになってしまう。だから、完全な平等というのではなくても、あまり貧富の差が開き過ぎないように調整する必要がある。国内的にはそれは「国」の役目だが、現在ではそれと同時に国家間でも調整の必要がある。その調整が可能になるためには各国が何らかの共通の利害を認識していることが必要で、それは一種の国際的な「公」の意識、あるいはその根拠だといえるだろう。

 それから、これは昨年の10月末に発売になった『戦争論2』や、西尾幹二氏の『歴史と科学』(PHP新書)等を読んで思ったことだが、個人のアイデンティティの根拠を共同体(国家や民族)に置くというのは、考え方としては逆であろう。「国民国家」は近代以降の産物だが、アイデンティティの根拠を共同体(国、民族、宗教等)に置くという考え方それ自体は、近代以前から世界中に普遍的に存在する。だが、そこから考え始めると「どういう国の在り方がよい在り方か」ということを考えられなくなる。どんな国でも「国」は「国」だ、そこにアイデンティティの根拠を置くべきだ、と考えたら、どんな「国」であれ自分の国である以上それを認めるべきだという話になってしまう。

 「国」を前提に「国」を考えることは出来ない。単純な伝統主義でやって行けるのならそれでもよかろう。しかし、何か問題が起こった場合には、これでは問題解決のための考える道筋というものがなくなってしまう。これは、思想としては致命的な欠陥だといわざるを得ない。これは、伝統主義だけの欠陥ではなく、例えばマルクス主義にも同じことがいえる。マルクス主義を現実の政策として用いた場合、それで何か問題が起こっても「マルクスに戻れ」と言うしかない。マルクス主義ではマルクスの考えは「真理」だから、それ以外に正解があるとは考えない。したがって何か問題が起こった場合には、政治のあり方がマルクスの考えとどこか違うのだと考えざるを得なくなる。現にこれは、かつて日本の左翼がソ連や中国を批判せざるを得なくなった場合の常套句として使われていた。だがこれは、伝統主義たる儒教において「周公の昔に戻れ」というのと同じことなのだ。自分の頭で問題解決を考える事なく、過去のどこかに正解があると考える点で、両者は同型である。

 だから、近代哲学では「個人」をスタートとして物事を考える。そして人間に共通だと考えられる諸性質を取り出す。それでたとえば、人間は自由を求めるものだという共通性を取り出したら、そこから「自由を大切にするような国の在り方が望ましい」と考えることが出来る。国家主義や民族主義、伝統主義というのは、この考え方が顛倒しているのだ。繰り返すが、これも左翼でも同じことだ。どういう国が望ましいかという事はどこかで誰か(マルクス)が決めて、それを実現するために社会改革に貢献するのが正しい生き方だ、ということになってしまう。実はどちらも「個」と「公」を別ものと考えていて、「共同体主義」という点では共通している。どちらの考え方においても、近代哲学が「個人」を思考のスタートに置いた、そのモチーフがまったく理解されていないのだ。

 「国」であれ他の何か(規模の大小を問わず)であれ、自分が所属する共同体を愛したり、それをアイデンティティの根拠に置いたりすることを、他からの要請ないし命令で実現しようとすると、必ず抑圧的な社会になる。また、だからといって現代思想のように共同体やアイデンティティといった概念を否定するのも、あまりに短絡的に過ぎる。これはいわば、人間が価値観を持つことそのものを否定しているわけで、これもやはり別の意味で人々の実感に沿わない、抑圧的な思想になる。そうではなくて、人々が自発的に共同体を愛するような、共同体が皆にとってよいと思われるような、そういう共同体の在り方とはどのような在り方なのか。その「愛される条件」を考えることが大切で、それは「個人」から出発して考えなければわからない。それが上手く行くと、「公」が「個」の中で育つのである。

L.Jin-na


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