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■■2002年03月11日■■「正義」とは何か
「正義」とは何か。文字通り、この語に「正しい」という概念が含まれていることは、誰でもすぐに判るだろう。だが、それだけなら、「善」のような価値基準や、「道徳」のような規範と何が違うのか、という話になる。
「正義派」、「正義の味方」、「社会正義の実現」などの用法を見ると、「正義」には「実現のための手段」が伴う(または、伴うべきとされている)概念だということに気がつく。それは、ウルトラマンのスペシュウム光線だったり、水戸黄門の印籠の権威(と、その権威を支える当時の社会制度)、あるいは近代理念を訴える言論であったりする。これらの「正義の味方」から、スペシュウム光線や、「前(さき)の副将軍」の権威、言論の根拠たる近代理念などを奪うとどうなるか。例えばウルトラマンが、「宇宙人は地球を侵略しちゃいけないんだよ、ホントはね…」とボヤくだけで何も出来ない存在だったとしたら、とても「正義の味方」には見えないだろう。
では、それぞれの場合において実現されるべき「正義の中身」は何か。これは「善」と呼ばれるものであり、あるいは「正当性」といってもよい。既に、「悪の本質直観」で見て来たように、「善」や「悪」は一面では相対的だが、利害の一致する間柄では共有される価値観である。だから、具体的に何が「善」か、何が「正義の中身」なのかということには、普遍性はない。いくら、ブッシュ大統領が対テロ戦争を「正義」だといっても、それはアメリカの、あるいはせいぜい近代国家に共通の「正義」なのであって、それがテロ組織にとっても「正義」だということはあり得ない。それは、両者において「何が善であるか」ということにズレがあるからだ。
ただ、具体的な中身(何が善であるか)が違ってはいても、どちらの立場にもそれぞれの「善」があり、それを実現するというそれぞれの「正義」が存在する。「善」や「正義」という概念が存在することは普遍的である。そして「正義」の本質が「善」を実現しようとする点にあることも、また普遍的なのである。ただ、立場によって何が「善」か、何が「正義」かという中身が異なるに過ぎず、この「正義の中身」については「正義という概念そのもの」をいくら調べても、そこからは出てこない。なぜなら、これは「善」の本質として考えられるべき問題だからだ。
以上をまとめると、「正義」とは、
などを本質とする概念だといえるだろう。
