105.「くん」と「さん」の現象学

神名龍子


 以前に、学校の平等教育のためにの中で、「男女混合名簿」について触れたことがあるが、これに付随しているのが、男子と女子とを一律に「さん」付けで呼ぶという方針である。もちろん、これも性差否定の一環として行なわれていることは疑うまでもない。

 しかし、実際の「くん」や「さん」の使い方を見てみれば、単純に「男は『くん』、女は『さん』」というわけではない、ということに思い当たることも、また事実なのである。そこで、そもそも私達が日常において「くん」や「さん」をどのように使っているのか、それを確認しようというのが、今回の目的である。

 この場合、「くん」や「さん」の語源や歴史的経緯については考えない。「くん」は「君」であって元々は主君の意味だとか、「さん」は「様」の変化したものだとかいうことは、とりあえず脇において考える。あくまでも「私達にとっての今日的な意味」を取り出すことが目的だからである。

 まず「さん」について考えてみる。どういう相手に「さん」をつけて呼んでいるか、自分の経験を振り返って挙げてみよう。地位的に目上の人。年上の人。取引先の相手。あまり親しくない間柄、…といくつか挙げてみると、「さん」というのはやっぱり基本的には敬称なのだということが納得できる。敬称であると同時に、自分と相手との間に距離をおく呼び方だということにも思い当たる。あるいは「あまり親しくない間柄」とあるように、最初から距離があると感じる相手に使うわけだ。

 一方、「くん」はどういう使い方をするかというと、同輩以下の男女、特に男性に対してである。つまり、同級生や後輩、部下などだ。だが、これも少し改まった感じがある。本当に親しい間柄でプライベートな場面であれば、呼び捨てだったり、アダ名でよんだりする。逆に「ちゃん」付けで呼んだりするような間柄でも、少し改まった感じで呼ぶときには「くん」付けで呼ぶこともあり得るだろう。

 つまり「さん」にしても「くん」にしても、自分と相手との関係を表しており、自分が相手をどう見ているかということと、呼びかけるときの状況によって使い分けている。このことを、もう少し詳しく考えてみよう。

 「さん」は相手との距離を置いた呼びかけだと書いた。それに対して、親しみを込めて「〜さん」と呼びかけることもあるではないか、という意見もあるだろう。よくある例は、水商売などで女性が男性客に対して、佐々木さんなら「サーさん」、鈴木さんなら「スーさん」と呼ぶような場合である。でも、これは親しさと距離感と、一見すると相反する「感じ」を込めた呼び方だ。もっと親しみを込めたければ「〜ちゃん」になる。

 このことは『釣りバカ日誌』という漫画を読むと、よくわかる。社長の鈴木一之助という人物は、普段は「スーさん」と呼ばれているが、場合によっては「一之助ちゃん」とか「いっちゃん」と影で呼ばれたりもする。「〜ちゃん」の場合には親しみというより揶揄を込めた呼び方になっていることが多いのだが、それはつまり距離感を取り払って、しかも目下に見ているということだ。人の悪口をいう時には、相手に対してこういう見方になっているという、その感じがよく出ている。

 ところで、「序列意識」について考えてみよう。一般に序列意識が強いのは男性のほうである。小学校に入って誰がケンカが強いかを試してみたりするのも、必ず男の子なのだ。そして男の子は、だいたい思春期くらいまでは女子を自分よりも下に見る傾向がある。

 その傾向が思春期になってすぐになくなるわけではないが、異性に関心が出てくると、単に腕力的「強さ」を前面に出して自分が上位に立とうとしてもだめだということを、少しずつ学習してゆく。個人差はあるが、女性を尊重することを覚えて行く。ここに女性を「さん」付けで呼ぶ動機が生まれる。

 一方、女子同士の場合には最初から「さん」や「ちゃん」で呼び合う。女性が女性を「くん」で呼ぶことはほとんどない。なぜかというと女性は、内心はともかくとしても(笑)、仲よしの「形式」を作ることには天才的だからだ。逆にいうと、男性なら気にしないような、ちょっとしたことで仲間はずれを恐れるのも女性なのである。学校での先輩・後輩は別にして、クラスの中では横ベッタリの関係を作ったりする。

 繰り返し書いておくが、内心は別問題であるから、しばしば暗闘は生じるだろう。だが、形式的には基本的に横並びの関係を作ることが多い。しかも相手を尊重し合う形でそれを作る。だから「さん」で呼び合うことが多くなる。昔の大奥だって、裏でどんな暗闘があっても表向きは、「××の局さま、ご機嫌うるわしゅう」「これは○○の方様…」とかやってたわけで、少し意地悪くいえば、それが今でも形を変えて続いていると思えばよい。

 しかし、男子が同級生を「さん」付けで呼んだら、相手がケンカの強い不良で、自分がその「パシリ」をしているような気分になるだろう。たとえ女子に「さん」を付けても、男子には付けないのが普通である。なぜかというと、男子の序列意識は「男子の序列」の意識であって、そこに女子は組み込まれていないからだ。だから男子が女子を「さん」付けで呼んでも、男子の同級生に対するほどの心理的抵抗は生じない。

 もし、この時に生じる心理的抵抗があるとしたら、それは序列意識に由来する抵抗というよりも、女性に関心を持って「彼女」を尊重することへの気恥ずかしさの方に原因がある。たとえ2人きりなら「さん」付けで呼べても、そこに誰か同級生が居合わせたら照れくさい、というのも「ありがち」な心情ではないだろうか。

 したがって、少なくとも思春期以降は、必ずしも女子全体が男子全体の下位に位置しているということはない。そうではなくて、男子と女子とでは、その序列付けの基準が異なるのである。男子が女子につける序列というのは、美人だとか、性格がいいとか、頭がいいとか、そういうことで決まる。しかも女性に対する好みが分かれるために、いわゆる「掃き溜めに鶴」のような状況でもない限り、大まかな序列はついても、男子自身ほどに厳密な序列はつかないのが普通であろう。

 およそ、このような男子と女子のありようの違いが、学校における「さん」と「くん」の使い方の違いを形成して行くのだと考えられる。したがって、そもそも性差を認めない立場からすれば「さん」と「くん」の区別も否定するのは当然であろう。しかし、ここに述べたような性差のありよう、つまり男女のあり方の違いというものは、現実に存在するのである。

 皆さんもそれぞれ自分の中学・高校時代、あるいは現在の経験を振り返ってみてほしい。私がここに書いたことと100%は一致しないかも知れないが、この男女のありように違いについて、思い当たることもあるのではないかと思う。各人の経験を擦り合わせて行けば、さらに共有度の高い見解が得られるだろうが、それは「男女に違いはない」という結論には決してならないはずだ。

 こういう男女のあり方の違いが「くん」と「さん」の区別を形成しているのであって、「くん」と「さん」の呼び分けが男女の性差を作っているわけでは、全然ない。フェミニストの現在の言い分では、言語が意識を形成し、人間にとっての「現実」を形成するのだというが、それは間違いだ。この場合もやはり、男女それぞれにとっての必要・関心が「現実」を形成し、その「現実」を生きる上で便利なように言語を形成していると見るべきなのである。

 男子を「さん」で呼んだからといって男子の序列意識がなくなるわけではないし、女子を「くん」で呼んだからといって、仲良しの形式を作ることをやめもしないだろう。もちろん、これが「人権」の問題などではないことは明らかだ。

 むしろ男女の関係にとって大切なことは、ここに述べたような(あるいはそれ以外の)男女の違いを充分にわきまえて、この違いに由来するような不幸なすれ違いを少しでもなくしてゆくこと、性差に由来するエロス(よい感じ)を両性が享受できるような条件を考えること、そして、それを実現して行くということに尽きるのである。


 このような考察に対して、素朴な伝統主義者の中には、違和感を覚える人もいるかもしれない。「常識」や「社会通念」についてきちんと議論することは無用であり、かえって、素朴な感覚を持つ一般庶民を遠ざけてしまうことになるのではないか。そういう意見もある。  私は常識や社会通念を持ち出すことを否定しないし、それはむしろ重要だとさえ思っている。ただし私の考えでは、「常識」や「社会通念」は一般に思われているほど自明のことではない、ということが問題なのだ。

 このことには、さしあたって2つの側面がある。まずひとつは言うまでもなく、フェミニストが「常識」や「社会通念」を否定・相対化しようとしているということだ。もうひとつは、「常識」や「社会通念」はそれが「常識」であるがゆえに深く考えられることが少なく、改めて説明しようとすると上手く言葉に出来ない、ということである。後者の問題があるために、前者の問題にも上手く対応できない、というのが現在の状況なのではないか。

 「常識」というのは、自分の中ではわかりきったものとして存在している。ところがそれを否定・相対化しようとする者が出てくると、その「ひねくれ者」に対して上手く説明することが出来ない。本当なら説明の必要などないはずのことなのに、説明する必要が生じてしまい、しかも上手く説明できないために苛立ちがつのる。これは当然の反応であろう。

 この場合にどういう対処法があるかというと、そんな「ひねくれ者」は放っておけばよい、という意見もある。たとえば、モンテーニュという16世紀の思想家がこんなことを言っている。

ハムは飲みたくさせる。飲めば渇きが癒される。故にハムは渇きを癒す。もし若者がこんなことを言い出したら、相手にしないのが賢明である。

(『エセー』)

 しかし、これでは済まずに無視できない問題に発展してしまったというのが、現在の危機的状況であろう。放置しておくことが出来ないと思った以上、何かをしなければならない。この「〜ねばならない」は、誰かが私達に命令してそうさせるというのではなく、自発的にそう思っている。ではどうすればよいかといえば、まずは「常識を確かめ直す」ということが不可避なのだ。

 私の考えでは、常識を確かめ直すということは、単に「昔からそうだったから」と主張することでもなければ、「昔からそうだった」ことを示す資料を提示することでもない。

 そうではなくて、常識の今日的な「意味」や「価値」を取り出す作業のことだ。それは学問の知見から取り出すものではなく、私達の日常経験から取り出すものであり、その日常を生きる私達の内面から取り出すものなのである(そうやって取り出したものが「学問」の知見として蓄積されるべきなのであって、逆ではない。この点フェミニズムは明らかには顛倒しているが、そういうものに「女性学」や「ジェンダー学」という名が冠されていても、それを本当の学問だと考えるべきではない)。

 その上で、「やっぱり私達は常識をこれこれのものとして生きているし、日常生活の中でその価値を認めている」ということを確かめ合うことが必要なのだ。どんなに迂遠なようでも、これは不可避な作業だし、フェミニズム対策だけでなく、子供の教育などを考える上でも有効だと思う。

 こうやって常識の「意味」や「価値」を確かめなければ、常識や伝統というものは、その意味が忘れられ、いくらでも形骸化する。常識や伝統の「意味」や「価値」を考えず、「形式」的にだけ守り続ければよいという考えの持ち主は、むしろ「形骸化という文化破壊」の推進者とみなされるべきであろう。

L.Jin-na


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