神名龍子
1.T's の語られ方
1970年代に支持を失った左翼運動は、その後「反戦」「平和」「人権」「平等」「反差別」など、それ自体としては誰も反対できないような「正しい」理想理念を掲げることで、その存在意義を保っている。
| ※ | この左翼の没落の理由は大きく2つ。一つは極左による、内ゲバ、リンチ殺人、一般人を巻き込んでの爆弾闘争などによって大衆の支持を失ったこと。もう一つは、高度成長期を経て貧困が社会問題ではなくなり、マルクス主義が説得力を失ったこと。 |
左派の言説におけるセクシャルマイノリティの取り上げ方も、基本的にはこの方針に準じて「人権」や「反差別」等の文脈で扱われる。左派によるこれらの言説は「反権力」をその背景とする。この場合の権力批判は、マルクス主義型と、フーコーの権力図式を前提にしたものとに大別される。いずれの権力批判の範型を採る場合も、セクシャルマイノリティは「権力」に抑圧されいる、解放されるべき存在として語られる。
| ※ | 「マルクス主義型の権力図式」とは、一握りの悪いやつが権力を握っていて、それが善良な人民を抑圧しているというもの。それに対して「フーコーの権力図式」では、特定の「権力者」は存在せず、権力を「主体間の相互作用」と見る。たとえば同性愛差別は、必ずしも特定の「権力者」が「同性愛者を差別しろ」と命令することによって起こるものではなく、多くの場合、主体(個人)の一人ひとりが同性愛に対する罪悪視が内面化していていることによる。 |
したがってこの種の言説を前提とする場合には、国家またはマジョリティを相手の対立図式が自明の前提として置かれ、必然的に告発・糾弾を手段とする「対抗主義」になる。
フェミニズムによる性別の相対化ないし否定にも利用されることもある。同性愛であれ性同一性障害であれ、セクシャルマイノリティの大半のカテゴリーは男女の区別を前提としているため、実はフェミニズムの理論とは本質的に相容れない存在である。しかしフェミニストは、90年代に上野千鶴子が軽く触れているのを除けば、大半がこの事実から目をそらしている。
保守派の言説には、既存の事実に依存した伝統主義を採りがちなために、左派の言説に比べて物事を分析する眼差しが浅くなり勝ちな傾向がある。
性やセクシャルマイノリティに対する認識も浅く、そのためにセクシャルマイノリティに対しても独自の視点を持たず、左派の言説を鵜呑みにして「性別を相対化する存在」だと認識していることが多い。
しかし、このような事例の多くは、セクシャルマイノリティに接する機会を持たないことに由来する無理解や偏見による。そのため説明を誤らなければ理解を得られる可能性が開かれている。
| ※ | ただし、「保守」を名乗る中には、単に自分の既存の世界観にないものを受け付けないというだけの人間もいる。彼らの言説は、自分の世界観を守るための直観補強に過ぎず、それに反するもの一切に耳を貸さないという態度を示すため、いかなる「説明」も無駄である。しかし、このような「石頭」は「保守」のごく一部を占めるに過ぎない。 |
セクシャルマイノリティが政治的・思想的な形をとって自らを語る場合、しばしば「対抗主義」の範型を踏襲しやすい。その理由は、セクシャルマイノリティを肯定的に語る言説がほとんど左派から出ていることと、セクシャルマイノリティが不遇感を抱えているため。単にメディアが問題設定をするというのではなく、それを受け止める側にも「対抗主義」を取りやすい心情が用意されているということ。
人間が、何らかの理由で挫折して、それを乗り越えられない場合にとる態度の基本形は三つ。プラトニズム、シニシズム、ルサンチマン(恨み、嫉妬、攻撃性等)。プラトニズムは、挫折を絶対的なもの(超越項)で打ち消すこと。シニシズムは、関係性を放棄して自意識を守ること。ルサンチマンは、心の傷を他者への攻撃性に転化すること。これらはいずれも「対抗主義」に含まれている態度だが、自分の気持ちが腐って他人との開かれた関係が取れなくなる。何かしら問題に突き当たった場合には、このような状態に陥っていないかどうか、常に自己点検が必要。なお、ルサンチマンにはもう一つ「価値観の転倒」という特徴がある。
また、自らを「性別を相対化する存在」と規定してしまうと、かえって自己否定になってしまう。たとえば、同性愛者と異性愛者とでは、性愛の相手に異性を選ぶか同性を選ぶかの違いはあっても、どちらも男女の区別を前提としている点では同じ。また性同一性障害の当事者が「自分は男(女)ではなく女(男)だ」と主張することも、男女が異なる存在であることを前提としている。
性同一性障害では、当事者が現在かかえている問題の性質上、医療と法制度の問題に話題が集中する。そのため相変わらず「対抗主義」的言説が存続する一方で、具体的な問題提起や議論も多い。
TGやTVでも、一部に「対抗主義」的言説が存続するが、それ以外では政治的無関心であることが多い。法制度等に関わる問題がほとんどなく、それなりにやってゆけるという感覚も強い。
同性愛者も、政治的主張をする者は多数を占めているわけではない。また、政治的主張をする場合でも、「反差別」では一致するものの、具体的な主張では統一が取れない。たとえば、同性婚の実現を主張するものがいる一方で、婚姻制度廃止を主張するものもいる。著名な現代思想家・フーコーの影響を最も多く受けているのも、このカテゴリーの特徴で、そのために相対主義に偏り勝ち。
各カテゴリーがこのような状況にあるために、「マイノリティの連帯」という考えは「対抗主義」の中に理念的に存在するのみで、ほとんど実体を持たず、セクシャルマイノリティのカテゴリーの分化は、ますます進んでゆくと考えられる。
2.足元から立ちあげる思想へ
セクシャルマイノリティが自らを語る場合、それは自分が抱える問題を解決するためであって、単なる不満の表明では事態が解決に向かわない。また社会背景の異なる欧米の理論が、必ずしも自分達の問題を解決するとは限らない。たとえば同性愛はキリスト教社会では宗教的な罪悪であり、そのためにヘイトクライムが社会問題となるが、日本で暮らすセクシャルマイノリティには、そのような問題はほとんど存在しない。
セクシャルマイノリティの諸問題の解決のためには、マジョリティからの理解が必要。「対抗主義」では理想理念や罪悪感強迫を用いるが、これは自分達に都合のよい「真理」の押し付けに過ぎない。しかし自分達こそが「真理」を握っているという自己特権化は、そもそも問題解決の前提である「平等」理念に反する。
罪悪感強迫とは、「こんなに気の毒な人がいるのに何とも思わないのか」等といって罪障感を押し付けること。それによって自説に賛同させたり、協力を強制する行為。独善的な人間は、このような不当な行為も許されると、自分に都合よく解釈してしまい勝ちである。
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真に必要なことは、まずマジョリティとマイノリティの共通点を探し出し、それを議論の出発点とすること。そのためには自分達の特殊性を強調するのではなく、自己の在りようを深く内省して掘り下げる必要がある。「セクシャルマイノリティのことは、セクシャルマイノリティである自分は当然、最もよく知っている」という驕りや「当事者主義」を捨てること。世の中には様々な立場の「当事者」がおり、「当事者主義」には「多様な当事者」間の利害調停の原理がない。もちろん、当事者の声〈も〉聞きましょう、ということは必要だが、これを当事者の特権化と混同してはならない。
問題のキーワードとなるような概念の、意味本質を取り出す(本質観取)ことも重要。たとえば性同一性障害の当事者が考える「女性」と、マジョリティが考える「女性」とが、まったく別の「意味」を持つ概念であるはずがない。また、同性婚の実現を考える場合にも、「家族」概念を相対化するのではなく、むしろ積極的に「家族」の意味本質を抽出してみる。世界には様々な形で「家族」が存在しており、その態様の多様性については否定しようがないが、しかし「家族」には、そのいずれの態様にも共通する性質がある。
「真理」「客観」「絶対性」等の概念を廃棄して「普遍性」を考える。普遍性とは、多様性から抽出された共通項。たとえば神話的な世界説明が、自然科学的な思考に置き換えられるとき、普遍性が現われる(自然科学的説明を見て、説明が普遍的になったと考える)。「絶対性」と「普遍性」の区別は、普遍洞察性(確かめ直しの筋道が開かれていること)の有無。
「差別」について。差別とは、「相手をカテゴライズして、そのカテゴリーに不当に劣位の価値付けをすることで相手を貶め、相対的に自分を高めることでアイデンティティ補償をする行為」。差別はあらゆる差異を利用して行なわれるが、差異が差別の本質なのではない。差別の本質はその動機(アイデンティティ補償)にある。
差別の問題も、「対抗主義」にかかるとすべてが告発・糾弾へと収斂してゆく。文脈を考えない「差別語狩り」もその一つ。穏やかな「説明」や「申し入れ」で済むものもすべて「抗議」になってしまう。しかしこれは間違い。セクシャルマイノリティを扱うことが、マスコミ等においてタブー化し、かえって社会に理解を求めることが困難になってしまう。
「差別された者にしか痛みはわからない」というのも、やはり差別問題の「囲い込み」にしかならない。この言説は「善=被差別者、悪=差別者」という単純な二元論を前提としているが、実は差別をされる側も「不当な劣位の価値付け」を共有している。たとえば、使用される文脈に関係なく「オカマ」という語に「痛み」を感じるとすれば、差別される側も「オカマ=価値の低いもの」という価値観を、差別者と共有している証拠である。しかし「対抗主義」では、「善=被差別者、悪=差別者」という図式に則って「悪=差別者」のみを問題視するため、自分がどのような価値観を持っているかということの自己点検が行なわれない。そのために、被差別者と差別者との共犯構造に気がつかない。差別される側が、自分の内面にかかえる劣等感に気付き、克服してゆく努力も必要。
3.用語集
4.参考図書
