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■■2002年08月21日■■「自由」と「秩序」
前回の「89.保守からの近代思想批判への反論」に対して、さっそく質問のメールを頂いた。メールでお答えしようと思ったのだが、もしかしたら同じような疑問を持つ人が他にもいるかも知れない。そのため、前回の補足として新たに一篇を書き起こすことにした。
まず、前回で触れたミルの「限定つき『他者加害』原理」という、この「限定付き」とは何のことか。「他者加害」原理とは、「誰にも迷惑をかけない行為については、どんなことでも自由にさせるべきだ」ということだった。これにどのような「限定」が付くのか。
これは一言でいえば、ここでいう「自由」が「自律された個人」を前提としているということである。いいかえれば、充分に理性的な考え方が出来るかどうか、それに必要な知識を備えているかどうかということ。そして近代社会では、この「自律」ということをとりあえず「成人」に置き換えている。したがって、未成年者にはその成熟度に応じた制限がかかる。それから重度の精神疾患などで、判断力に問題があると考えられる場合にも(年齢的には「成人」であっても)、やはり権利は制限される。
だから例えば援助交際を論じるような場合、子供の「自己決定権」を大人並に認めようというのは、「限定が取り外され」に当たる。本当は、法律上でもこの考え方が採用されていて、いろんなことが様々な年齢に応じて許可される。また「責任」も年齢が上がるに連れて重くなる。では、未成年者の責任が軽い分は誰が負うのかというと、これは親(親権者)が負う。性転換を何歳以上に認めるのかという問題も同じで、国によって18歳とか20歳とかの違いはあるが、ほとんどの国ではそれぞれ自国で「成人」として認められる年齢を指定しているようだ。つまりそれ以前(未成年)には、十全な自己決定権は認められないという事になる。
最近は、この「自己決定権」という言葉がよく使われるが、これは何も特別なことではない。自分のことは自分で決めるということだから、単に「自由」と言い替えても構わない。かつて「自由」の本質直観で見たように、「意思に対する束縛や障害のないこと」は「自由」の本質だからである。だから「自己決定権」にも「自由」と同様の限定(制限)が付くのは、当然の帰結であって、どんな権利や人権もそうであるように、無制限な「自己決定権」などあるはずがない。
私は前回、個人の「自由」や「権利」が保障されるためには、社会の秩序が保たれていることが必要だと書いた。しかし、「秩序」という言葉に反発を感じてしまう人もいるらしい。「伝統だから、従え!」なんて高圧的に言われるとムキになって反発してしまう、という意見も頂いた。そこでもう一度、「秩序」について考えてみることにしよう。
「秩序」や「道徳」などを、自分自身が納得していないにも関わらず、自分の外側から押しつけられたら、これは誰でも反発するに決まっている。たぶん、「秩序」や「道徳」という言葉にそういうニュアンスを感じてしまう人たちがいるのは、多かれ少なかれ、このような「押しつけ」を受けた経験を持つ人なのだと思う。だからそのような感じ方にも、それなりの根拠があるのだ。
しかし一方で、アナーキストでもない限り、無秩序では困るとか、社会が無法状態になって混乱しているのは好ましくないということは、誰でも少し考えればわかることで、これに反対する人はほとんどいないと思う。私達は既に存在する社会の中に生れ落ちているから、ゼロから考えて社会の秩序がいかに在るべきかを考え、築き上げて行くことは出来ない。その代わり事後的に、「現在のこのようなルールはどうして作られているのか」という「ルールの意味」を洞察することなら可能である。無条件に既存のルールに従うのでも、既存のルールをすべて「既存のルールだから」という理由で否定するのでもなく、個々のルールについて自分の目で検討することができるのだ。
でも、今回は個々のルールについてではなく、おおまかに「秩序」ということを考えてみよう。「周囲の人達といい関係でいたい」というのも、一つの秩序の維持である。逆にいうと、そういう秩序があってこそ、周囲の人達と認め合ったり気遣いあったりという交歓が可能になるのだ。
もちろん、「周囲の人達」とだけよい関係が維持されていればいいというわけではない。私達は、「縁もゆかりもない人なら、突然殴りかかってこられたり、殴り倒したりしてもいい」などとは思ったりしない。いつ誰に襲われるか判らない状態を「自由」とは呼べないと思う。自分の生命身体だけでなく、財産も同じである。いつ持ち物を奪われるか判らない、あるいは「所有権」という概念自体がなくていつ誰が自分のものを持ち去るか判らないような世界を「自由」とは呼べない。
これは「『どう解く』の系譜・2」のロック(社会契約説の方の)のところで書いたことなのだが、生命・身体・財産の保護というのは、自由の条件の根底をなすものである。生命を脅かされたり身体を拘束されたりする状態を「自由」とは呼べない。そして「私的所有」という事がなければ、やはり「自由」は保証されない。例えば小作農民や昔のヨーロッパの農奴を考えてみよう。あるいは社会主義のようにすべてが「国家のもの」という場合はどうだろうか。特定の個人や集団に生活手段を握られていたら、その人(達)の言いなりにならざるを得ない。だから、自己の保全のために必要なものを、他人を排除して占有し、それを自由に処分できることは、いわば「自由」の物質的な基礎なのである。
「秩序」という言葉に反発を感じる人は、「自由」を「秩序」を相反する概念だと思っていて、両者を比べると「自由」の方が大切ではないかと思ったりする。確かに、「秩序」は「自由」に何らかの制限を加えることなしには成立しないから、この二つの概念をはかりにかけて、二者の内のいずれを取るかと考えてしまいやすい。しかし、これは私がいう「秩序」とは、意味が違っている。中世ヨーロッパや共産圏で、農奴制や社会主義・共産主義を維持することも、ある意味では「秩序」である。この場合は「秩序」と「自由」とは相反する条件だから、両者をはかりにかけて「自由」が重いと感じることに妥当性があるのだ。
しかし上述のように、「秩序」を「個人の生命・身体・財産の保護」という意味に考えた場合にはどうだろうか。「自由」の方が大切だから、そのためには身体を拘束されてもいい、というのは矛盾である。つまりこの場合には「秩序」と「自由」は相反する項目なのではなくて、前者が後者の前提になっている。前提たる「秩序」がなければ、「自由」は単なる理念に過ぎず、実現の条件を欠くことになる。「自由」は誰もが求めるものであるから、その実現条件となるような「秩序」もまた誰もが求めるはずである。これは逆にいえば、「秩序」は「自由」の実現の前提となる形で築かれていなくてはならない、ということでもある。
ついでにいえば、「限定が取り外され」た自由は、「自由」の理念の暴走である。「秩序」を破壊するような「自由」は、「自由」それ自体を破壊する。それは「秩序」が「自由」の前提条件だからで、「秩序」の破壊は結局は他人の「自由」をも犯すことになる。これが問題なのである。
しかし「伝統だから、従え!」という言い方は、現代では説得力を持たない。「伝統だから」という言い方は、近現代の個人に対して、その内的な動機を触発しない。なぜかといえば、「伝統」ということ自体に「価値」や「権威」を感じないからである。たとえば、昔の中世ヨーロッパのキリスト教社会であれば、宗教(カトリック)が「権威」だった。神の教えは絶対であり、それゆえに「聖書に書いてあるから」とか「教会の坊さんがそう言うから」ということに、説得力があった。しかし現代では、そのような「伝統」や「権威」は、昔にように普遍的な説得力を発揮できずにいる。
誤解のないように書いておくが、私は、あらゆる「伝統」を否定せよと言っているのではない。現在でもしばしば左右の思想家や評論家達が共に誤解しているように、近代は「伝統」の破壊にその本質が在るのではない。ただ、「伝統」であるということそれ自体だけでは、人々を納得させる根拠にならなくなった、ということなのだ。簡潔にいえば、近代以降とそれ以前とでは、規範を受け入れるための「確信の根拠」が変わったのである。
大切なのは、様々な「伝統」について、「それは今日的な意味や価値を持っているか」という事を個別に検討することなのだ。社会の変化とともに、価値を喪失してしまった「伝統」もあれば、現在でもなお意味(や意味の根拠)を確認できる「伝統」もあるだろう。また別の場合には、同じ「伝統」に対して昔とは違った現代独特の価値を見出すことができるかもしれない。「なるほどこの『伝統』にはこのような意味があったのか」と納得できた場合に、私達は初めて自発的にその「伝統」を受け入れることが出来るのである。
「伝統」の意味や価値を確認するという事は、近代社会の一つの特徴である。その理由は、近代は「自由」を前提としているから、自分達で規則を作り、自分達でその規則に従うということが前提なのである。あるいは、自分達が過去に作った規則や「伝統」も含めて以前から存在する規則について、不都合があればこれを作り替えることが出来る。このようなルールの編み変えの可能性が常に開かれていることは、近代社会に不可欠な要件だ。逆にいえば、近代以前から存在している「伝統」であっても、人々が不都合を感じないのであれば、そのままでいい。改変の動機を感じないものは、改変しなくてもよい。これも一つの「自由」なのである。
