神名龍子
『世界』4月号(岩波書店)の「ジェンダーフリーって何?」という特集を見て、相変わらずの馬鹿馬鹿しさを感じてしまった。今回はその中から2人の論者を取り上げてみる。
まずは、細谷実なる人物の、「男女平等化に対する近年の反動はなぜ起きるのか?」というバックラッシュ論である。ほとんどの部分で突込みどころが満載だが、夫婦別姓反対論について述べている部分を取り上げてみよう。細谷は夫婦別姓反対論の動機について、北田暁大の、
| それはもともと異なる他者との共存が課題となる市民社会とは違って、親密圏では自分たちの思うとおりにでき、かつそのあり方を絶対普遍普通なものと信じ込んでいたい、そうでないと落ち着かないという心理からだ。 |
という分析を紹介した上で、次のように述べている。
| この心理は、確かに論理矛盾を犯している。一方で、親密圏はプライヴァシーだと主張しつつ、他方で、他者が自分たちの親密圏でおこなおうとする自由な選択に反対しているのだから。なるほど「子育てをしない男は父とは呼ばない」という厚生省のポスターに対する彼らの反発は、リベラリズムの基準から見てまっとうな反応である。親密圏はプライヴァシーであり、やたら行政が口出しするべきものではない。先のポスターは、子どもの福利という観点からは許容されるかもしれないが、夫婦関係への介入としてはやはりバックラッシュ派の言うように不適切だと思われる。しかし、別姓希望者に対して、別姓を許容せずに妨害することも同様に「ウザイ」振る舞いであることを、なぜかバックラッシュ派は自覚できないのである。 |
この部分について、私なりに考えてみる。そもそも、なぜ細谷にはこれが「矛盾」に見えるのか。その前提にはどのような考え方があるのか。
細谷の考えでは、基本的には「家族」を、国家や法とは無関係なもの(あるいは無関係であるべきもの)だという見方が前提になっている。その観点から、厚生省の「子育てをしない男を父親とは呼ばない」というポスターを批判し、かつ、別姓の選択を「妨害」することも非とするわけだ。
しかし、そもそもこの前提が間違っている。「家族」には個人的(プライベート)な面もあれば、社会的な意義という側面もあるのだが、細谷は前者しか見ていない。この細谷の家族観を敷衍すると、上野千鶴子がいうような、法的「婚姻」の否定につながって行く。つまり「この男とデキましたなんて、なんでいちいち届けなあかんねん」という話へとつながって行くことになる。
だが私も含め、いわゆる「バックラッシュ」と呼ばれる者の中で、「家族」は純粋にプライベートな側面しか持たず、社会的な意義を持たないのだと主張する者は、誰もいない。もし、そういう家族観を持つ「バックラッシュ」論者がいて、それが別姓反対を言うのなら確かに「矛盾」だといえるだろう。しかし現実には、細谷と家族観を共有する「バックラッシュ」など、どこにも存在しない。したがって細谷の指摘する矛盾は、その前提から崩れてしまうことになる。
細谷は、「バックラッシュは自分と同じ家族観を持っているはずだ」という確信を、どこから引っ張り出してきたのか、この「勘違い」をきちんと説明してもらいたいものである。
では、「家族」のプライベートな面と、社会的な面とは、それぞれどういうものであるのか。これは、近代社会における「家族」とは何か、という問いでもある。
「家族」の結び付きは、経済の領域に見られるような「契約」でもなければ、単なる「愛着」でもない。互いに献身することによって(それはある意味では「個」の放棄でありながら、かえって)自己の自由を達成(自己実現)するような関係である。これは「家族」のプライベートな面だと言ってもいい。したがって、その相互献身のありようや、その一部をなす役割分担は、「家族」内部の合意で決めることであって、国家が指導するようなことではない。
次に「家族」は、プライベートな面においても、社会的な面においても、つまり二重の意味で「共同体」であるということ。このことは「家族」が「社会」の「最小単位」だということを含む。細谷の家族観に欠けているのは、この視点なのである。
細谷の図式を私なりにまとめると、「個人」はヘーゲルのいう「市民社会」(経済の領域)に属しており、経済の動向によってそのありようを変えるような存在だ、と言うことになる。したがって、経済のありよう、つまりマルクス主義で言うところの「下部構造」によって、専業主婦の増減その他の「家族」のありようも変化する。これは基本的には、マルクス主義フェミニズムと同じ考え方であって、この点でも上野千鶴子との類似性が認められる。
だが、「個人」の側から言えば、人間というのは「家族」「市民社会」「国家」という3つの側面を合わせ持つような存在であり(ヘーゲル)、これらはそれぞれ別原理に立脚する分野である。ある分野と別の分野とが「下部構造」と「上部構造」の関係にあるわけではなく、そんなことを信じているのは、マルクス主義者くらいであろう。
そしてこの3つの分野は、別原理に立脚しているけれども、全く無関係に存在しているわけでもない。たとえば「家族」は、生活のための共有資産を持ったり、次世代の社会の要員を育成したりする。そうして相互に、直接・間接的に関係を持つのである。
| ※ | 「間接的に」と言うのは、たとえば「公教育」という項目を置いてみるとわかりやすいだろう。「公教育」というのは「家族」「市民社会」「国家」のどれか特定の一分野に属すものではなく、3つの分野からの要請を全て満たすようなものとして存在している。「家族」の視点から言えば自分の子供が一人前になってくれなくては困るし、「国家」も一人前の国民を育てることを欲し、また「市民社会」にとっても優秀な社員を求める。 |
少し話を戻すと、「家族」というのは社会の最小単位としての「共同体」であり、姓というのはその「家族」(という共同体)の名称であって、個人のものではない。夫婦別姓があり得ないのは、「市民社会」における「社員別企業名」や、「国家」における「国民別国名」がないのと同じことであって、これはプライベートの問題では全然ない。なぜかというと、「名前」と言うのは内輪で完結するものではなくて、対外的・社会的に共有されるものだからだ。この点が、家族内での役割分担とは、本質的に話が異なるのである。
しかし、社会における「家族」と言う視点を欠いている細谷は、このことを完全に度外視してしまう。そのために、家族内の役割分担と、夫婦別姓とを、まったく同質の問題として論じてしまうことになるわけだ。
また私が理解に苦しむのは、細谷のように「夫婦別姓」をまったくプライベートの問題としてのみ扱ってしまうことは、かえって別姓論の根拠を否定することにもなる、ということである。
たとえば、夫婦別姓を主張する理由の一つとして、姓が変わるとそれ以前の職業上の実績が無視されるというのがある。これが「プライベートな理由」ではなく「社会的な理由」であることは、誰にもわかるはずだ、夫婦別姓に反対する私でさえ、このような事情を無視したり否定したりするようなことはしない。ただし、戸籍上の問題としての「夫婦別姓」でなければ解決できないようなものではない。これは作家のペンネームのように、戸籍名とは別にワーキングネームでも使えば解決できる問題であり、法律を変えるよりも、職場のルールなり業界のルールなりを変える方が、よほど手っ取り早くもある。
ところが、細谷のように「夫婦別姓」をプライベートな問題と規定してしまえば、「夫婦別姓」を求める理由として「姓が変わるとそれ以前の職業上の実績が無視される」ということ自体が「矛盾」だということになってしまう。細谷は、従来の「夫婦別姓」論について、実は何ほども知らないのではないか、とさえ思えてしまうのである。
まず全体の印象からいうと、何の目新しさもないメンズリブそのものの主張であるに過ぎない。部分的に見られる男女共同参画のあり方の提言についても、あまり女性中心的にことを運ばないで…という程度のものであり、一言でいえば「メンズリブとフェミニズムはいかに共闘し得るか」という以上のものにはなっていない。
まず冒頭部分では、新婚生活のスタート時に、男女の「像」を固定的に考えないような生活の提案を女性の側から働きかけるべきだ、という主張をして、それが受け入れられないという話から始まっている。
| こう言っても、すんなり了解してくれるわけではない。男性からそんな話を聞くとは思わなかったという顔つきをされて、理屈はそうだろうけどちょっと違和感がある、という態度を示されることが意外に多い。日々育児にいそしんでいる育児専業主婦たちだからだろうか。 |
汐見本人の意識としては、自分の意識の方が女性である専業主婦よりも進んでいて、彼女達の意識は自分よりも遅れている、といわんばかりである。しかし、これは汐見の「軽率な独善性」とでも呼ぶべきものであって、そもそも男女の「像」がどうのという話とは、まったくの別問題なのである。
こういうことを言われた女性の感じる「違和感」を一言でいえば、「そりゃそうかも知れないけど、なんでウチでどっちがお茶を入れるかまで、他人のアンタに口出しされなきゃならないの?」ということであろう。「男性からそんな話を聞くとは思わなかった」という話ではなく、同じことを女性に言われても「余計なお世話」だと思うのが、普通の感覚ではないだろうか。それこそ、上記の細谷のいう「ウザイ」話として受け取られるだけの話なのだが、汐見は、あくまでもこれを「ジェンダーフリーを理解できるか否か」という視点からしか捉えることができずにいる。
この程度の常識的な反応がわからないのは、汐見に「自分は男だけれども、これだけ女性問題に理解があるぞ」という自負があるからだ。しかし、実はこれこそ「男性としての気負い」に過ぎない。ところが、汐見自身は自分がそういう「気負い」を持っていることにはまったく無自覚で、本人は「自分はススンデル、目覚めている」と思い込んでいる。そして、この無自覚な自己規範を「社会」に投影しては、社会の男性や女性に対する抑圧性を告発を続けるのである。
だが、自分自身が苦しいのは社会が抑圧的だからではなく、汐見自身の中に「かくあらねばならない」という自己規範を抱えているからなのだ。この点に無自覚である限り、一種の強迫神経症のように、不毛で的外れな告発を続けることになる。
さて、汐見は次にエリクソンの「基本的信頼感」という用語を引いて、男性には女性に甘えたい・癒されたいという願望を深層に抱えているのだと説く。一方、社会には、男性は常に強がっていなければならないという「世の男性観」があり、「深層の男女観」と「世の男性観」との二層において、いずれも「そうしたいけれどできない」という葛藤を抱えるのだという。さらに、「深層の男女観」と「世の男性観」とが相容れないものであるという点で、二層間にも葛藤が生じるというわけだ。
汐見の見解では、男性は「深層の男女観」を否定して、女性に甘えるよりも支配することを選ぶという。いわば、「深層の男女観」と「世の男性観」との葛藤をねじれた形で止揚するということであろう。そこで汐見は、男性は自分が甘えたいのだということを認め、女性を支配するよりも、その甘えを認めてもらう方向で「女性との関係を再構築する」ことを提案している。
しかしこの汐見の主張は、前提となる認識も、そこから導き出された提案も、ともに現実離れしたものだと言わざるを得ない。まず「認識」の方からいうと、確かに男性には、女性に甘えたい・癒されたいという願望がある。しかし、それは常に自覚されない形で「深層」にありつづけるようなものでは全然ない。男性同士の会話の中でも、また女性を相手にも、しばしば顔を出すものなのだ。
別の言い方をすると、男性のそのような願望の表出はTPOを選んで行われるものであって、常に無意識下に抑圧され続けているわけでもなければ(男性が24時間365日ストイックであり続けるわけではない)、逆に、常時「垂れ流し」を続けているようなものでもない(常時「女性の豊かな胸に顔を埋めたい」を実践してたら性犯罪と断定されても文句は言えないし、常時言明するだけでもセクハラ扱いされること必至)。
ところが、汐見の主張では、この両極端の内の一方を選択せよと迫るものになっている。もし汐見が、こういうことを真面目に主張せざるを得ないような生活を送ってきたのだとしたら、男性一般に対する的外れな心理分析をするよりも、まず汐見本人がカウンセリングを受ける必要があるのではないかと思う。
このTPOということを、もう少し具体的に言うと、乳幼児でもない限り、人間は誰でもプライベートな側面と社会的な側面とを併せ持っている。そして異性に甘えるというのは、あくまでもプライベートの側面で実践されるべきことであって、たとえば会社のオフィスで「女性の豊かな胸に顔を埋めたい」を実践すべきではないというのが常識である。残念ながら、この汐見という東大大学院教授にはそういう常識がないらしいが、世の大半の男女はそのことを「知っている」はずである。
したがって社会、たとえば職場で「闘い」を要請されそれに適応した勝者が、プライベートな場面では妻や恋人を(あるいは風俗嬢や愛人を ^^;)相手に甘えたり、癒されたりしているということも、いくらでもあるだろうし、このことには何の矛盾もない。これは矛盾ではなく、TPOの違いに過ぎないからだ。「SMクラブで女性に鞭打たれて性的快感を得ようとする会社社長」などという極端な例を出すまでもなく、大半の男性はTPOに応じてそうしているはずではないか。
もちろん、私自身も水商売の「現場」で、男性相手にそれをいくらでも見てきた。もし汐見が、そういう男性一般についての知識を持ち合わせていないのだとしたら、それは彼が、男性の「社会的な側面」しか見ていないということに他ならない。それを男性のすべてだと思っているのなら、息苦しくなって当然だが、そのこと自体が彼の持っている「歪んだ男性観」に基づいているのである。
さらにいえば、男性が女性に甘えや癒しを求めているということには、二重の意味がある。一つは、汐見が言うように「母」としての女性だが、それだけでは男性は(成人男性は)よほどのマザコンでもない限り決して満足しない。セクシャルな意味で「女」としての女性を求めることになる。汐見は、そもそもそのことにも無知なのか、それとも故意に無視しているのか、いずれにしてもこの点に言及していない。
だが女性の側から言えば、「女、時々、母」はよいけれども、「母、時々、女」でいると浮気される可能性が高い(笑)。男性は「母」から離れて「女」を探しに行くような存在であって、時には「母」の元へ帰ってくるけれども、それだけでは決して満足しないからだ。成人男性なら、それは当然であろう。
汐見の提案するように、女性に母を求めよというだけでは、よい関係を構築するどころか、かえって男女の関係は危うくなってしまうだろうし、そのことには必然性があるわけだ。言いかえると、汐見の提案は男女のセクシャリティを無視した上に成立している、ということになる。
| ※ | かつて「純粋下半身問題」に関連して取り上げた伊藤公雄もそうだが、フェミニズムが古くから女性のセクシャリティを取り上げてきたのに対して、メンズリブでは男性のセクシャリティの問題を回避する傾向が見られることは、大変に興味深い。 |
さて、汐見の言うように、確かに人間の「関係」の原型は「母子関係」にあるのが(だからこそ母親による育児が重要なのだが)、そのことは「男女の関係を母子関係に差し戻すべきだ」ということを意味しない。発達心理学において何が出発点であったかということと、成人男女が本来どういうあり方をするものかということとは、まったく別問題だからである。汐見の主張では、この別問題であるはずのことが混同されている。
ちなみに、他にもフロイトの発達心理学を踏まえて「多型倒錯こそが人間の本来の姿だ」という主張があるが、これも汐見と同じ勘違いから生じた主張である。この勘違いをたとえて言えば、「ニワトリは元々はタマゴから生まれるのだから、羽根の生えたニワトリは異常であり、改めて羽根をむしってカラの中に閉じ込めるべきだ」というようなものだ。こういう勘違いをしている人間が、東大大学院で教育学を担当しているというのは、空恐ろしい話だと思わざるを得ない。
また汐見の主張では、「女も甘えたい」ということを、男性のそれと同じに考えてしまっている。「私自身こそ母の乳房が欲しい」(P84下段)と、男女同じく「甘え=母の乳房」と解釈してしまうのである。
これは2つの意味でおかしいと思うが、どちらもセクシャルな面に関しての言及を避けているという点では同じである。まず一つは、女性にとってにの「男性に甘えたい」という気持ちがまったく取り上げられていない。だが、そうすると汐見のいう男女の新しい関係の再構築というのは、男性が女性に甘えるだけの話になってしまう。自分が男性として何かを引き受けるという覚悟がないから、一緒にお茶くらいはいれても、一般の女性を受け入れることが出来ない。
こういう男から見ると、「男性からの自立」をいうフェミニストは、むしろ「都合のいい女」に見えるのかも知れない。それであとは、フェミニスト女性がこちら(汐見)の甘えを受け入れてくれればなぁ…、という話になる。だが、それなら偉そうなことを書いてるヒマに、それこそSMクラブに行って「幼児プレイ」でもしてきたらどうか? どこかの会社社長などを引き合いに出すよりも、「私は最近、SMクラブで幼児プレイにはまっていて、これが楽しくて楽しくて」と、素直に正直に書けばよいのである。あるいはSMクラブではなく、「最近は私も妻に正直に、幼児プレイがしたいと言えるようになって」でもよい。要するに、彼のいう「男はかくあるべし」というのはそういうことなのだから。しかし汐見は、これをあくまでも他人の話として、セクシャリティと切り離した形でしか語ることが出来ないのである。
もう一つは、上と関連するが、男性が「母」ではなく「女」の乳房も欲しいということを、汐見自身が言明できないということ。「母」に関しては恥ずかしがらずに素直に認めて、正直に言おうといっているのに、「女」への欲求は言えない。この「言えない」ということも社会的なバイアスなのだが、汐見は自分自身が何の言明を避けているのか、そのことにはまったく無自覚なのである。
