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■■2002年03月06日■■続・「オカマ」は差別語か!?
この「りゅこ倫」は4年余り前、97年のスタート当初から、反差別運動における「対抗主義」に異議を唱え続けてきた。それがようやくセクシャルマイノリティという土俵で(といってもホモセクシャルの世界の話だが)、一つの大きな実を結ぼうとしている。それが以下に紹介する『「オカマ」は差別か』(ポット出版)という本である。私がこの本を買ったのは、かつて私自身がこの「りゅこ倫」の、
などで、この問題を扱ったことがある上に、伏見憲明氏と野口勝三氏の名前に引かれたからだ。だが私の意見を述べる前に、まずはこの本で扱われている「問題」について簡単に説明しておく必要があるだろう。
この本のサブタイトルが『『週刊金曜日』の「差別表現」事件』となっている通り、ことの発端は昨年ライターの及川健二氏が『週刊金曜日』(367号/2001.6.15発行)に書いた、東郷健氏についてのルポルタージュ記事『伝説のオカマ 愛欲と反逆に燃えたぎる』である。この記事の「オカマ」という語について同性愛の当事者団体「すこたん企画」が抗議をし、その後『週刊金曜日』は同誌で「性と人権」という企画を組む(376号/2001.8.24発行)。そこでは当事者であるはずの及川健二氏や東郷健氏の意見は一切取り上げられず、特集の半分が「すこたん企画」の書いた記事、残りの半分は編集部内での議論や編集員の意見が占めていたらしい。ちなみに、及川氏の反論が掲載されたのは、下記のシンポジウムもとうに終了した 387号(2001.11.9発行)にわずか2ページで、発端となった記事から5ヶ月もの開きがある。
この「すこたん企画」の主張や『週刊金曜日』の対応に、当の同性愛者から疑問の声が挙がり、同年9月には新宿の《ロフトプラスワン》において、伏見憲明氏の呼びかけで『シンポジウム・「伝説のオカマ」は差別か』が開催されるに至る。本書『「オカマ」は差別か』は、この「事件」を追うことで、反差別運動を根本から捉え直そうとしている。
この本では何といっても、ページ数の半分近くを占めるシンポジウムの記録が圧巻だ。きわめて個人的な感想だが、一読してまず最初に思ったのは「あ、カツゾーちゃん、やるなぁ!」ということだった。「カツゾーちゃん」とは前述の野口勝三氏のことである。彼はシンポジウム最初の自己紹介で「セクシャリティ/ジェンダーの領域を哲学的に考えたらどういうふうに捉えられるのか、という問題を現在仕事の一つとしてやっています」と述べている。彼とはこれまでに何度か顔を合わせ、具体的に性がどうのという以前の「思想・哲学」の原理レベルから同じ見解を共有している(『Queer JAPAN』Vol.3、竹田青嗣氏インタビュー記事『美醜とは人間にとってなにか』参照)。彼が本書で述べている意見が、私が以前から発表している意見と大部分で重なるのは、そのためだ。
とはいえ彼の名誉のために断わっておくが、彼は昨年まで私のホームページを知らなかった。彼と私の意見がいかに重なっていようとも、彼の意見はあくまでも彼自身の考察から生まれたものである。また、彼は私と違って優しい性格なので(笑)、本書を見てもらえば判るとおり、その言動には私のような攻撃性は皆無である。この「問題」に対しての『週刊金曜日』の対応についても、不満なところは不満と述べながら、評価すべきところはきちんとすくい出して評価している。これは彼一流の態度なのだ。また、同じような意見でも私はパソコンに向って時間をかけて書かなければならないが、彼はこのシンポジウムにおいても大勢の前で次々と、きわめて流暢に要点を述べて行く。これら人格と頭脳と弁舌の諸点において、私は彼に遠く及ばない(私は彼と初めて顔を合わせた一昨年末以来、彼のような人物が T's の分野にも現れないかと渇望しているのである。そうなれば、私の如き「剣客」など晴れてお役御免となろうものを…)。
きちんと差別の本質を押さえているために、そこから旧来の反差別運動に見られた「対抗主義」的な様々な主張やドグマ、たとえば、
などのおかしさを明らかにして行く過程には、実に安心感がある。また「対抗主義」が逆説的に抱えてしまう差別性についても、しっかり指摘されている。私がこれまで「対抗主義」に対して唱えてきた異議は、ほとんどこのシンポジウムの諸氏の発言の中に含まれているといってもよい。
ちなみにこのシンポジウムでは、部落差別などを例に引いて語られている箇所もある。これについては、やはり旧来の反差別運動に疑問を提出した本として、私は『ちびくろサンボよ すこやかによみがえれ』(灘本昌久・径書房)を推薦しておく。本書で触れられている『同和こわい考』(藤田敬一・阿吽社)についてもこの本で触れられており、理解しやすい。
一人は宮崎留美子氏。氏の意見は一見すると「言葉狩り」に反対しているように見えるところが曲者である。「オカマ」という語を禁止しても心の中の差別はなくなっていない。野口氏も認めているように、この部分だけを取り上げるなら、これは正しい。しかしその後がいけない。「だから」と彼女は以下のように言う。氏は高校教員なのだが、生徒に「一度言わせておいて、それで、『どうしてその言葉を使うのか、どうしてそういうふうに人を差別するのか』と話を進めてゆくのが、授業だと思うんです」(P64)。言わせてもいいけど「言わせっぱなしではだめ」、「どうしてその言葉を使うのか」というのは、なんのことはない、最初から禁止する代わりに、「一度言わせておいて」から「言葉狩り」をしているのである。
最初から差別語を禁止すると、「生徒は教員の気持ちを慮ってきれいなことを書いてくる」というのは彼女の言う通りだろう。だが、それは「一度言わせておいて」から禁止しても同じことなのだ。私の考えでは、「一度言わせておいて」という方法それ自体は間違いではない。それは生徒にとって、自分の内の差別する心の存在に気付き、向き合うきっかけと「なり得る」からだ。だが、その後にいかにしてその「差別する心」を解消して行くのか。現実的な問題は、むしろそちらの方にある。「差別する心」は禁止によっては解消しない。ただ内面に抑圧されるに過ぎない。大切なのは、差別することが「馬鹿馬鹿しくなる」ような気付きなのだが、彼女の平素の主張を見る限り、彼女自身がそのことに気付くまでには、まだまだ相当な道のりがあるだろう。野口氏は、上野千鶴子氏の編になる『岩波講座 現代社会学一五 差別と共生の社会学』(岩波書店)に収録されている論文の多くが、「弱者の意見を聞かないといけない」というトーンで貫かれていることを指摘しているのだが(P76)、平素、上野氏の受け売りをしている宮崎氏が「対抗主義」を突き抜けた立場にいるとは考えにくいからだ。
もう一人は、野宮亜紀氏。奇遇にも、かつて上記宮崎氏に上野氏のマルクス・フェミニズムの存在を教えた本人である。『Queer JAPAN』Vol.4 のアンケートで弱者の意見こそ聞くべしと答えていた人物でもあるのだが、今回の彼女の発言(P66)は私から見て疑問に思う点はあるものの、ただちに批判する気にはならず、むしろその疑問こそが対話の出発点となるような可能性を感じさせる。理由は簡単で、彼女が決して受け売りではない自分自身の感性を表明していること、そして、その自分の感性を安易に一般論化していないからである。
『続・真に「差別」を乗り越えるために』でも述べたことだが、「オカマ」という語が「自分に対して」どのような痛みをもたらすかということは、ありのままに述べられてよい。ただ、それを今回の「すこたん企画」の抗議のように無条件に一般論に転化してはならないという事であって、今回の彼女の発言にはそこに節度が見られるのだ。彼女の「自分にとっての」痛みを他人が(例えば私が)否定することは出来ない。ただ、「解消」することは出来る。少なくともその可能性を示唆し、そのための道筋を探ることは可能であろう。
野宮氏に限らず、性同一性障害の当事者で「オカマ」という語を嫌う人は多い。より正確に言うなら「オカマと呼ばれること」を嫌う当事者は、間違いなく多い。まさに彼女が「自分に投げかけられると腹が立つし、本当にその人を殺してやりたいと思うほど、すごく腹立たしい」と述べている通りである。それは当たり前だ。性同一性障害の当事者、特に MTF の場合、性自認が「女」であり、なおかつ自分の身体が「男」であることを知っている。つまり、性自認が「女」でありながら「女」としての不完全性を持ち合わせていることを知っている。これが「引け目(コンプレックス)」になっているからこそ、そこを指摘されるときわめて敏感に反応してしまう。また、そのような指摘を受けることを極度に恐れてしまうのである。それは「自分という存在」を否定されることだからだ。
そして、これを長年続けていると、そのような態度は内面化(身体可)され、なぜ自分が「オカマ」という語からこれほどの痛みを受け取るのかということが、内省しにくくなってしまう。彼女が「基本的には感情的な話になってしまうので、『なぜ、それがいけないのか』といわれても難しい」といっているのは、まさにこの典型例なのである。この点、彼女は決して特殊な感性の持ち主なのではなく、性同一性障害の当事者の大部分が持つ(もしくは、かつて持っていた)感性を代表して述べているといってよい。
このような態度それ自体は「対抗主義」ウンヌンの問題ではなく、当事者個人の感性の問題である。性同一性障害の当事者の全員が同じ経験を持っていると言いきってしまっても、それほど不正確な表現ではないだろう。そして、このようなコンプレックスを克服してきた当事者と、克服できずにいる当事者がいるというに過ぎない。
「克服してきた」といっても、いかなる文脈で「オカマと呼ばれ」ても平気だという当事者は、私も含めて一人もいないだろう。そうではなくて、「オカマ」という語がいかなる文脈の中で、いかなる意味で用いられているかを冷静に捉えられるようになる、ということなのだ。この、「冷静に捉える」ということをもう少し詳しくいえば、たとえ直観的にでも「差別とは何か」が判るということでもある。逆にいえば、意味や文脈に関係なく、差別語とされている「ある語を用いる」ことが差別だと考えるのは、差別の本質を踏み外しているのである。
私の考えでは、「オカマ」という語をいかなる意味、いかなる文脈でも用いてはならないという「言葉狩り」は、差別の本質を踏み外した発想から生じているがゆえに、けっして差別を「解消」しない。それはただ、差別を「隠蔽」するだけなのだ。
私個人は『「オカマ」は差別語か!?』でも述べたように、「オカマ」という語に一種の愛着さえ感じている(もちろん、東郷健氏とは全く異なる事情によってである)。しかしだからといって、もし仮に私が野宮氏を「オカマ」と呼んだら(失礼!)、これは非難されるべきなのだ。それはなぜか。既に述べた通り、この語が彼女に向けられたとき、彼女の存在を否定する語として受け取られていることを、私が「知っている」からである。知っていて、私が「オカマ」という語を彼女に向けたのであれば、私は「意図的に彼女の存在を否定したのだ」と判断されてもやむをえないだろう。その時、彼女やその場に居合せた人々は、私を非難することが「正当だ」と確信するに違いないのである。
だが、この語を彼女に向ける人のすべてが、そのような意図を持っているとは限らない。例えば、「オカマ」という語に何の否定的なニュアンスも持たず、単に「MTF」の同義語くらいに思っている人だっているかも知れない。そのような場合、「抗議」というのは間違いなく下策である。松沢呉一氏が述べているように「知らないことを糾弾しちゃいけない」(P83)。
私が「冷静に捉える」ことの必要をいうのは、一つは自分の癇に障る語が、「その場」でどのような意味で用いられているかを、的確に判断するためである。その語に対する自分の感情は感情として(それはまさに自分にとって「やってくる」ものだから「禁止」は出来ないが)、それを一度「留保」した上で冷静な状況判断が必要だということだ。もう一つは、相手がその語を悪意なく使っている場合に、それが「自分にとって」どのような意味の言葉かということを、「糾弾」ではなしに「説明」できなくてはならない、ということである。長年「対抗主義」に親しんでいる人たちには、この「糾弾」と「説明」の区別が難しいだろう。しかし、それが出来なければ差別を解消しようとする試みは、再び必然的に「対抗主義」に堕する他なく、それは結局は「差別の隠蔽」に荷担することになるのだ。
私は数年来、「告発糾弾型の運動(対抗主義)では先がない」ということを言い続けてきた。
今回の「事件」は、もはや同性愛者というセクシャル・マイノリティの当事者の間でも、「対抗主義」に疑問を持つ人が多数を占めてきていることを明確に指し示している。本書はポット出版において「反差別論の再構築へ」というシリーズの第一段として位置付けられている。このシリーズが私の年来の主張にとって、大きな追い風となってくれることを願っている。
