神名龍子
野口勝三氏から、11月6日の特別講座「セクシャルマイノリティの人権と共生」(大阪経済法科大学東京麻布台セミナーハウス・アジア太平洋研究センター・市民アカデミア2004)で、
という趣旨の問いかけをいただいた。このときに私が述べたことを簡潔に記すと、
という2点であった。以下、この問題について改めて詳細に述べてみたい。
「特例法の非婚要件が同性婚の否定を強化する」という批判が出てくるのは、そもそもどういうわけなのであろうか。私が知る限り、この種の批判において、
ということが具体的に述べられているものを見た記憶は皆無である。つまり、批判はあっても、その具体的な根拠が示されている事例が見当たらないのである。
まず、同性婚の実現が、すべての同性愛者の要求だという事実はない。それどころか、婚姻制度そのものを否定するという意見すらあり、もちろんそういう人達は同性婚も異性婚も求めているはずがない。
もちろん私は、すべての同性愛者が同性婚の実現を求めるように意見統一すべきである、と言いたいのではない。私の考えでは、同性婚の実現を求める運動は、それを望む人達だけで展開すればよいのであって、同性愛者というカテゴリーの中で意見統一をしなければならない必然性は全くない。なぜなら、もし同性婚を認める法制度ができたとしても、同性または異性と婚姻するかどうかは各人の判断事項であり、婚姻をするつもりのない人物にとっては、同性婚が実現してもしなくても、その人の利害には無関係だからである。
「同性愛者はすべて婚姻をしなくてはならない」という法制度を求めるのなら話は別で、これなら紛糾するのは当然であろう。こういう規定を「余計なお世話」という。そして「同性愛者は(あるいはすべての人間は)すべて婚姻をしてはならない」というのも、全く同様に「余計なお世話」であろう。いずれにしても、「婚姻するかどうかは各人の判断事項である」ということを否定して、一律に「かくあるべし」を規定しようとすることが間違っている。
問題は、同性婚の実現を求める人達が誰であり(あるいはどういう団体であり)、どのような活動をしているのか、ほとんど知られていない、という点にある。もちろん、そういう人物や団体は存在するかもしれないし、その主張や活動についても、セクシャルマイノリティの内部事情に詳しい人なら知っているかもしれない。しかし、それは一般にはほとんど知られておらず、私も知らない。そもそも同性婚の是非について、具体的に問題意識を持つ人が、今の日本社会の中でどれほどの割合を占めるのであろうか。
同性婚の実現を求める人たちが陳情に行ったところ、特例法の成立以前に比べて、政治家の対応が冷淡になった…、という類いの話も聞いたことがない。そもそも、誰かが同性婚の実現を求めて陳情に行ったという話自体が、特例法の成立以前にも、成立以後にも、まったく伝わってこないからである。もちろん政治家だけでなく、広く「一般の人々」についても同じことであろう。特例法ができたために、同性婚に反対する人が増えたという話も、全く聞いたことがない。
私の考えでは、「特例法の非婚要件が同性婚の否定を強化する」という批判は何ら事実に根ざしたものではなく、ただ単にポストモダンの文脈からひねり出されたに過ぎない。そのベースとなった言説はデリダでもフーコーでもよいのだが、要するに次のようなことであろう。「同性婚の禁止」という性規範には根拠がなく、ただそういうものなのだとして人々に擦り込まれているに過ぎない。そしてその性規範は、語られたり、実践されたりという形で常に確認されることで、再生産・強化されるのだ…と。
このような営みを「パフォーマティブ」と名付けるか、「規律訓練型権力」と名付けるか(あるいは他の命名をするか)は、論者の好みの問題であろう。名称など何でもよいが、このような見方を前提に置けば、特例法の非婚要件もまた、「同性婚の禁止」という性規範の再生産・強化の営みだと言えないことはない。
重要なことは、この前提が正しいかどうかという点にある。このような前提は、一面的には正しくもあるが、しかし無条件には成立しない、というのが私の考えである。
現実には、多くの人にとっての「同性婚の禁止」という性規範は、自分にとって、メリットもデメリットももたらさないという理由で無関心であるに過ぎない。積極的にこの性規範に従うべく、「あえて」同性との婚姻を避けようとしているわけではない。また、誰かがこの性規範を破ろうとしても、それが自分にとって全くの他人である者同士の婚姻であるならば、それを断固阻止して「同性婚の禁止」という性規範を再生産・強化しようと努める動機も持たないであろう。「無関心」とはそういう意味である。
また、自分にとってデメリットしか感じられない(あるいはデメリットが明らかにメリットよりも大きい)と感じられたなら、人はその規範を素直に受け入れたり、再生産・強化したりはしない。人間は、「社会」によって無条件に何でも書き込まれるような「白紙」(タブラ・ラサ)として存在しているわけではなく、ある規範が自分にとってどのような「意味」や「価値」をもつものかを判断して、その規範を受け入れたり、反発したり、受け流したり(無関心)するような存在なのである。これは三歳児ですら日常的に行なっているような、人間に普遍的な態度であって、誰でも決して「白紙」として存在しているわけではない。
もし、このことを認めないとすれば、それは他者をまったく主体性のない「白紙」とみなしつつ、自分だけは違うのだとする「自己特権化の態度」である。「他の人間は真実を知らないままに騙されており、自分だけが真理を握っている」という、党派的な発想に他ならない。これこそが宗教戦争にもマルクス主義にも見られた、悲劇の根源ではなかったのか。そして、そのような人間が作る規範こそが、多数の人々にとっては「悪い規範」であり、それゆえに必然的に崩壊したことを忘れてはならない。
「特例法の非婚要件が同性婚の否定を強化する」という批判も、その前提も、まったく事実に根ざしたものではない。ということは、この批判は単にロジカルに作られたものに過ぎない。それが許されるのであれば、まったく逆のことも言えるだろう。たとえば、「それまで多くの人々にとって無関心だった同性婚という問題が、特例法の成立によって注目されることになったのだ」という主張も、この批判と同等の権利を持つはずである。
それでは、「特例法の非婚要件が同性婚の否定を強化する」という批判と、「それまで多くの人々にとって無関心だった同性婚という問題が、特例法の成立によって注目されることになったのだ」という主張と、いずれが正しいのであろうか。
実は、この相反する主張のいずれが正しいかを言い当てようとすることには、まったく意味がない。
その理由は簡単で、特例法が成立したからといって、大半の人々にとっては、同性婚の自分にとってのメリットやデメリットに、何の変化ももたらすものではないからである。無関心が無関心であり続けるに過ぎない。さらにその理由を述べるなら、同性婚の実現を求める人たちの顔も意見も、あいかわらず見えないままだからなのだ。どこかで誰かが同性婚の実現を求めているかもしれないが、実際にはどこの誰が何といっているのか、まったくわからない。まぁ、どうでもいいや…。こう考えるのが、最も多数を占め続けているというのが、相も変らぬ実状であろう。このことは冒頭にも挙げた、
ということに関連してくる。「どこかで誰かが同性婚の実現を求めている」のは確かなのだが、それがマジョリティの目にとまる形で知らされているとは、お世辞にも言えないのではなかろうか。いわば、国民レベルでのコンセンサスを得るための活動が欠如しているとしか思えないのである。
また、法制度としての「婚姻」の否定は論外として、「婚姻」や「家族」概念の相対化も、国民のコンセンサスを得るための手法としては、効果的だとは思えない。このことは GID 当事者の運動の、正規の SRS の実現や、戸籍訂正の実現のプロセスの中によく現れている。
たとえば「性別」という概念を否定ないし相対化しようとしても実現できなかったし、これからも実現できそうにない。それは「バックラッシュが頑張ってるから」というようなフェミニストが言うような理由では全然なくて(笑)、多くの男女がそれぞれ「男であること」や「女であること」をそれなりに生きてゆけるという現実に支えられているからである。そういう男女大衆に対して、その生活実感そのものを変えろと迫ったところで、そのための自発的動機を持たない人々が素直に従うはずもない。そのため、この手の運動ではしばしば、「こんなに気の毒な人がいるのに何とも思わないのか」式の罪悪感強迫が常套手段として用いられてきた。しかし、このような手段はかえって男女大衆を抑圧するものとして働いてしまうために、コンセンサスを得るどころか、敬遠される風潮を生み出してしまった。。
| ※ | いわゆる「バックラッシュ」なども、そういう常識に根差した主張が大部分を占めているのが現実である。残りの一握りには、教条主義的・原理主義的な伝統論者や復古主義者が存在するが、その説得力のなさや非常識さではフェミニストとよい勝負だったり、あるいはそれを上回るものも少なくない。したがって彼らも、フェミニストと同様、多くの男女に受け入れられるような主張はなし得ないであろう。 |
このような活動は、常識の否定や相対化ではなく、むしろ「常識の肯定」をその入り口とすべきなのである。たとえば、家族なら「家族」という概念の意味本質を取り出してみる。それは私の考えでは、
を挙げることができるのだが、まずはこれを「家族」の意味本質として確認し、その上で、「養子」のような擬制を現在よりも少し広めに取ることを求めてゆく。たとえば同性婚について言えば、1番目の「性愛的な横の関係」は異性愛が基本ではあるが(ということを確認した上で)、その擬制としての同性愛も認めてもよいのではないか、ということになる。
GID の場合も「性別」概念や「男女二元制」を、否定ないし相対化するという路線では、決して国民レベルでのコンセンサスは得られなかったであろう。また仮に、そのような考え方に基づいて法案を作ろうという動きがあっても、夫婦別姓法案と同様につぶされていた公算がきわめて大きい。なぜ特例法が成立し、夫婦別姓が実現できないのかといえば、「常識の肯定」と「常識の否定や相対化」との違いということに、その本質があるのだと言わざるを得ない。
この観点から「特例法の非婚要件が同性婚の否定を強化する」という批判を見ると、この批判の原型が、「悪い制度や規範が存在していて、それが権力によって再生産・強化されていることが問題だ」という考え方に基づいていることに気がつくだろう。しかし、このような「反・常識」や「反・規範」の考え方では、多くの人たちがその規範の下で特に不自由なく暮らしているような場合には、説得力を持たないのである。
したがって重要なことは、ここでいう「常識」(これを伝統と言い替えてもよいが)、の意味や根拠を確認することなのである。そういうものを否定するのも、また意味や根拠の確認を抜きにして「伝統だから正しい」というのも、どちらも同じ態度の裏返しであって、私は納得できない。それは、大部分の男女大衆にとっても同じことであろう。「無条件に否定せよ」とか「無条件に墨守せよ」という命令では、人は動かない。
