神名龍子
まず最初に、日本語でいう「性」の概念には、実は複数あるということを知っていただくところから始めます。
生物学上の性。人間の場合割り切って言えば、サル目(霊長類)ヒト科ヒト(ホモサピエンス)の「オス」と「メス」の意味にあたるのが「セックス(sex)」です。ただし「生物学的に」とか「医学的に」といっても、染色体の性、遺伝子の性、性腺の性、内性器の性、外性器の性など、さまざまなレベルが存在します。なぜかといえば、そもそも人間のからだを作るプログラムともいうべき染色体が必ずしも「XY(男)」や「XX(女)」にならず、例えば「XXY」というような例もありますし、また、プログラムに従って身体が作られる事を発生というのですが、その発生の過程で必ずしもプログラム通りに身体が作られるとは限らないのです。そのため、インターセックスのように生物学的に男性と女性の特性を合わせ持つ人たちもいます。
以下、語の混乱を避けるため、性の概念の内、セックスを「オス・メス」で、ジェンダーを「男・女」であらわします。
「ジェンダー(gender)」は上記の「セックス」とは別に、社会的、文化的に作られた性別のことです。いわゆる「男(女)らしさ」や「男(女)の仕事」等の形で意識されるものから、無意識の内に社会規範として規定されるものまで広域に及ぶものまで、後天的に身に付けて行く性差の総称と考えてください。
ジェンダーにはジェンダーごとに「性役割 (gender roll)」というものがあるとされています。「文化的に規定された、男性的/女性的行動の表現。また、そのような行動を遂行する能力」の事です。これがどういうわけか各人が所属する社会の持つ文化によって内容が異なります。現代の日本と欧米くらいを比較した場合にはいくつも共通点がありますが、地球規模で見ればさらに「バラバラ」なのです(日本から見れば比較的似通って見える西欧各国同士を比較しても、細かく見れば何らかの相違点が見つかるはずです)。
したがって「ジェンダー」と「セックス」の関係は必然的なものではなく、大半は恣意的なものであるといえます。これはある意味では不思議なことです。ですから、従来は「ジェンダー」と「セックス」の関係は必然的なものと(あくまでその文化体系内において)見られて来ました。そう考えれば不思議が不思議でなくなるので、説得力はあったわけです。しかしそれでは異文化を理解する事が不可能になります。そうして様々な文化を比較すると、大筋においては「ジェンダー」と「セックス」の関係は必然的なものではないとかしか言いようがなくなってしまったのです。
ただしこれは大人の話で、子供なら最初から「どうして女の子が・・・しなくちゃいけないの?」とか「・・・はどうして男の子のものと決まっているの?」と質問することは珍しくありません。ちょっとお母さんのお手伝いを言いつけられた女の子とか、玩具店でたまたま目に付いた奇麗なお人形を欲しがった男の子が、しばしば口にする言葉です。この質問内容がつまり「ジェンダーに関するもの」なのです。こういう場合、理論的に答えられる大人はまずいません。「どうしても!」とか「そう決まってるの!」というくらいで、「どうして決まってるの?」と追い討ちをかけると叩かれたり怒鳴られたりするわけです。
もっとも、こうして育てられた子供も、その内に自分が親の立場になれば、通常は同じ事をする側に回ります。教えられていないし、いくら考えても答えが出てくるわけでもなく、ただなんとなく(いつの間にか)「そんなモンだ」と思い込まされているだけですから、やっぱり答えられない。誰も理由など知りはしないのです。つまり本来は「ジェンダー」と「セックス」の関係は必然的なものなどではありはしないのです。
すると、「ジェンダー」は「セックス」と違って「男」と「女」の2種類だけでなくてもかまわないという事になります。理由は繰り返しになりますが、大筋においては「ジェンダー」と「セックス」の関係が恣意的なもので両者には何等必然的な結び付きがないからです。そういうところから「第3ジェンダー」という概念が出て来たりするわけです。
また「ジェンダー・アイデンティティ (gender identity)」といって自分自身の性別に対する認識(またはその認識内容)というものがあります。日本語では「性自認」ともいいます。
セックスとジェンダーが一致している場合には問題ないのですが、一致しない場合(例えばセックスが「オス」でありジェンダーが「女」である場合)もあります。あるいはジェンダーを社会的に課せられた「枠」のようにみなし、このジェンダーの枠の外に出ようとすること、もしくはその人を「トランスジェンダー」といって、略号では「TG」とあらわします。「T's用語概説」にいう「広義の TG」に相当します。いちいち「広義の」と断るのも面倒なので、以下この意味では「T's」といいます。
ジェンダーを男から女に移したい(あるは移した)場合を「MTF (Male to Female)」、女から男に移したい(あるは移した)場合を「FTM (Female to Male)」といいます。また「脱ジェンダー化」の場合、それぞれ「MTX」、「FTX」という表現もあるようです。
このセックスとジェンダーとが自覚的レベルにおいて、不一致の度合がはなはだしい場合、つまり「性別違和 (gender dysphoria)」が強い場合を「性同一性障害 (gender identity disorder / GID)」といいます。
性別違和感による精神的苦痛が強まり、精神的あるいは社会的不適応が発生する危険があって、なんらかの治療を必要とする状態であり、「性別再判定手術(Sex Reassignment Sugery / SRS)」を望むようになります。この状態、もしくはその人を「トランスセクシャル」といって、略号では「TS」とあらわします。
ここで一つ疑問が浮かびます。「『ジェンダー』と『セックス』の関係は必然的なものではない」のではなかったか? 両者の間に関係がないのであれば「セックス」と「ジェンダー」とが不一致な状態にあっても、気にする必要はないのではないか?
そう、そのために私はここまで、「『ジェンダー』と『セックス』の関係は必然的なものではない」という場合に、「大半は恣意的な」とか、あるいは「大筋では」、「本来は」などの但し書きを付けて来たのです。つまり「ジェンダー」と「セックス」とが、まったく無関係であるはずはありません。そうでなくては、「TG」や「TS」が存在する理由がないことになるからです。ただその関係は、これまで多くの人々に考えられて来たように、「ジェンダー」と「セックス」とを同一視すれば済むものでは有り得ないという事です。
では、以上の事を踏まえて考えられる「ジェンダー」と「セックス」との関係とは何でしょう。それは「ジェンダー」がいまや「セックス」を包括し、「セックスはジェンダーを構成する一要素に過ぎない」という一語につきます(図・1)。この意味においても近年、性別再判定手術 (Sex Reassignment Sugery / SRS)を、GRS(Gender Reassignment Surgery)と改称する動きがあることは、当然かと思います。私はこれを「より安定したジェンダーを再構成するために、ジェンダーの一要素であるセックスを変更する手術」と読みます。
以下は T's、とりわけ TS の方からは怒られるかも知れませんが、実は私は必ずしもこの状況が健全であるとは思っていません。ただ、T's だけが不健全な状態にあるわけではなくて、現在のあらゆる「文化」の状況そのものが不健全だという前提に立っての話です。
極論すれば、人間を「動物の一種」として捉えた場合(事実そうなのですが)、文化を持っていること自体が不健全だとさえいえます。それは例えば私が「女装の身体誌」の中で、「ヒトはすべて性倒錯者」であり「いわゆるノーマルを自認するヘテロセクシャルの男性でも(中略)要するに『女体フェチ』の症状なのです」と書いた、それと同じ意味での「不健全」さです。言い換えれば、「世の中の多数派を「健全」と規定した場合には、T's もまた「健全」な存在である」という事でもあるのです。
ここにいう「不健全」を不健全とみなした上で「健全」たらんとするならば、広い意味においての文化全般を捨て去らなければなりません。しかしこれは、いまや物質文明や機械文明について批判的な人達でさえ、それらを捨てる事が不可能である事は認めざるをえない状況にあって、それ以上に不可能なことでしょう。
ただ、何であれ私のように「身体文化」の担い手の一部でもある者(はしくれですが ^^;)にとっては、いわば「身心」の内、「身が従で、心が主」というような、一部の TS に見られるような性別再判定手術一辺倒の考え方には、本来は賛成できるものではありません。セックスに合わせてジェンダーを再構築するというような、逆が有り得てもよいわけです。私のような「身体文化の担い手」ならずとも、そう考える方は多いでしょう。
では、なぜ私がこういう事を書いているかというと、精神医学のお医者さんによれば、セックスに合わせてジェンダーを再構築する方法が今のところないのだそうです。
これは現在、性別再判定手術で話題にのぼる埼玉医科大学で精神神経医学の山内俊雄教授の言です(1997年11月3日、一橋大学学園祭「一橋祭」特別企画 公開シンポジウム「心と体のミスマッチ -性同一性障害者の苦しみ-」において)。
いくら私でも、現に苦しんでいる人に、「いつかは精神医学によるセックスとジェンダーの一致も可能になるかも知れないから、それまで待ちなさい」とは言えません。いつまで待てばよいのか、それすら判らない状態なのですから、事実上そういう方法は(現在のところ)「ない」のと同じことです。私がいくら思想的には「嫌だ」といっても、現実において、外科的療法が可能であり、精神療法(ジェンダーをセックスに一致させるための)が確立されていないのでは仕方がありません。「必ずしもよい方法とは思わないけれども、それじゃ仕方がないね」と言わざるをえないではありませんか。
この「言わざるをえない」という気持ちは、理屈ではなく「情」です。11月2日(TSとTGを支える人々の会)と11月3日(上記、一橋大学学園祭の公開シンポジウム)の連続2日間に渡ってTSと実際に接してしまったら、もう理屈ではどうにもなりません。である以上、「精神療法が確立されるまで」という、時限的(事実上、無期ですが)条件において、私も性別再判定手術を認める!。
こんな言い草では、TSの方からは怒られるかも知れませんし、もしかしたらいずれは(これも無期ですが ^^;)袂を分かつ時が来るかも知れません。あるいは「りゅこ倫」等において、「自分で自分に『弱者』のレッテルを貼るな!」などと叱咤してしまうかも知れません(あ、これはもう「しちゃった」のか ^^;)。しかし、少なくともこのような医学の現状が続く限りにおいては、私に出来る範囲においての支援はお約束します。