りゅこ倫

■■2002年04月20日■■

「本質」とは何か

 「本質」という言葉は誤解されやすい。それは、特に思想という分野において顕著である。これまでにも何度か簡単な説明を試みたことはあるのだが、改めて「本質」とは何か、ということを取り上げたことがなかった。このことが、私の考えに対するある種の誤解を呼ぶ一因になっている。それが今回、この言葉を初めて正面から取り上げてみようと考えた理由である。

 なぜ「本質」という言葉は誤解を呼ぶのか、それは使う人によって、あるいは使われる文脈によって、異なる意味が込められるからなのだ。


1.「本質」=「真理」の例

 例えば、カント。彼が「本質」という場合は、要するに形而上学的な意味での「真理」だと思って、まず間違いない。もう少しわかりやすく説明してみよう。カントにとって重要な問題の一つに、主観と客観は一致するか、というのがある。この場合、「主観」とは認識のことであり、「客観」とは認識の対象である。つまり、「人が認識対象をあるがままに正確に認識することは可能か」ということだ。カントのいう「本質」とは、この「あるがままの認識対象」ということであり、「物自体」ともいう。

 カントの考えでは、人間は「あるがまま」(=本質)を知ることが出来ない。それは当然である。なぜなら人間は自分の主観(=認識)から抜け出して「客観」それ自体を見ることは出来ないからだ。しかしカントの考えでは、この「主観・客観の一致の不可能性」は、あくまでも事物が「いかにあるか」を問う場合に限られる。では、そうではない問題とは何か。それは「いかにあるべきか」を問う場合である。前者を「存在(ザイン)」、後者を「当為(ゾルレン)」という。

 カントではこの当為の問題は、具体的には道徳の問題である。つまり、人間が「いかにあるべきか」という問題だ。人間は、事物の「本質」を認識することは出来ないが、思い描くことは出来る。したがって「何が善であるか」も、人間は理性によってしっかり考えれば判る。そうしたらそれに即して「善き行為」を行うように自分を律すればよい。カントの道徳論は、およそこのように展開される。

 実は、ここまで述べてきたカントの考えには、いくつかの間違いがある。人間が「ありのまま=本質=真理」を認識できないというのはその通りだし、これはむしろカントの業績に数え上げてよい。しかし彼の考えでは、神のみぞ知ることのできる「本質の世界」と、人間の認識の限界の内部で現れる「現象界」とが対置されたままになっている。要するに彼の考えでは、人間に知ることは出来ないが「本質の世界」は存在するんだ、という話にもなってしまうのである。

 なぜカントがこういう誤りを犯したかというと、それは彼が「客観」の存在を自明のこととして前提してしまっているからだ。だが、「客観」の「いかにあるか」だけではなく、そもそも「客観」が存在するかどうかも、人間には確かめることは出来ない。理由は既に述べた通り、誰も自分の主観(認識)の外側に出ることは出来ないからだ。

 とはいえ、実はカントだけではなく誰でも(私も)素朴に「客観」の存在を信じている。それはなぜか。人は自分の認識の内で、ある条件に合致するものを「現実」として認識するからだ。この条件については、『現実』とは何かでのべているから、ここでは繰り返さない。ただ、ここで確認しておくべきことは、「客観」とは「主観」と対等な、もしくは「主観」よりも優位に立つような対立概念なのではない、ということだ。「客観」はあくまでも、「主観(=認識)」に基づいて形成される存在確信から生み出された概念なのである。

 またカントが、人間は「当為」についてはその「本質」を知ることが出来る、と考えたのも間違っている。この間違いは、既に古代ギリシャにおいてプラトンが(正確には、プラトンの著作に登場するソクラテスが)指摘していることだ。

 善あるいは「よい」とは何か。この問いに対してカントが道徳を論じることで答えたならば、ソクラテスはこういうだろう。「カントよ、君が熱弁しているのは「よい行ない」についての話だ。しかし私は『よい』ということそれ自体とは何か、と尋ねているのだよ」と。これに対する的確な答えは、カントの思想の中にはない。「よい」の本質を問う場合に、この「本質」ということを「真理」の意味で考える限り、答えがでるはずがないのだ。


2.「本質」とは「意味本質」である

 では私達は、「本質」という言葉についてどのように考えればよいのだろうか。実は「本質」とは「意味」である。といっても、これだけで直ちに「本質」とは何かを理解出来る人は、ほとんどいないだろう。以下、このことをできるだけ噛み砕いて説明してみよう。

 哲学で使う「本質」という言葉は、ドイツ語の「ヴェーゼン (Wesen)」の訳である。これは英語では「エッセンス (essence)」に相当する。これは辞書的には「あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質」(広辞苑)を意味する。

 私はかつて『無意識』とは何かの中で、結論として、

  1. 認識の事後性(リアルタイムな認識の不可能性)
  2. 意識や行動の根拠(前意識的な意味分節)
  3. 適応性(上記2と併せて、意識や知覚、行動との相互影響関係)

の3つを挙げている。これはいわば、私が考察した「『無意識』の本質」なのである。これは一見すると、フロイトやユングの本には出てこないような説明に見える。しかし、この3点を含まないような「無意識」というものを考えられるだろうか。たとえば「リアルタイムな認識が可能」な「無意識」。そういうものがあるとすれば、それは「無意識」ではなく「意識」になってしまう。私が挙げた「『無意識』の本質」は、フロイトやユングの学説はもちろん、学問とは直接には関係のない一般的な会話で用いる用語としての「無意識」にも共通している。

 なぜ、こういうことが考察可能なのか。それは私達が平素、日常会話の中でも「無意識」という語を使っているからである。それはつまり、私達が「無意識」という言葉を何らかの意味において使っているということであり、したがって私達は少なくともその意味について「知っている」はずである。ならば、私達は日常語としての「無意識」という言葉を、どのような意味で用いているのか。それを、自分自身の内側に向かって問いかけることは、原理的には「誰でも」可能なのだ。少なくとも、私が挙げたような「『無意識』の本質」について、「自分は「無意識」という言葉にこのような意味を込めて使っているだろうか」と、皆さんは各自が、自分自身の内面に向って確かめ直すことが出来る

 したがって、このような「本質=意味本質」は、例えば深遠な哲学を学んだものだけが特権的に知ることの出来るような「真理」を意味しない(そもそも私は、そのような特権の根拠としての哲学を認めない)。だから、精神医学や心理学を学んでいない人でも(例えば私でも)「無意識」の本質直観が出来る。なぜなら、精神医学や心理学を学んでいない人同士の会話でも「つい無意識に××してしまった」というような言い回しが使われ、またそのような言いまわしによって言わんとすることが伝わるからだ。そうである以上、両者は何らかの共通の意味を「無意識」という語について「知っている」はずなのである。

 それから、「本質=意味本質」は、いわゆる「語の定義」とも違う。「無意識」という言葉もまた、それを使う人によって、また使われる文脈や場面によって、多かれ少なかれ意味のズレのようなものはあるだろう。この「ズレ」が存在するがゆえに、日常会話で使用される語はむしろ「定義不能」になってしまう。これが幾何学の用語ならば定義は可能だ。なぜなら幾何学の体系内では、用語を厳密に「定義」の意味で用いることがルールとして定められているからだ。しかし、日常会話においては、そのようなルールは存在しないに等しい。したがって語の厳密な定義は不可能なのだが、語の意味には、語が使用されるその都度の若干の「ズレ」が存在する反面、共通点も存在する。「本質=意味本質」はそのような「意味の共通点」を取り出したものだ。

ポスト・モダニストの中には、このような「語の意味の核となるような共通点」の存在すらも否定する人もいるかもしれない。だが、それならば「言葉が通じる」と言うことそれ自体が説明できなくなってしまう。また、このような相対主義者が反論するという行為もまた、「自分の意見を言語によって伝えることが出来る」という素朴な信憑の上に成立しているのではないか。そうでなければ、ある意見を読んで解釈し、それに反論するという行為が成立しないだろう。


3.「意味」の意味

 さて、「本質」が「意味」であることはわかったが、ではこの「意味」とは何か。つまり、「意味」の意味は何か。「本質=意味本質」における「意味」とは、私達の「経験上の意味」である。別の言い方をすれば、学問的な定義や言語の辞書的な「意味」ではなく、自分の生にとって持つ「意味」のことである。そして、それが自分だけでなく、他の様々な人達にとっても妥当するかどうかを検討したところに、「意味の共通点」としての「本質=意味本質」が出てくる。だからこの作業は、語についての共通了解を取り出す作業となる。

私はしばしばこのりゅこ倫でさまざまな本質直観(本質観取)を行なっているが、すべて自分一人で考えたものを掲載している。しかし、もし自分でも本質直観をやってみようと思う人がいたら、出来ることなら何人かで意見交換をしながら行うことを勧める。その方が面白いし、自分が考えてもみなかった意見が飛び出して、「なるほど、そういえばそうだなぁ」と思うこともあるからだ。本質直観が「語についての共通了解を取り出す作業」である以上、(特に慣れない内は)その方がより普遍性のある結論に至ることが出来るだろう。

 「本質」を「真理」として捉えるような古い考え方では、それはいわば「事物それ自体」や、その最も重要な根源、不変の要素、本体などを指す。しかし、私が用いている現象学の考え方では、「本質」とはある事物(モノやコト)が日常生活における人間にとっての経験的な意味の核心を指す

 既に述べたように、それは「定義」ではないし「真理」でもない。一人ひとりの人間にとって「妥当」するかどうかが問題なのだから、この「本質=意味本質」はあらかじめ永遠不変のものとして考えられているわけではない(同じ語でも時代によって意味が変わってしまったり、逆に、同じ意味を指す語が時代によって異なったりすることも決して珍しくない)。ただ、本質直観では基本的に、出来るだけ多くの人に妥当するような「意味本質」を求める。その方が、より多くの人たちに対して説得力を持つ結論が得られるからだ。

 したがってこのような考察においては、学説や物語などを留保して考える。例えば「死」について考える場合、「天国」や「極楽」を持ち出したら、宗教の異なる人には通用しないような結論しか出てこない。つまり、通用する範囲がきわめて狭い結論しかえられないことになる。そうすると、例えば宗教戦争や政治的なイデオロギーの対立など、信念対立に起因する争いを解決できなくなってしまう。単に、自分たちの正当性をいい立てるだけの信念補強になってしまうのだ。

 ポストモダン思想をかじった人の中には、「普遍性」という言葉にアレルギーを持つ人がいる。この「普遍性」が「真理」の意味で使われる場合にはそれなりの根拠があるといえるだろう。だが「本質=意味本質」においては、この「普遍性」はあくまでも程度問題として考えなければならない。つまりこの場合の「普遍性」とは、どの程度の範囲の人々に「妥当」するか、という以上の意味を持たない。そして、信念対立の解決を考えようとするならば、やはりできるだけ(しかしさしあたっては、争いの両当事者という範囲の中で)普遍性を持つ共通了解となるような考え方を探って行く必要がある。もちろん、繰り返し述べているように、それは不変の「真理」ではない。だから、事情が変わったり、よりよいアイデアが提出された場合には、いつでも必要に応じて編み変えればよいのである。


4.性差の「本質」について

 性について(特に性別役割について)、本質主義と構築主義という対立概念がある。前者は、ジェンダーの根拠を身体に求め、後者は逆にジェンダーは歴史的・社会的に作られた恣意的なもので無根拠だと主張する。だが、私から見ればこれらはいずれも間違っている。たとえばジェンダーの中身は時代により、文化によって多様であり、これを一律に身体レベルの性差に還元しようとするならば、この多様性を説明することができない。一方、構築主義のようにジェンダーを身体レベルの性差と無関係とするならば、性別二元制のもつ普遍性が説明できなくなる。また、本質主義では身体の性別と異なる性自認を持つ性同一性障害の存在が説明できない。構築主義主義の論理からすれば、性同一性障害の苦痛もまた、単なる幻想で無根拠なものだという話になってしまう。

 ここでいう本質主義の「本質」とは、いうまでもなく「真理」の意味である。要するに、本質主義においてはジェンダーを「真理」として固定し、例外を認めないということがモチーフになっている。だがこれは要するに「性の形而上学」であって、現代では通用しないことはいうまでもない。

 一方、構築主義ではこのような「性の形而上学」たる本質主義を論破することは可能だが、同時にそれがこの思想の限界でもある。そもそもジェンダーとは、性別の社会的・文化的側面をいうのだから、これが客観存在としての自然物でありえないことは当然である。しかし、それだけではジェンダーが「無根拠」だということにはならない。

 私の考えでは、ジェンダーは「身体それ自体」が根拠なのではなく、「身体に対する認識」に根拠がある。身体を認識するのも、社会的・文化的な性別を作るのも、いわば精神(ヌース)の働きであって、何か男女それぞれの「本能」のようにしてあらかじめ人間に内在していたわけではない。別の表現でいえば、ジェンダーとは「自然」としての身体の性を、「社会」においてどのように扱うかという「文化」であり、その扱い方の基礎となる考え方に根ざしている。だから人間には性差についての認識があり、性差を否定しようとするフェミニスト達でさえ、結局は「私達、女性は…」という主張に固執してしまうことになる。

 私がここまで述べてきた「本質」についての考え方からいえば、ジェンダーレベルの性差には「本質=真理」は存在しないが、「本質=意味本質」は明らかに存在する。これに関連して、小浜逸郎上野千鶴子という二人の論者の、それぞれ主張の一部を紹介しよう。

 さて、男と女の非対称性は「本質的」か否かという議論なのだが、ここでとわれているのは、このことば自体の客観的な当否ではなく、このことばを吐いたり意識的に避けたりする思想主体の姿勢ということであろう。
 ちなみに私とある出会いの場でくだんの私の表現にこだわって、不幸にも私との対立を際立たせる一場面を現出させることになったフェミニスト・上野千鶴子も、『現代思想』の同じ号(一九八九年九月)のインタビューの中で「ヘテロセクシュアリティのなかには、根源的な非対象性があり、完全な対象性を求めようとすると今のところジェンダーレスの世界でしか実現できない」というような表現を使っている。本質的と根源的とはどこが違うのだ、などとつまらぬ言いがかりをつけるつもりはないが、これなら認識として別に選ぶところがない。
 要するに、あとは、「今のところ……実現できない」といった留保をつけるかつけないかに、言説のもつ実践的なバイアスの差(つまり、現状の男と女の関係を変えたいと思っているのか、変えたくないと思っているのかという欲求の区別)が現れてくることになるのだろうが、私とてこういう留保をつけたとしても別にかまわないと思っている。

(『男はどこにいるのか』小浜逸郎・ちくま文庫、P102〜103。単行本は草思社・1990年)

 ただしこの「非対称性」は歴史的社会的に形成されたもので、小浜逸郎氏がさまざまな著作で言うように男女関係に「本質的」なものではない。私が男女のセクシュアリティの間に「非対称性」を認めているからと言って、上野は自分と同じ意見だとカン違いされるのは迷惑である。セクシュアリティにどのような「自然」も「本質」もない。私はその「本質」(とされるもの)がどのように形成されるか、を問うているのである。

(『スカートの下の劇場』上野千鶴子・河出文庫、P215、「文庫版へのあとがき」末尾<3>。1992年)

 ここで上野は、明らかに小浜のいう「本質」を「本質=真理」の意味で捉えている。だが下に示すように、これが上野の誤解もしくは曲解であることは明らかだ。小浜は上の引用部分のすぐ後で、

 ところで私自身はけっして「男女の非対称性が本質的である」ということばを変えようとは思っていない。いまさら自前のスコラ学を開陳しても仕方がないが、もともと本質とは、ある現象のなかに常に顕現する共通の論理的骨格のことをいうのだからである。

(同書、P104)

とか、

 第二に私は、「見る−見られる」という非対称構造が男女の関係の本質であるとはいったが、どこであれ、男の性欲が「本能」であるとか、「自然」であるといった居直った表現、把握、認識を示したことは一度もない。両者は区別して考えられなくてはならない。反対に私は、四年以上前に共著として出した『家族の現在』(大和書房、一九八六年)という本のなかで、すでに、男性の性欲というのはエロス的表出が時間をはらむことができないためにぶつかってしまう一種の障害の意識であって、それは少しも<自然なもの>とはいえないという意味のことを述べている(一八二頁)。また二年ほど前に出した『可能性としての家族』(前出)のなかでは、男の性欲は、明らかに人間的条件に特有な仕方で、一つの疎外された器官的抽象として<構成>されたものであるとはっきり述べている(二六二頁)。

(同書、P105)

と書いている。小浜が「本質」という語を「真理」の意味で用いているのではなく「共通の論理的骨格」、つまり「意味の共通点」としての「意味本質」として使っていることが理解出来るだろう。付け加えておくと、(上の引用部分からはわかりにくいが)小浜はその考察に現象学の方法を使っている。したがって「真理」概念を持ち出したり、「自然」や「本能」を超越項として用いたりという方法をとるはずがないし、また実際に、そのような考察をしている箇所はどこにもない。本人がわざわざ断っているものを無視してまで、なぜ上野は上のような「いいがかり」をつけているのだろうか。

 上野が人並みはずれて読解力に乏しい人間でないとすれば、残る理由は一つだ。相手が何をいおうとそんなことにはお構いなしに、小浜に「本質主義」のレッテルを貼りつけようとしたのではないか。小浜の主張する性差(男女の非対称性)を、あくまでも「本質=真理」の意味で理解するならば、構築主義によって反駁出来る。しかし性差を「本質=意味本質」として捉えられてしまうと、構築主義は無力なのだ

 なぜなら、「本質=意味本質」の妥当性は、誰でもそれを自分の内面に向って確かめることが出来るからだ。だから、「本質=意味本質」はそれが順当に考えられたものであればあるほど、説得力を持つ。それに逆らおうとするならば必然的に、人々の実感に逆らうようなことを強弁しなければならなくなるのである。

 これに対抗する方法として上野にいえることは、せいぜい「実感を疑え」ということくらいだろう。もちろん、あらゆる「実感」が正しいという保証はない。だが、人々が自分の実感を疑うのは、その実感に従っていると不都合がある、と感じられる場合に限られる。そういう場合にのみ、人は自分の実感を疑う動機を持つのだ。この問題に関して、小浜の表現を拝借するならば、そこには「現状の男と女の関係を変えたいと思っているのか、変えたくないと思っているのかという欲求の区別」が現れてくることになる。簡単にいえば、上野に「実感を疑え」といわれてそれに従うのは、最初から上野に賛同している人たちだけだ、ということになろう。

L.Jin-na


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