神名龍子
ある県のNPO法人で、アダルトビデオに関するアンケートを実施中らしい。「社会にはさまざまな性差別が存在しており氾濫するアダルトビデオ(ポルノビデオ)が与える不快感や女性を貶める侮辱的な表現もその一つと考える事ができます」とか、「県内の旅館やホテル(主にビジネス・観光向け)にもアダルトチャンネルやアダルトビデオが設置されているところが決して少なくありません」などの説明がついているそうだ。
もっとも「ポルノ告発」それ自体は、決してフェミニストの専売ではない。単に「ポルノ告発」というだけなら、保守派によるものも昔からある。教育上よくないとか、不道徳だとか、保守派による「ポルノ告発」はけっして珍しいものではない。
しかし両者には決定的な違いがある。それを一言でいえば、「ポルノ告発」が「男社会告発」の文脈でなされているかどうかということだ。
フェミニズムのポルノ糾弾は以前からあるもので、その骨子となるのは、ひとつはポルノそれ自体を「性の商品化」等と位置付け、これを性差別であるとするものだ。このNPO法人のアンケートも、これに含めて考えてよいだろう。
この問題は売春の是非の問題とも共通するものだが、なぜポルノそれ自体が悪いと言えるのか、その理由を明確に説明できないという欠点がある。フェミニストがいろいろ挙げるのは、ポルノそれ自体というより、ポルノに付随する悪の問題になってしまう。たとえば女性を利用して大金を稼ぐ「搾取」であるというようなものだ。では、搾取の問題が解決されればそれでよいのか、たとえば女性だけでAVを作ったらそれはOKなのかという話になる。
また、性を人格から切り離して商品化するのがよくないという主張もある。
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ポルノグラフィは性行為の意味づけをしたい男たちが生み出したものである。現在のポルノグラフィには人間としての〈生〉がなく、人格から切り離された〈性〉ばかりが描かれている。(中略) ポルノグラフィが表現するのはコミュニケーションとしての性行為ではなく、女と男の不均衡な力の関係、女は男のモノという男支配社会のイデオロギーだ。 (船橋邦子「ポルノグラフィの政治学」『別冊宝島85 フェミニズム・入門』) |
しかし、人格ごと売買の対象にするほうがよほど問題だということは、ちょっと考えれば中高生でもわかることで、それこそ「人権問題」であろう。
フェミニストによる「男社会告発」の文脈での「ポルノ告発」について、私の意見を述べる前に「考える方法」について述べておくと、この問題について考える場合には、押さえておくべきポイントが2つある。
さて、男女のセクシャリティの違いが根本的に「見る/見られる」(見せられる/見せる)という非対称性にあることは、過去に何度か述べてきた通りだが、ポルノとはこの非対称性のいかなる現れであり、どの程度に男女一般の関係にとって不幸であるのか。
まず、このような男女の非対称性が「男性社会」という政治的文脈から立ち上がって来たものでないことは、大部分の人たちには直観されるであろう。たとえば、女性が社会を支配したとしても、そのために男女のセクシャリティの在りようが逆転するということは考えにくい。
もちろんここでは、性差別がジェンダーを生み出し、ジェンダーがセックスやセクシャリティをも含めた「男女の在りよう」を規定しているのだという、バトラーやデルフィの説は無視している。彼女達の主張は既に批判済みであるし、このような男女の非対称性の強固さは、女性のエロスが男性によって政治的に「抑圧」されてきたために生じたのではあり得ないからだ。
もしそうなら、既に女性の法的・社会的自由がこれだけ確保され、しかも潜在的な欲望に商品の形で応える企業が数多く存在する先進国において、女性用のポルノや風俗産業などがもっと一般化しているはずではないか。しかし現実には、女性の「性の解放」は、あくまでも女性特有のセクシャリティに応える形で商品化されている。たとえばレディスコミックである。男性向けのエロ漫画雑誌のように、レディスコミックの巻頭カラーにあられもない男性ヌードが掲載され、それが女性大衆の好評を得えることなど、予期し得る将来において、決してあり得ないであろう。
これに対して、そのような「商品」ばかりが出るから、従来と変わらぬ女性セクシャリティが再生産されるのだという意見もあるかも知れない。「社会が個人の欲望を規定する」という種類の考え方でである。しかし、この考え方にはとりあえず2つの欠陥がある。一つは、この主張で言えば、どのような欲望も社会が作るのである限り、抑圧の対象となるような主体的な欲望は、そもそも存在しないという話になってしまう、ということだ。二つ目には、欲望の根源が何であれ、従来の女性セクシャリティに応える商品は、女性大衆によって支持されているという現実である。
たとえば、そのような女性大衆のセクシャリティは間違っていて、本来はもっと違うものだというのなら、その「本来の女性セクシャリティ」(だと思われるもの)に応える商品を出してみればよい。それが本当に「本来の女性の欲望」に応えるものであるならば、現在のレディスコミックなどを駆逐して売れ筋商品になるはずではないか。しかし現実には、利にさとい(はずの)どこの企業もそういうものは出していないし、出していたとしても話題になるほど売れていない。
このような問題を語る上でも、欲望論こそが底板なのであって、「支配−被支配」という政治的な観念で男女の性差を読み解こうとすることは不可能なのであろう。なぜなら、まず政治的な「正しさ」があって、それに見合うような欲望が到来するわけではなく、まず「欲望」があって、それをいかに実現するか(あるいはこらえるか)という問題が生じるからだ。ならば、まずは男女の「欲望の性差論」とでもいうべきものを立てて、そこから社会について考えることが大切で、政治的言説とその実践ばかりに性急になっても、大部分の男女が関心を持つわけがない。
たとえばマルクス主義の階級闘争史観を換骨奪胎して「男女」に当てはめても、それが政治理念としての「かくあるべし」(ゾルレン)に由来するものである以上、「男女がいかに在るか」という在りよう(ザイン)から乖離した見解しか出てこないのは当然だ。そもそも男女の在りようの「いかにあるか」をまともに見ていないし、そこから出発して考えようとする姿勢にも欠けているからである。誤解のないように書いておくが、私はけっしてポルノの現状を無条件に肯定せよといいたいのではなく、告発する前に「よく見ろ」と言いたいのだ。
私の考えでは、ポルノの問題を政治や倫理の観点からのみ語ることには意味がない。まして、「男性社会」の告発としてのポルノ糾弾は、かなり的外れな「ポルノ観」に基づいているとしか言いようがない。実際問題として、男性の多くがポルノを「それなりに」よろこぶとしても、私にはそれが男性の欲望をどこまで満たすものであるのかということに疑問があるからである。
男性の性的欲望というのは、例えその契機が「彼女の巨乳に目を奪われた」というようなものであっても、最終的には「彼女」とのエロス的関係に向かおうとする。身体的契機の中に、相手の全体を見通そうとする欲望(そして「彼女」の全体性が自分にとって素晴らしいものであってほしいという欲望)が働く可能性が開かれる。
ところが状況によっては、「彼女」との関係がそこまで到達し得ないものだということが、あらかじめわかっていることがある。たとえば、たまたま同じ電車に数分間だけ乗り合わせただけで、幸運に恵まれない限り「彼女」に二度と出会えそうにない、というような場合には、即物的な欲望に留まる場合もあるかもしれない(この「即物的欲望」を実行に移すと「痴漢」になる ^^;)。
ポルノや、いわゆる「風俗」(売春を含む)のような場合も、「彼女」の全体性への到達が挫折することは、本質的である。もし、そうではないとしたら、それこそ「人格ごと売買される性の商品化」になってしまう。また、痴漢やレイプというのは「彼女」の人格までを(男性の側から一方的に)侵害してしまう点で問題になるわけだ。
ポルノや「風俗」において、「彼女」の全体性への到達が挫折することが必然的だとわかっていても、なお求めざるを得ないところに、男性の性の「業」(ごう)とでも言うべきものがある。このこと自体はザインとしての「善悪の彼岸」の問題であり、それゆえに政治や倫理の視点では解明することは不可能である。
ポルノなり「風俗」なりの成立を問うためには、まずここを見なければならない。ここから見えることは、上に引用した船橋邦子がいうような「男支配社会のイデオロギー」などではなく、むしろポルノや「風俗」が「コミュニケーションとしての性行為」を得られない男性によって支えられているという事実である。もし船橋の言うように、ポルノが「男支配社会のイデオロギー」の産物なのだとしたら、レンタルビデオ店でアダルトコーナーに出入りする男性は、もっと堂々と大威張りでいるはずだ(なぜならそれは男性が「支配者であること」の利益を享受する場面であるはずだから)。しかし現実に観察できるのは「後ろめたそうな態度」であって、どう見ても「支配者」のものではあり得ない。
また、そうであればこそ、ポルノや「風俗」を性差別として糾弾するフェミニストと、「風俗」やAV(あるいは援助交際)に身を投じる女性との間でも、話がかみ合わないということが起こる。ホステス業の一経験者として断言してしまうが、現代において「風俗」や「水商売」に身を投じる女性は「性差別をされにゆく」などと考えてはいない。昔のように貧困が理由で嫌々ながらに「身を落とす」ような場合は別かも知れないが、このような業種では、むしろ男性を実質的にリードするのは女性の側なのである。
フェミニズムでは、このような男性の性の「業」を正面から取り上げるということをしない。もし、そういう事があるとすれば、最初からそれを罪悪視して告発する文脈に限られるであろう。フェミニズムだけではなく、メンズリブでもこの問題を避けていることは、既に4年余りも前に「『純粋下半身問題』について」の中で指摘した通りである。そのためフェミニズムやメンズリブにおいては、「なにゆえにポルノが成立するのか」についてまともに考えられたことがない、と断言してしまっても、決して過言ではない。
その理由は簡単で、これらの主義主張がどんなに「女性学」や「男性学」という名の学問を装ったところで、それが本質的には決して「学問」などではあり得ず、男性のセクシャリティやジェンダーを告発・糾弾するための「後付けの理屈」をひねり出すための営みに過ぎないからだ。それゆえ、これらのイデオロギストにとっては、自分たちの政治目的に益のない「事実(ザイン)」の究明などには、何の価値も見出すことが出来ない、というに過ぎない。
この事を裏返していえば、フェミニズムやメンズリブといったイデオロギーが、現実日常の生活世界の中で「男性であること」や「女性であること」を生きている男女大衆の関心に応えるものになっていない、ということでもある。私達が「男」や「女」として、どのような仕方で「エロス的存在者」として生きているのかということが、「男社会告発」のイデオロギーによっては、まったく見えてこないのだ。
一見すると「道徳的に正しいこと」「反対の仕様がないこと」に見える「ポルノ告発」が、どこか「胡散臭いもの」に感じられてしまうのは、このためである。この「胡散臭さ」の正体は、「ポルノ告発」をする者たち(それが政治的に左右いずれの立つのであれ)が握っている「正義」が、けっして現実の中から立ち上がったものではなく、理想理念からの要請ないし命令であるという点にある。
「正しい思想」「理想的な思想」は、思想としては決して強靭な思想、優れた思想ではあり得ない。そういうものは、単に「ナイーブなロマンティシズム」であるに過ぎない。私達が、こういう素朴で幼稚な「理想理念」に対して違和感を生じる根拠は、各人が生きている現実の中にある。その理由は、これらの「理想理念」が、現実を無視することによって…、というよりも、現実を「敵視」することから生じているためである。
したがって、このような「理想と現実の二項対立」から生じた「正義」は、常に非現実的であり、それゆえに非理性的である。なぜなら、素朴なロマンティシズムをいかに「現実」に耐えるものに鍛え上げてゆくかということにこそ、人間理性の(そして思想という営みの)本領があるからだ。それゆえ、あまりに「正しい思想」「理想的な思想」は、スローガンとしては効果的でも、本当の意味で優れた思想として形成されることはなく、現実の前に敗れ去ることが必然的なのである。
