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■■2002年09月22日■■概念の分化について
インターネット上で、『個々人のセクシュアリティは時代に規定される』という記事を見つけた。オンラインマガジン "Sexual Science" の「02年5月号」の記事で、内容は今年の3月に岡山で開催された第4回 GID 研究会での、中央大学・矢島正見教授の講演『戦後日本のトランスジェンダー,その自分史・社会史』について書かれたものである(なお、"Sexual Science" の URL は http://www.medical-tribune.co.jp/ss/index.html)。講演全体の説明としてこの記事では、
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それらの研究によると,性意識・性行動などのセクシュアリティは複数の要素から構成されており,どの要素が第一義になるかは,その時代にどんな言葉があるかに大きく左右される。つまり,時代によってセクシュアリティの自己認識が変わるものであり,「TGの悩みは,その時代に悩まされている,ともいえる」。 少数派のセクシュアリティはしばしば「変態」などとされてきたが,それは多数派による勝手なレッテル貼りということでもあるだろう。 |
とある。だが、それは本当なのだろうか。念のために書いておくが、今回は矢島教授の見解を批判する意図はない。その理由は、まず第一に矢島教授の<トランスジェンダー>の研究はまだその途上にあり、最終的な結論が示されているわけではない、ということだ。第2の理由として、上述の通り、私が見たのはあくまでも "Sexual Science" がまとめた記事であって、矢島教授の講演に接したわけではないからである。私が今回検討したいのは、「誰の」という事とは関係なく、「時代による規定」あるいは「言葉による規定」という考え方そのものについてである。
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用語の移り変わりを私なりにまとめ直せば、当初は男性同性愛者も<トランスジェンダー>(この場合には広義の MTF TG を指すものと思われる)も区別がなく、ひとまとめに「オカマ」あるいは「変態」と呼ばれていたということだろう。それがホモ(ゲイ)と<トランスジェンダー>に分化し、<トランスジェンダー>はさらに「ゲイボーイ(ニューハーフ)」や「女装者」等に細分化してきたわけだ。その上で "Sexual Science" の記事では、この講演の要旨の一部を、
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矢島さんはTGの戦後社会史を以上のように概観し,自分の性自認に疑問をもつ意識はは同じでも,50年前はおかま,30年前はゲイあるいはゲイボーイ,現在ではTGと,与えられた言葉の違いによって自己認識が異なってくるとして,次の点を強調した。 第1に,セクシュアリティに考えるには時代性を考慮しなければならない。その時代の概念・カテゴリーにより人々は自己認識をする。その結果,セクシュアリティとは関係ない自己意識・自己評価も変わる。TGに悩んでいるというのは,時代に悩まされていたということでもある。 |
とまとめている。
この講演記事の私なりの感想をいえば、まず、これはまだ「歴史」の記述になっていない。今の段階では、これはどちらかといえば「考古学」である。その理由は、<トランスジェンダー>カテゴリーの細分化の理由に全く触れられていないということにある。考古学ならば、時代の変化を説明する必要はない。「これこれの時代はこのようであった」という説明ができればよく、そこで論じられる各時代は相互に断絶している。私の想像では、このことにはそれなりの事情がある。"Sexual Science" の別の記事に書かれていたと思うのだが、矢島研究室では現在は、客観的な事実だけを集める作業が継続中らしい。史料はあっても、その「解釈」は行なわれていないということだろう。「事実」だけを並べたら、「考古学的記述」もしくは「年表」にならざるを得ない。ならば、今のところは「歴史的記述」に至っていないのは、むしろ当然である。「歴史的記述」は今後の作業ということなのだろうと理解している。
問題は、この「トランスジェンダーの考古学」から示された、
といった見解である。私の考えではこのような見解は、各時代を断絶したものと見る考古学的発想、時代のダイナミズムを含まない共時論的な視点からしか出てこないもので、必ずしも事実を言い当てていない。とはいえ、まったく間違っているわけでもない。確かにどの時代にも「その時代の概念・カテゴリーにより自己認識をする」人々は存在するからだ。だが、それだけでは、<トランスジェンダー>カテゴリーの細分化を説明することが不可能になってしまうのである。
「その時代の概念・カテゴリーにより人々は自己認識をする」という考え方は、ソシュールの言語学とよく似ている。ソシュール言語学については、「ジェンダー素描」の中の「ジェンダーと言語」でも触れたが、ここで関係する部分を引用しておこう。
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「時代」と「地方」の違いはあるが、矢島教授もソシュールも、もともとある「全体」があって、それが各名称の総体であるという考え方は同じである。カテゴリーの分化が進んでもそれらの総体としての「全体」は変わらない。そしてその「全体」を静的な構造として捉えているために、細分化という「運動」の要因が語られることはない。細分化という「運動」は、実は「運動」としてではなく「静的な構造」としての各時代の間の差分として認識されている。
私の考えでは、「トランスジェンダーの考古学」から「トランスジェンダーの歴史」には、この「運動」の動因についての考察が必要である。ただし矢島教授が「歴史」という言葉をどのようなものとして考えているのか私は知らない。だから、今後そのような考察が行なわれるという保証はない。そこで、これを私なりに考えてみようと思う。もちろん以下で私が行なうのは単なる考察であって、実証的研究などではあり得ない(したがってこれが学者の領分を侵すものとは思わないし、私にはそのようなことをする能力も暇もない)。
カテゴリーの細分化の「運動」の動因は何か。これは、概念・カテゴリーを表す言葉の「意味妥当」の問題である。ある時代の<トランスジェンダー>のすべての当事者が、その時代の「言語化された概念・カテゴリー」のどれかに自分を当てはめて納得するならば、新しい「言語化された概念・カテゴリー」は必要とされない。つまり、細分化の「運動」は止まる。逆にいえば、「その時代の概念・カテゴリーにより自己認識をする」ことの出来ない人々がいるからこそ、細分化の「運動」が起こるのである。つまり細分化の「運動」が起こるということは、<トランスジェンダー>の「全体」と、「言語化された概念・カテゴリー」の総体との間に差分があるということだ。
ある時代に、<トランスジェンダー>が「A」「B」「C」の3つの「概念・カテゴリー」に分化していたとする。<トランスジェンダー>の当事者の中で、自分が「A」「B」「C」のいずれにも当てはまらないと考える人がいれば、その人は自分を言い表す言葉を求めて「D」という「概念・カテゴリー」を提唱するかも知れない。もちろん、そういう人が1人だけなら「D」は単なる個人的な名乗りに過ぎない。しかし自分という存在を言い表すのに「D」という言葉が最も適していると考える人が一定数いれば、「D」は新たな「概念・カテゴリー」として認識されることになるだろう。
また、同じくある時代に<トランスジェンダー>が「X」「Y」「Z」の3つの「概念・カテゴリー」に分化していたとする。その内の「Z」の中に性質を異にする2つのグループがあれば、「Z」は「Z1」と「Z2」に分裂するかもしれない。そして、このようなカテゴリーの新設や分裂は、当人たちが、何らかの区別の必要性が感じられた場合に起こる。また別の場合には、他者から見て区別の必要を感じた場合に、同様の「運動」が起こる場合もあるだろう。この場合の「他者」は、ある時はマスコミであるかもしれないし、またある時は医師かもしれない。例えば「ニューハーフ」という言葉は、元々はゲイバー(現在のニューハーフバー)のママに付けられたものだそうだが、それがマスコミによって広く流布したのは、松原留美子の登場によってである。ゲイボーイでもなく単なる「趣味の女装」でもない彼女の存在は、その当時、既存のいかなる「概念・カテゴリー」とも異なるものとして分類される必要があったのである。
<トランスジェンダー>の分化が「必要」によって起こるという事は、その必要を感じる視点の違いについても考える必要が出てくる。これはある当事者が、視点の違いによって「A」に分類されたり「Y」に分類されたりすることもある、ということだ。例えば、職業的には「ゲイボーイ(ニューハーフ)」であると同時に、医師から見れば「性同一性障害」ということもあり得る。"Sexual Science" の記事では、矢島教授の見解として「歴史は分化の方向に進んでいる」ということが挙げられている。これは事実として正しいが、より包括的には「歴史は分化および分類基準の多元化の方向に進んでいる」と見るべきかと思う。
以上において、私は特に目新しい見解を提出したつもりはない。以前から述べているように、「世界分節は根本的には言語によってではなく必要関心によって行なわれる」という説を繰り返しているに過ぎない。これは哲学的には主観の問題である。しかし社会学ではそのレベルまで立ち入る必要はないように思える。ただ、私が社会学において必要だと思うのは、「その時代の概念・カテゴリー」がその時代のいかなるエートスに拠っているかということだ。そしてそのエートスが含み持っている何らかの性質が(その性質と一部の当事者との関係が)、次の時代のエートスを形成する。
マックス・ウェーバーの『宗教社会学』の第八節「神義論」に興味深い記述がある。信仰を分類するための類型を列挙するにあたって、ウェーバーは宗教史のような記述の仕方を用いている。そのすべてを引用するわけにはいかないので、私なりにまとめると、以下のようなものである。
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まず最初に、この世において神の国が実現するとする「メシア的終末論」があった。この段階でも神に対する「罪」の概念を見て取る事ができる。 次に死後の救済を考える「彼岸信仰」が挙げられているが、ここでは彼岸での運命は、単純に此岸のあり方の延長と考えられている(富裕なものは富裕であり続ける)。したがってこれが富裕層の関心を集めている限りでは、とりたてて彼岸での自己の運命を考える必要がない(少なくともそれは「応報」的なものではない)。 「応報信仰」とは、彼岸での運命が此岸における功罪に対する賞罰という形をとる。したがってこの考え方は、倫理的な神概念によって生じる。この考え方に伴い、完全なる神と、その被造物でありながら不完全な世界や人間との関係が、はっきり問題(神義論)として浮かび上がる。 「予定信仰」とは、神の全知のゆえに、各人の運命は彼岸にまで渡って定まっているとする考え方。神の完全性を突き詰めれば必然的な帰結だが、人間が彼岸での自己の運命を「よくする」という動機で倫理的であろうとする理由はなくなる。しかし一方で、倫理的であることによって、自分が神によってあらかじめ恩寵を得る人間であると定められていると思い込む事ができる。予定説は神義論に対する一種の回答だが、しかし、かえって神の完全性と世界の不完全性との断絶が強調される事になる。 「摂理信仰」は、「予定信仰」において不可知とされたはずの神の意志をなんとか知ろうとする態度。これは呪術的な神占術と同様、自己の運命を知ろうと努めるものだが、同時にあらゆる呪術的神占術を否定することにもなる。しかしこの考え方においても、神の完全性と世界の不完全性は強調される一方で、したがって神義論に関する解決をまったく含まない。 |
多少の想像力を働かせながら注意深く読めば、一つの類型が何らかの問題をはらんでいるために別の類型を生み出し、「メシア的終末論」→「彼岸信仰」→「応報信仰」→「予定信仰」→「摂理信仰」という連鎖を形成していることが見て取れるかと思う。たとえば現世に対して深い絶望が生じ「この世における神の国の実現」が期待できなくなると、「彼岸への期待」への移行が起こる。これは「分化」とは異なるが、しかしこれも一種の概念の「運動」には違いない。つまりウェーバーは、信仰の類型(これも「概念・カテゴリー」である)を挙げながら、同時にそれが「なぜ生まれたのか」という動因にも目を向けているのである。
現在、矢島教授において「その時代の概念・カテゴリーにより人々は自己認識をする」という見解が出てくるのは、それぞれの時代においての概念用語や人間の言動を外見的にのみ捉えているからだ。それは、現在のような実証的研究(史料収集)の段階においてはむしろ当然なことで、決して批判されるべきことだとは思わない。ウェーバーを読んでいても、単調な事実の羅列が長くてウンザリさせられる箇所が多々ある。矢島教授(TG研)が現在取り組んでいるのも、ウェーバーで言えばそういう箇所に該当する作業なのだろう。今後、「トランスジェンダーの考古学」からどのような形で<トランスジェンダー>の歴史が紡ぎ出されるのか、楽しみである。
