神名龍子
差別と言うのは、人間が「よい・わるい」とか「きれい・きたない」などの価値体系、価値の秩序を持っている事に由来します。そこから、ややもすると「その価値の秩序それ自体をすべてなくさないと差別はなくならない」という短絡的な考え方も出てくるわけですが、それは間違いだと思うんですね。差別は価値の秩序を利用するけれども、価値の秩序それ自体は差別の本質ではありません。
人間はすべて平等であるべきだといって、すべての価値の秩序を取り払おうとすると、差別の問題はかえって解決不可能になります。第一それでは社会そのものが成り立ちません。また、平等ということをただ漠然と「平等」と謳って絶対化すると、かえって平等という事が判らなくなります。
民主主義の社会、国民国家とか市民社会と呼ばれる制度の中での平等と言うのは「法の下の平等」ですね。ですから例えば背の高い人と低い人がいるとか、美人とそうでない人がいるという事は、「法の下の平等」には抵触しません。しかし背の高い人、例えば身長が170センチ以上ある人は選挙で1人2票ずつ投票が出来て、170センチ未満の人は1人1票しか投票できないとしたら、これは「法の下の平等」に反するわけです。
つまり差別とは、人間が持つ価値の秩序の中で、多くの人がそれは不当だとか不合理だと思うものをいうわけです。ここで一つ押さえておきたいのは「絶対的に正しいルールは存在しない」ということです。つまり多くの人々によって妥当と思われるものが、その時々のルールになります。ですから社会通念が変化すると、それに従ってルールも変わるという事ですね。以上の点を踏まえずに、何でもかんでも差別だというのは、これは逆に差別についての思考の放棄だといってもよいでしょう。
次に差別の動機ですが、人間は自我を持つ生きもので、常に自我の安定を確保し、拡張しようとする性質から来ています。要するに他人の価値をおとしめることで相対的に自分を高めようとする行為です。しかし人間は誰でもそういう心性を持っていて、例えば自分は勉強は駄目だけどスポーツは得意だとか、そういう形で自分を励ます。これは人間が普遍的に持っている心性ですね。
ですが、これを特定の個人や集団に向けて過剰に、あからさまにやる。しかも相手が反撃出来ない点を突いてやる。それは誰でも卑怯だと感じる。それが、他人を一方的に利用して自分の自我の安定・拡張をはかる行為だという事が直観的に判るからです。
差別の手段として典型的なのはカテゴライズですね。他人をあるカテゴリーにはめ込んで、こういうグループに属しているからお前は劣っているとレッテルを貼りつける。つまりカテゴライズと同時に、そのカテゴリーに対して(同時に、そのカテゴリーに属する人に対して)低い価値付けを行うという構造です。その最も不当なのは、そのグループに属している事がその人の責任ではなく、選択できない理由による場合ですね。
性別と人種は差別のために利用されやすいカテゴリーの双璧でしょう。日本では他に民族(アイヌや在日朝鮮・韓国人等)や同和問題も大きな比率を占めています。お前は女だから男である自分よりも劣っているとか、お前は朝鮮人だから日本人である自分よりも劣っているというのは不当だし、くだらない事です。
しかし、繰り返しになりますが価値の秩序それ自体、あるいはカテゴリーの存在それ自体は差別の本質ではありません。性二分社会や、世界に複数の民族が存在する事それ自体が差別の原因であるという事ではないのです。そういうカテゴリーや、カテゴリーにまつわる価値の秩序はなくなることはありませんし、あってもよいものです。ただしその中で不当・不合理なものについてはなくして行きましょうという事が、差別の解消の一環であるということです。
そのためには、何が不当・不合理化という事を選別できる目を私達が育て持たなくてはなりません。そういう努力を放棄して、目につくものを何でも片端から差別だ差別だとわめき立てていたのでは話になりません。その基準が、現在の日本の社会では「法の下の平等」だろうと思います。
例えば一部の女性団体などがミスコンテストの開催に反対をして抗議活動をしたという報道を時々みかけましたが、あれはちょっとおかしいと思う。それだったらゴルフの腕前で女性にランクをつけるレディスカップなんかにも抗議に行きそうなものですが、そっちへは抗議に行っていないか、行っても中止になったりはしないようですね。逆にいえば美醜という価値基準をゴルフの腕前よりも過大に評価しているのは、むしろ抗議団体の側であるという事になります。ミスコンの開催自体は「法の下の平等」に反するものではありませんし、差別でもなんでもない。それを差別だと感じるのは、抗議する側がかかえるコンプレックスの問題であって、それは開催者に抗議したところでどうなるものでもないでしょう。
しかし、もし美人だから交通違反をしても反則切符を切られないとか、選挙の時に投票権が2票分あるということがあれば、これは「法の下の平等」に反する不当・不合理な差別です。それに対しての抗議活動については、誰も疑問を持たないでしょう。多くの人がそれは不当だとか不合理だと思うものは、その社会においてのルールにならず、したがって正統化される事もないからです。
就職にしてもそうですね。女性が男性に比べて就職に不利だとしたら、それは性別というカテゴライズそのものが原因なのではなく、女性というカテゴリーに対して不当に低い評価が付加されている事に問題があるのです。なぜならこのような就職差別は性別以外のカテゴライズにも存在するわけで、仮に就職差別の原因が性二分社会にあるといったら、在日韓国人や部落出身の男性が納得しないでしょう。
就職差別に関していえば、性二分社会というのは差別の「原因」ではなく、差別の実例の一部としての「現象」であるといえます。いいかえれば、就職差別について性別という切り口で見る必然性はまったくなくて、これは社会のルールと、社会の成員との関係の問題です。社会の成員である企業が、社員の採用にあたって「法の下の平等」に反する不当・不合理な判断をした事実がなかったかどうかが問題になるわけですね。もしそういう事実があったとすれば、これは社会のルールに反する行為をしたという事で、何らかのペナルティが課される必要があります。
もちろん、前回の「9.TSの今後と「ゲーム・戦略」」に書いたように、「法の下の平等」以外に、市場原理にも反しているわけで、つまるところ差別とは反社会的なルール違反であるということですね。