りゅこ倫

■■2002年03月10日■■

「自由」とは何か

 「自由」とは何か。簡単にいえば「拘束や束縛のないこと」だろう。言い替えれば、「何かをしようとしたときに、障害がないこと」ということになる。こういうと一見、「行動に対する束縛」が問題であるかのように思える。しかし、人間には「行動」に先立って「意思」というものがある。意思によらない行動を束縛されても不自由を感じることはない。もしあるとすれば、無意識的な動きを妨げられたような場合、「妨げられずに動きたい」という欲望(意思)が生じ、妨げが事後的に「不自由」と感じられる。したがって、この場合には事前に「不自由」が予測されることはない。その時点では、行動の前提に「意思」がないからである。したがって自由とは「意思に対する束縛や障害のないこと」と考えることができる。

 人は誰でも束縛を嫌う。つまり自由とは「誰もがそれを求める」ものなのだ。むろん、自分を厳しい条件に置きたいと思う人、思う時も存在する。しかしこのような場合ですら、自分を厳しい条件に置きたいという自らの「意思」に従った結果として、そう在りたいと思うのである。

 しかし、誰もが自由に振舞うとどういう事が起こるか。ある人物の行為が、他者の自由に対する妨げになる、ということが生じる。Aが自由に振舞うためにはBが自分の「意思」を行為に移すことを制限しなければならず、そうしなければBの行為がAの自由を妨げてしまう。そういう場面が生じる。つまり自由は「他者の自由と対立することがある」という性質を持っている。したがって、すべての人間がおのれのすべての意思を全うできるような、完全に自由な状態はあり得ない。

 誰かが、徹底して自分の自由を全うすべく押し通したとき、その行為は否定的なニュアンスを伴って、「勝手気まま・好き勝手・放埓」などと呼ばれる。これがなぜ否定的に見られるのか。そのような行為が他人に迷惑や危害を加えるからであり、これらの他人に対する害は、すべて他人の自由に対する侵害だからである。

 ある人間の自由が別の人間の自由と対立するということは、自由が自由を制限する、ということである。これは自由それ自体が持つ矛盾である。この矛盾に対して、私達はどのように向き合えばよいのか。

 この矛盾を解決しようとすれば、自由に対して何らかの形で制限が加えられることは不可避である。問題は、その制限の仕方にある。誰もが願うような種類の自由は、誰に対しても認めること(人権)。逆にいえば、それを侵害するような行為が制限されること。これが一つ。そして、この制限が誰にも等しく適用されること(平等)。この二つの条件がないと、誰かが不公平感を持つ。なぜなら前述の通り、自由は「誰もがそれを求める」ものだからである。

 では誰かが他人の自由を侵害してしまった場合にはどうするか。それは、なんらかの形での補償が求められる。人間は、ただものを考えているだけで他者に迷惑や危害を及ぼすことはない。他者の自由の侵害は「行為」によって為される。だから「行為」には責任が伴う。逆にいえば、責任能力に応じて自由が認められる、ということになる。だから、責任能力がない、もしくは乏しいと思われる子供や一部の精神疾患の患者には、その自由の一部ないし全部が制限される。

 以上のことから、自由とは何か、どのようなものかということは、次の4点にまとめることができる。

  1. 意思に対する束縛や障害のないこと。
  2. 誰もがそれを求める。
  3. 他者の自由と対立することがある。
  4. 責任が伴う。

L.Jin-na


[前章] / [りゅこ倫] / [インデックス] / [次章]