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■■2002年03月01日■■竹田エロス論と<他者=外部>
倫理問題について、<他者>とか<外部>といった用語を目にすることがある。私の知る範囲で<他者>をいい出したのは、おそらくE.レヴィナスである。彼は元々は現象学から出発したが、やがて現象学からはずれてゆき、その現象学から外れたところで、<他者>ということをいい出すことになる。私は今回、これについて改めて現象学の立場からの再検討を試みようと思う。以下、
と表記して区別することとする。
レヴィナスが<他者>を持ち出したモチーフは何か。それは、ハイデガーのいう「了解」を人間(=現存在)の本質だとすると、人間は本質的に自己中心的な存在だということになる、と考えた点にある。私の考えでは、このレヴィナスの考えの背景には、「人間は<他者>に出会って自我を解体され、自己中心性を越え出るべきではないか」という要請がある。だが、「自己中心性を越え出るべきではないか」という考え自体が、すでに既存の倫理概念を前提としている。したがって、そういう要請の下に<他者>の存在を想定するということもまた、実は既に一種の倫理的態度なのであって、「倫理の根拠」なのではない。<他者>を倫理の根拠に置けば循環論となってしまう。もう少し噛み砕いていうと、レヴィナスの思考は「倫理」について根本から考えるようなものではなく、逆に彼が(あるいは世間一般が)「これが倫理だ」と思いこんでいるものに、根拠を後付ける試みに他ならない。
また私は最近まで、レヴィナスの<他者>概念を一種の「転回」だと思っていた。だが今回この稿を書くに当たって確かめ直してみると、レヴィナスが最初から現象学を充分に理解していなかったことが見て取れる。紙幅の都合でそれを逐一挙げることはできないが、たとえば第二次大戦直後の著作『存在から存在するものへ』でも、彼の思想の前提には「客観」存在が混入しており、この不徹底さが混乱を呼んでいる。
このことを、現象学の説明を兼ねて別のいい方で表してみる。近代哲学の重要な課題に、主観が客観を正確に捉えることは可能かという「主客一致問題」がある。人間は自分の主観の外に出て主観と客観を比べることはできないから、これが不可能だということはすぐにわかる。また、この問い自体がすでに「客観」の存在を前提としているわけだが、主客一致の確認が不可能なのと同じ理由で、そもそも「客観」の存在そのものが証明不可能なのだ。
「客観」の存在は証明不可能だが、「『客観』が存在するという確信」は存在する。これはどんな懐疑論者にも当てはまる。口ではなんといっても自分に向って自動車が突っ込んできたら、やはり避けようとするだろう。この自動車は実は存在しないんだといって車に轢かれる人はいない。ただ、この場合にも現象学では「自動車の存在」を「真理」だとは考えない。自動車が本物であれ立体映像であれ、自動車を避けた人がその時に自動車の存在を確信していたことは事実である。これを「存在妥当」と呼ぶ。しかし「存在妥当」は「真理」ではなく、常に「実は立体映像だった」というような編み変え(妥当変更)の可能性を持つものとして考えなければならない。
レヴィナスの<他者>も、その存在の証明は不可能である。なぜなら、レヴィナスのいう<他者>はそのモチーフの性格上「自分の主観に現われ出た他者」ではありえず、したがって主観の外側に存在するという意味で一種の客観的存在として想定されているからだ。この<他者>を根拠とした主張を信じるかどうかは、証明不可能な<他者>の存在を信じるかどうかにかかっており、普遍性を持たない。これはいわば、<他者>の神学、<他者>の形而上学になる。その意味では、レヴィナスのいう<他者>とは、神仏や「イワシの頭」と同じことなのだ。
現象学的には、他者は「私」の意識(主観)に現れた「他者」という形でしか存在できない。言い替えれば、意識に現れないものは存在確信(存在妥当)が成立しない。この点では、自分の目の前に立ちその存在を疑えないような「他者」も、単なる想定上の「架空の他者」も同じである(ただ「現実の他者」か「架空の他者」かという「存在の仕方」において異なる)。「私」がその存在を知らない他者について考えようとすれば、その「他者」は「よく知らない他者」として「私」の意識に現れていることになる。レヴィナスのいうような主観に現れない<他者>とは、そもそも語義矛盾なのだ。なぜなら(繰り替えしていうが)、意識に現れないものについてその存在が確信されるということはあり得ないからである。
<外部=他者>を措定することによって、レヴィナスの考える倫理は「外側からの要請・命令」という形を取る。理由は簡単で、倫理の根拠を外側に求めるために、人はどうすれば自発的に善を意思するようになるかという条件が、充分に考えられていないからだ(これはカントの倫理学も同じ)。現象学的には、倫理の根拠は「自分はここで倫理的にあるべきだ」と確信が妥当する、その条件を自分の内側から取り出さなければならない。
人間が外部からの要請や命令によらず、自発的に倫理を打ち立てようとするのは、基本的には現実に存在することが妥当する「他者」を対象とする。なぜなら、倫理とは相手たる「他者」との間によい関係を築き維持する、そのために必要が感じられるものだからだ。
私達は、自分の意識にどのような現れ方をする「他者」を、現実に存在する「他者」だと確信するのか。そもそも私達にとって「現実」そのものが、「必ずしも自分の思い通りにならないもの」として現れる。したがって「他者」もまた、必ずしも自分の思い通りにならないような存在として現れてくる。ハイデガーのいうように人間の本質(の一つ)が「了解(自己了解)」だとしても、それゆえに人間が自己中心性を越えられないと考えるのは早計に過ぎる。人間が「他者」との関係において自己中心性を越え出ようとする、その条件は何か。一つは「他者」が「必ずしも自分の思い通りにならない存在」として現れることである。それに加えて、その「他者」との関係をよいものにしたり、よい関係を維持しようと希望する場合である。そして後者の条件を支えるのは、人間がエロスを求めるという事実による。
竹田青嗣のいう「エロス」は、一つには人間が世界を分節する底板の原理という意味がある。これは「欲望」といい替えてもよいだろう。そして竹田が「エロス」という概念を置いたことの最大の利点は、そこから「人間関係から得られるエロス」という概念を提出し、他者との関わり方について考えるための通路を開いたという点にあると考えられる。
「人間関係から得られるエロス」とは、「他者」から承認されることで得られるエロスであり、人間はそれがあって初めて安定(固定ではない)した自我が得られる。なぜかというと、人間は自我に限らず、自分が認めるものを「他者」からも認められることで、その確信を強化できるからだ(間主観性)。したがって、他者から承認されることで得られるエロスは、自我確信の安定化のエロスだと考えてもよいだろう。
人間が「他者」に出会うことで自我(自己了解のあり方)を編み変えるのは、その「他者」との間によい関係を持ちたいと欲望する限りにおいてである。この欲望が存在する限り、他者は「私」の意識に現われ出る「他者」だと考えても倫理問題において支障はない。逆に<他者=外部>を考えても、その<他者>との間によい関係を持とうと思わなければ、人間は自発的に倫理的であろうとする動機を持たない。
「他者」とよい関係を持ちたいと思っても、必ずしもそうならないことがある。それはまさに「他者」が「自分の思い通りにならない存在」として現れる場面である。人は自分の振る舞いと相手の反応との関係を様々に了解しつつ、その「他者」を相手にどのように振舞えばよいかを工夫し編み上げてゆく。そういった気遣いこそ私達が「倫理」と呼んでいるものではないだろうか。
倫理の根源に自我確信の安定化があるということは一見、自己中心性を越え出ていないようにも見える。逆にいうとレヴィナスの考えでは、倫理的であることと自己中心性とが相反する概念として前提されている。「自己肯定は悪であり、自己否定によって人々のために尽くすことが善である」という考え方で、これはニーチェが批判したキリスト教道徳の特徴でもある。
しかしここで倫理的に「悪」とされる自己中心性とは、「他者」に対して一方的な承認を求めるような心性なのではないか。それでは上手くゆかないということが了解されたとき、人は初めて相互承認の必要性に気がつくことができる。それは、相手もまた自分と同じように承認を求める存在なのだということの気付きでもある(この場合も「他者」のすべてがわかったということではない)。そして人間は「他者」とのよい関係から大きなエロスを得るために、自分勝手な欲望を我慢しようと意思する具体的な動機を得ることが出来るのだ。
このような倫理は決して、その対象を目の前に立つ具体的な「他者」だけに限定するものではない。かつて国民国家は国家単位での「われわれ」を作っており、それが先進国同士の戦争を可能にした。しかし先進国間での経済的なボーダーレス化(経済の相互依存)が進んだ現在では、いわば先進国の総体が「われわれ」になってしまい、そのために先進国同士の戦争が事実上不可能になっている。一方的な搾取から相互依存の関係への移行は、相手を必要と思うがゆえに相互承認の動機を生む。「他者」を「われわれ」に回収することが悪いのではない。逆に「他者」が「われわれ」の一部として認識されることが、倫理の根拠になるのであり、それは同時に「われわれ」が妥当する範囲を編み変える必要の自覚でもある。「われわれ」という概念はなくならないし、その意味内容が編み変えられる可能性を常に伴った「妥当」としてのみ存在する。ゆえに、より広範に共有される倫理を考えようとするならば、「われわれ」の否定ではなく、むしろ「われわれ」をいかに広い範囲に取り得るかという、その現実的条件を考えなくてはならないのである。
(参考文献)
『はじめての現象学』竹田青嗣(海鳥社)
『哲学的思考 - フッサール現象学の核心』西研(筑摩書房)
『レヴィナス入門』熊野純彦(ちくま新書)
■プロフィール(じんな・りゅうこ)都内私立高校卒。性同一性障害の当事者の立場から、主にジェンダーについて現象学的に考察。剣術(古流)の経験から、思想においても「出来ねば無意味」を旨とする。
『La Vue』No.8(2001/12/01号)掲載『竹田エロス論と<他者=外部>』に加筆訂正
