109.「父性」について

神名龍子


 「父性」とは何か、ということを考える場合、まず注意しなければならないことは、あらかじめ「本質主義/構築主義」の二分法を置いて考えることの愚かさでである。

 「父性」があらかじめ生物学的にセットされていると考えることも、生物学的条件とは無関係な純粋構築物と考えることも、それぞれ両極端な憶見(ドクサ)の産物に過ぎない。まずは、このドクサを排して考えなければならない。現在のフェミニズムがは「本質主義/構築主義」の二分法の上に成立している以上、このような考え方は、フェミニストからは嫌われるだろうが、しかしそれを恐れて誤りを共有することには、何の意味もない。

 議論になる「父性」とは、しばしば林道義氏の「父性」論である。その背景にあるのはユング心理学なのだろうが、もちろん「父性」それ自体は、ユングを知らなければ語れないというものではない。ここではフロイトの発達論を持ち出してみる。ただし、性エネルギー(リビドー)一辺倒の解釈ではなく、あくまでも精神の発達段階を、性愛に限らない「関係性のエロス」の中で捉えてゆく(なお、以下に述べる発達論は精神科医・滝川一廣氏のご教示に拠るが、文責は神名龍子にある)。

 最初の「口唇期」(0歳代)で二人関係の心的世界の芯みたいなもの、「こころ」の中核になるものが育まれる。この段階では「二人関係」はまだ明確な形をとらず、むしろ自他の(=母子の)一体感という形をとる。なぜこれが「口唇期」かというと、授乳がこの一体関係を象徴するからだ。授乳というのは単なる物質的な栄養補給ではなく、母親から「安心感」という心的栄養を与える行為でもある(したがって、この「快」を性的快感に限定して解釈する必要はない)。

 次の「肛門期」(1〜2歳代)で、その「こころ」の世界が社会的規範や文化規範に向かって開かれてゆく。つまりこの頃から徐々に「しつけ」というものが開始され、いわゆる「トイレットトレーニング」というのはこの「初期のしつけ」の典型である。この時期は「口唇期」よりも明確な形をとる二人関係の世界で、その都度の「自分と相手」の関係は認識できる。つまり「自他」の認識は出来るのだが、他者同士の関係についての認識はまだ弱い段階である。

 「男根期」(2〜3歳代)に入ると、自分とは何かというアイデンティティの問題や、三人関係、つまり社会的な人間関係の世界へと「こころ」が開かれ始める。この段階において他者同士の関係を認識できるようになる。二人関係の世界というのは、自分を中心として、そこから個々の他者へ線を引くような、放射線状の世界だった。しかし、他者同士の関係が認識できるようになると、この放射線状の世界は、「人間関係の網の目」の世界へと変化する。

 これを象徴するのが、二人関係の原型である母子関係への父親の参入である。もちろん子供はそれまでにも「自分と父親」という二人関係上の認識は持っている。しかしこの段階では、「父親」が自分にとっての父親であるだけでなく、母にとっての「何か」だということがわかる。これが他者同士の関係が認識できるということだ。同じように、上に兄弟がいれば、母親は自分にとっての「母親」であるだけでなく、「おにいちゃん」にとっての「母親」でもあるということもわかるようになってくる。

 アイデンティティの形成も、このような「人間の網の目の世界」の認識を前提とする。自分が何であるかということは、この「人間の網の目の世界」の中での自分の位置を見出すということだからである

 したがって「わが子に社会的規範を教える」ということを、単に「社会的ルールの教育」という意味に矮小化して論じるべきではない。まず、それに先だって社会が「人間の網の目の世界」であることを子供に認識させる必要がある。「父性」の根源(生物学的根源や歴史的根源ではなく、個々の発達段階における初登場)は、その社会認識のきっかけを与えるということにある。

 このきっかけを与える「仕事」は、子供と一体関係を作っていた母親には困難だ。不可能とはいわないが、「自己」と「母親」以外の第三者が登場する方がわかりやすい。認識主体が3歳前後の子供であれば、この「わかりやすさ」ということが大切なのであって、大人の屁理屈で作り出した代替物などは最初から論外であろう。

 いうまでもないことだが、この構造は、母親の高学歴化や社会進出とは関係がない。そもそも社会規範は、外に働きに出る者や高学歴者の独占物などではない。その理由は簡単で、上に述べたことは男子と女子とを問わない発達段階の話だからである。もし専業主婦が社会規範を持たないというとしたら、「彼女」は二人関係から先に進んでいないということを証明しなければならないだろう。

もし仮にそれが証明できたとしても、専業主婦に対して「外に出て働け」というフェミニストの主張、それ自体が「無理な注文」でしかないという話になってしまう。

 話を戻すと、「父性」が本能であるかどうかということを棚上げして考えるとしても、母親が「生む性」であるということは否定できない。そうである以上、母子一体関係(やそこから発達した二人関係)に参入して三人関係を形成する(その契機となる)役割は、父親に回ってくることは自然の成り行きである。もちろん例外は認めるとしても、「例外」を議論の中でこっそり「一般化」することで成立するような相対論には、意味がない。

 ここで「父性」とは何かということを、ごく簡単に述べておけば、「父性」とは子供の発達段階上に必要な上記の「役割」であり、その「役割」を果たすために必要な「能力」をも含む概念であるといえる。

 仮に「父性」が全く後天的なものだとしても、それは、ここまで述べてきたような与件を前提として成立するのであり、父親が自分に与えられた役割(当為としての役割ではなく、成り行きによって与えられた役割)を、いかによく果たすかという工夫の産物として「父性」は成立することになる。

 もちろん、個々の父親を見れば、子供の養育に適さぬ「ダメオヤジ」も存在するだろう。むしろ、それだからこそ「父親の在りかた」として、あれはいい、これはだめだという意見のすり合わせが行なわれるようになり、価値判断が共有されることによって、それぞれの社会(共同体)なりの「父親の在りかたの像」が成立・共有されることになる。

 もちろん「父親の在りかた=父性」の内容には、時代や文化の違いによる異同は生じるだろう。しかし子供の発達段階や、「生む性」が母親であって父親ではないなど、与件が共通しているという事実を無視することはできない。また、子供の養育の最終的な目的が、子供を社会の一員とすることだということも普遍的であり、そのために「父性」が、社会ごとに「完全に異なる」内容を持つものとして成立する道理もない。

ここでいう「社会」とは、へーゲルのいう「市民社会」のような「家族」から区別された経済活動の領域という意味ではなく、もっと広い意味で「人間が秩序をもって集団的に生きている在りかた」というほどの意味。「家族」も含まれる広義の「社会」である。

 したがって「父性」においては、すべての女性が「生む性」であることをやめたり、「家族」という在り方を否定して完全なる育児の社会化を実現するのでない限り、文化の差異を超えた共通本質が生じざるを得ない

 ちなみに、『間違えるな、日本人!』という、林道義氏と小浜逸郎氏との対談本の中で「本能」という言葉を使うかどうかという話があった。私は、これについては小浜氏の意見に賛成で、あえて「本能」その他の「本質主義」とみなされかねない前提を置かずに考えることにしている。しかし結論としては、おそらくはそう変わらないだろう。

 林氏は「父性」について、次の5点を挙げている。

  1. まとめ上げる力
  2. 理念、文化の継承
  3. 全体的・客観的視点
  4. 指導力

まず「エロス」という語の説明を経た後、特にこの内の1番目と2番目に検討を加えてゆくことにする。


「エロス」についての説明

 さらに話を続けるに当たって、用語についての説明を述べておかなくてはならない。林氏はユング心理学をベースに「父性」論を展開するのだが、その中に「ロゴス」と「エロス」という言葉が出てくる。私もしばしば「エロス」という語は使うのだが、林氏と私とでは「エロス」という語の意味が異なっている。したがって、まずそれぞれの意味の違いを明らかにしておく必要があるだろう。

 林氏の解説によるユングの「エロス」は、『心のしくみを探る ユング心理学入門U』(林道義著・PHP新書、P127〜132)に明らかである。私なりにまとめていうと、まずユングでは「エロス」は「ロゴス」の対概念になっている。その「ロゴス」は単に「言語」というだけではなく、「論理」「言語」「理性」「思考」等の分野に関わることで、「合理的な秩序の世界」や「約束事の世界」という意味に説明されている。

 また「ロゴス」の世界は「意味の世界」でもあり、これを私なりに言えば、「分節された世界」であり、その分節に基づく諸概念が相互に関係付けられることで成立・維持される世界だと言えるだろう(大部分の世界観がこれに当てはまる)。

 それに対して、「エロス」は「愛の原理」と説明され、人と関係付けてゆく「関係付けの原理」とも書かれている。この「愛」というのは「親子愛」「異性愛」「同性愛」「夫婦愛」が例示されているが(つまり単なる「性愛」とか「恋愛」というよりも幅広く捉えられている)、その最大の特徴を「境界がなくなること」としている。つまり「ロゴス」が分節原理であるのに対して「エロス」は一体化の原理だということだろう。

 一方、私がよく使っている「エロス」は、およそ竹田青嗣氏のエロス論に倣っている。「エロス」とは、人間が対象(この対象は人間に限らない)から受け取る「よい」であり、その対象を引き付けたい、あるいは近寄りたいと思わせる性質をいう。この「引き付けたい」「近寄りたい」とは、要するに「欲望」である。もちろん負の「エロス」とでもいうべき、「遠ざけたい」「遠ざかりたい」(これも「欲望」である)と思わせるような対象も存在する。つまり人間の精神に対して「引力」や「斥力」を及ぼすような性質といってもよいのだが、通常は「引力」を感じさせるような正のエロスを「エロス」と呼んでいる。

 「ユング・エロス」との大きな違いは、「竹田・エロス」は「ロゴス」の対概念ではないということだろう。「竹田・エロス」は「ロゴス」の基礎をなす世界(観)原理である。つまり世界分節の根本はエロス原理であり、「エロス」の正負およびその大きさからなる「遠近法」が世界分節の根源になっていると考える。したがって「はじめに言葉(ロゴス)ありき」という考え方を採らない。このことをもっと簡単に言えば、世界分節は「必要・関心」に応じて(つまり欲望相関的に)なされるということなのである。

 この考え方の特徴は、非常に射程を大きくとることが可能な原理だという点にある。もちろん、人間関係について考えることも可能だが、それも含めて人間の実存的な、対世界的な問題をすべて説明できるということだ。もちろん、言語について考えることも出来る。そもそも「はじめに言葉(ロゴス)ありき」の発想では、言語について解明することは不可能であり、欧米の言語論が必ずパラドクスに陥るのも、ひとつにはこのためである。

 ついでに他の例もいくつか挙げておくと、小浜逸郎氏の「エロス」概念の特徴は、ほぼ「竹田・エロス」と同様でありながら、その対象を人間に限定するという点では「ユング・エロス」と共通しているという点にある。したがって「小浜・エロス」では、たとえば茶碗を見て美しさを感じるとしても、その感性の根源を過去の人間関係(たとえば幼い頃の母親との関係等)に求めることになる。

 ただし、これは「竹田・エロス」でも同じことだ。「竹田・エロス」は非常に幅を広く取っているために、人間以外にも通用する。極端にいえば、アメーバが明るいところや乾いた場所を嫌い、湿った暗所を好むということも、「明暗」や「乾湿」がアメーバにとっての「好悪」や「快苦」と関連する「アメーバの世界観」を構成すると考える。どんな動物にも「快苦」がある以上、それぞれの動物ごとのエロス的世界像があると考えられるわけだ。

 これら人間以外の動物がただ身体的な快感原則を持つのに対して、人間は他の動物にはない「真善美」といった価値体系を持つ。このことが、人間の世界像に、他の動物とは異なる原理を持ち込み、複雑な世界像を持たせる理由になっている。そして、たとえば「美」のエロスについていえば、「小浜・エロス」とそう変わらない考え方になっている。

 また、フロイトの「エロス」も有名で、これは「タナトス」との対概念である。簡単にいうと「フロイト・エロス」は生の本能であり、「タナトス」は死(破壊)への本能(衝動)ということになっている。このように「エロス」概念の意味は、同じ深層心理学という枠組の中でさえ、ユングとフロイトとでも、全く異なるのだ。ここに挙げた、ユング、フロイト、竹田青嗣、小浜逸郎といった人たちの他にも、プラトンやバタイユなどが、それぞれの意味で「エロス」という語を用いている。


1.まとめ上げる力

 この「まとめ上げる力」とは、「家族を統合する力」である。林氏は、「父性」を「ロゴス」に、「母性」を「エロス」に対応させて記述することが多いので、そこから誤解が生じることになる。「家族」はエロス的な結合なのだから、「家族を統合する力」を「父性」に含めるのはおかしいのではないか、という指摘がそれである。

 私の考えでは、確かに「エロス」は家族的結合に不可欠な「動機」ではあるが、しかし、結合を維持するのに「エロス」だけでは足りない。そこに「ロゴス」の必要性が生じるのである。

 林氏によれば、「ロゴス」の説明に「論理」「言語」「理性」「思考」…とあるのだから、その対概念としての「エロス」は、「理性」の対概念である「感情」をその本質の内に含むと考えられる。「愛」における一体化とは、「愛」という感情に身を任せることに他ならず(つまり「理性による止揚」ではなく)、このような性質を指して、ユングは「エロス=愛」を女性的と捉えたのだろう。

 しかし「家族の統合」は、このような感情任せでは、必ずしも成功しない。それは「理性」や「思考」の働きを必要とするものであり、この点で「愛」とは区別され、父性の性質として考えられているのかと思う。もちろん、

父性については、基本的には父も母も両方が持たなければならない。どちらかが一方的に担うべきものとは考えていない。

(『父性の復権』p207)

ということを裏返して考えれば、男性もまた「愛」という感情を持つことは否定されているわけではないだろう。したがって「夫婦愛」とは、夫婦たる男女が互いに愛し合い一体化することをいう。しかしながら、双方がただ感情のおもむくままに一体化していれば自動的に「家族の統合」が成立するというわけではなく、その維持のために「理性」や「思考」の働きを必要とする。このことは「愛」と矛盾するものではなく、むしろ「愛」を補い、維持するものだと考えるべきであろう。

 そう考えなければ、そもそも男女の結合ということが矛盾なのだという話になってしまう。不幸にして争い合う男女も現実に存在することは私も認めるが、男女は対立することが本質的なのではなく、補い合うことのできるような存在であり、「ロゴス」と「エロス」についても、私は同様に考えるべきかと思う(この「エロス」と「ロゴス」の調和については、ユングがどう考えていたのか私は知らないが、彼の「マンダラ」を見る限り、両者を調和不可能な対立的原理とは考えていなかっただろうと推察できる)。

 このことは「親子愛」についても同様であり、むしろ説明の例としてはこの方がわかりやすいかと思う。つまり、父親も母親も子供を愛するという点では同様であっても、子供との接し方に違いが出るということだ。母性が子供に「エロス=愛=一体化」をもって接するのに対して、父親はそこに「理性」や「思考」を介在させる。そのために、子供が悪い事をした時に、子供をかばう母親と、子供を厳しく叱る父親という、一つの「典型」が成立するわけだ。

ここでいう「典型」とは、社会学でいうところの「理念型」のようなものであって、すべての家庭に無条件に当てはまる「普遍的法則」であるということを意味しない。ただ、上にフロイトを引いて述べたように、母子が一体関係から始まり、父親がそこに介在するような存在である以上、現実においてもこのような例は(その逆の例よりも)多く見られるのである。そのことに、このような「理念型」(モデル)を置くことの根拠と意義があると考えらる。

 この場合、子供をかばう母親とは、子供に対する「エロス=愛=一体化」に身を任せている存在であり、子供を厳しく叱る父親は、そのような「愛」に身を任せることを中断して「ロゴス=社会の秩序や約束事の世界」の視点から子供に接する存在であるといえるだろう。

 しかし、このような父親の態度も、純粋に社会的な(つまり家庭の外側の社会の)立場にあるわけではない。子供に対する無関心や、負の「愛」(=憎悪)からではなく、子供に対する「愛」ゆえに叱るのである。無関心なら放置するだろうし、憎悪なら「叱る」ではなく「怒る・責める」になる。

 同様に「家族の統合」も、単に「愛」の感情に身を任せるのではないという反面、純粋に制度・秩序の維持という純「ロゴス」的な態度によっても成立しない。

 別のいい方をすれば、単純に「父性=ロゴス」、「母性=エロス」と解釈してはならない、ということである。「父性」も「母性」も、いわば「エロス」と「ロゴス」の混合物であり、ただ現実の場面にあって、父親は「ロゴス」的側面が強く出るような存在だということ、もしくは、そのような存在であることが望ましいということが含意されているのだろう。「ロゴス」にしても「エロス」にしても、どちらか一方の性が独占的に担うものではなく、「どちらかといえば父親(母親)の性質だ」という程度に解釈した方がよいように思う。

 「父」も「母」も「親」である以上、子への「愛」を持つという点では同じことであり、もし子への「愛」が含まれないのだとしたら、「父」や「母」という表現は必要とされないだろう。ただ「男/女」とか「ロゴス/エロス」と言えばよいのであって、それとは別に「父/母」を持ち出す必要はないはずなのだ。

 「父性」は「ロゴス」を必須条件として成立するが、「ロゴス」だけで成立するというものでは、全然ない。「父性」に「愛」が含まれていることは、「父性」が親の性質として語られている以上は当然であり、むしろ「愛」の含まれない「父性」などは語義矛盾でしかない。

 私の理解では「父性」も「母性」も、「エロス」と「ロゴス」の混合物だという点では同じであり、しかしながらその混合比の違いのために、異なる行為が生じるような原理として語られている。

 さらに述べておけば、「父性」や「母性」の危機とは、要するにこの混合比の変化である。「エロス」の比率が増せば(その分だけ「ロゴス」が減少すれば)「父性」は「父性」ではなくなり、「子供を叱ることのできない父親」が生じるだろう。母親に「エロス」が欠如すれば「母性」を持ち合わせない母親になる。また、もし「エロス」と「ロゴス」の双方を欠くならば、これは「父」とか「母」という以前の問題であり、「親」として失格である。

 もちろん、このことは「竹田・エロス」の観点からも同様である。すべてをエロス原理で説明するエロス論・欲望論の立場からいっても、やはり「父」も「母」も子に対してエロス(よい)を感受する。そして、この観点からの「父性」と「母性」の違いとは、射程の遠近の違いということなのだ。

 林氏のいう「母性」が子に対する一体感から「いま・ここ」のエロス(よい)を重視する態度であるのに対し、「父性」とは「いま・ここ」でのエロス(よい)の享受を一時我慢して、子の将来を考えて「叱る」という行為をとる態度のことだと考えられる。

 これに対して、次のような疑問を持つ人もいるかもしれない。「父性」も「母性」も、「エロス」と「ロゴス」の混合物であり、また、父親と母親の両方がそれぞれ「父性」も「母性」も持つべきだというのは、どういうことなのか。それでは、父親と母親は、同じものを持つことになってしまうのだから、父母の間には差がないということになるのではないか、と。

 この疑問は、おそらく「父性」や「母性」を、何か実体的な存在物としてイメージしていることから生じているのである。しかし私の解釈では、父親も母親も「父性」と「母性」の両方を持て、というのは、時と場合に応じて「ロゴス」と「エロス」の混合比を変えろ、ということに他ならない。「ロゴス」の比率が高い状態を「父性」、「エロス」の比率が高い状態を「母性」と呼んで、その混合比の違いが、様々な働きの違いになって表れますよ、だから必要に応じて混合比を変えなければダメですよ、ということなのだ。

 このことを、別の言い方で考えてみよう。

 子供の発達段階としては母子関係が最初だから、まず母親から考える。子供が生まれてまず最初の母子一体感が、ユングの用語でいう「エロス」だということは、異論はないと思う。しかし、母子はいつまでも一体であるわけにはいかない。母子関係は一体感から「二人関係」へと進み、さらに「三人関係」の段階へと進むために父親の介在が必要になる。この「三人関係」の認識はさらに複雑化して、子供は世界が「人間の関係の網の目」であることを知るようになる。

 ここまでを整理すれば、「エロス」が母親の態度の基本形であり、「ロゴス」が父親の態度の基本形であるということだ。

 しかし、母親もいつまでも「エロス」一辺倒であるわけにはいかない。自分の子供を「人間関係の網の目」の中の存在として扱わなければならない時期が来るからだ。これは言い換えれば、子供に対する「ロゴス」的認識である。一方、父親にも子供に対する「愛」がないわけではないから、子供を「エロス」的認識の対象として見ることもある。

 父親も母親も子供に対して、「ロゴス」的態度と「エロス」的態度の両方をとるという点では同じでありながら、父親は前者を主とし、母親は後者を主とする。これが子供に接する態度の基本形であり、それぞれの態度とその性質のことを「父性」「母性」という。

 しかしながら、父親が「エロス」を主とする態度で子供に接したり、母親が「ロゴス」を主とする態度で子供に働きかけることもあるわけで、このような場合はそれぞれ、父親が「母性」を、母親が「父性」を発揮しているといえる。

 ここで私は、繰り返し「態度」という言葉を使ってきたが、私の理解では、林氏のいう「父性」や「母性」とは、要するに父母がそれぞれ子供に対する「態度」であり、その「態度」がいかなる性質のものであるかということを「エロス/ロゴス」原理から説明しているということだ。

 「父性」や「母性」が「態度」である以上、父親も母親もどちらの「態度」も取り得るのであって、父母が通常、どちらの「態度」を主としているかということと、時にそれとは異なる「態度」を取り得るということとは、まったく矛盾しない。

 さらに言えば、「父性」というのは、林氏が「父親はかくあるべし」というゾルレン(当為)を恣意的に創造したような概念ではない。しかし、これについては後述するとして、とりあえずもう一つのテーマに進むことにする。


2.理念、文化の継承

 父親も母親もはしっかりとした理念や価値観を持つこと、そして父母の価値観が大きく違わないことの必要性については、誰も疑わないだろう。なぜなら、親のいうことがその都度違っていたり、両親の価値観が大きく異なるということは、子供にしっかりとした価値観を持たせることができないからである。特に後者の場合には子供は両親の異なる価値観の間で引き裂かれることになるだろう。

 ではなぜ、「理念、文化の継承」が「父性」なのか。

 私の考えでは、「理念」や「文化」が、2つの意味で「ロゴス」に分類されているからだろう。「理念」は「論理」「言語」「理性」「思考」…と不可分なものであり、「文化」は「社会的な約束事」だからである。

 別の観点からは、「文化」に「男性的な文化」お「女性的な文化」もあると指摘することが出来、そのこと自体は疑うべくもない。しかし文化というのは、その両方をひっくるめて「約束事の世界」なのであって「自然」ではない。

 また、林氏は上に引用したように、

父性については、基本的には父も母も両方が持たなければならない。どちらかが一方的に担うべきものとは考えていない

(『父性の復権』p207)

のであるから、このことを「文化が男性の独占物であるという主張」だと誤解してはならない

 文化の代表が言語だというのは、私なりにいえば、それが社会的能力として最低限不可欠なものだということを意味する。つまり、この意味での「言語」というのは、ただ単に読み書きが出来るという意味ではない。また、言語を用いる芸術(文学など)は、他の芸術分野との間に軽重の差異を設けて語るつもりもない。

 重要なことは、人間が自分なりの考えを持ったり、それを他者と交換したりする場合には「言語」の世話にならざるを得ないということにある。

 もちろんある種の感情の表明は、音楽や絵画によっても可能である。しかし、たとえばここのような論述が、「音楽」や「絵画」ではなく「言語」による意見の表明や交換という形をとるのはなぜなのか。また「言語」が不自由なことは社会適応上の大きなハンディとなるが、「音楽」や「絵画」を苦手とすることは(つまり「芸術オンチ」であることは)、それほどまでの不自由を感じずに済む。

 このことの理由がわかれば、「言語」が文化の代表だということの意味も自ずから理解できるだろう。逆に「言語」を、単に様々な「文化」のジャンルの一つと見るような相対主義的視点からは、理解不可能になってしまう。


父性の復権の条件

 私は上に、「父性」というのは、林氏が「父親はかくあるべし」というゾルレン(当為)を恣意的に創造したような概念ではない、と書いた。これに対して、次のような反論があるだろう。

林氏は現在の父親の「父性の不足」を指摘しているのだから、それは世の父親たちに対する観察から導かれたものではありえない。つまり林氏の創造ではないか。また、そもそも「エロス/ロゴス」原理から「父性の不足」を説明することは出来ないのではないか。

と。これに対しては、まず「父性の不足」から考えてみよう。

 確かに、「エロス/ロゴス」原理だけからでは、「父性の不足」の原因まで説明しきることは不可能である。この問題については「エロス/ロゴス」原理とは別に、その原因となるような事情が存在する。それは何かというと、社会に共有されていた価値観が崩れてきたということである。価値観が崩れれば、もちろん規範も崩れてしまう。

 上で使った表現でいえば、「父性」であれ「母性」であれ、それぞれの「ロゴス/エロス」の混合比の最適値も、「エロス/ロゴス」原理からは出てこない。それは子供の性質がどのようにあるかというザイン(存在)の問題や、子供をどのように育てることが望ましいかというゾルレン(当為)に関わる問題です。さらに、子供を育てる目的の一つが、その子供を社会の一員とすることにあるとすれば、後者のゾルレンは、社会がいかにあるかというザインから考えられなければならない。

 しかし現代では、社会に共有されていた価値観や規範が崩れてきたために、父親がこの「混合比」を決定できないでいる。林氏の指摘によれば、それは「友達のような父親」という形で表れているということなのだと思うが、そのためにかつて父親が果たしていた役割を、現代の父親は果たせないでいる。このことを、林氏は「父性の不足」とか「父性なき社会」といっているのだろう。したがって、

林氏は現在の父親の「父性の不足」を指摘しているのだから、それは世の父親たちに対する観察から導かれたものではありえない。つまり林氏の創造ではないか。

という指摘には、まったく意味がない。そもそも、かつて「父親が果たしていた役割」が林氏の創造であるはずがなくて、それは捉え方や説明の形は違っても、フロイトやユングもそれぞれの立場で述べてきたことなのである。それが今の日本では崩れているというのが、林氏のいう「父性の不足」に他ならない。

 社会的価値観や社会規範の問題とは、戦後のある時期から始まった「価値観の多様化」の問題である。それは日本ではおそらく60年代には始まっていたと思うのだが、70年代にマルクス主義が没落することで決定的になり、80年代にはそれが大衆レベルではっきり意識されるようになった。

 林氏は『父性の復権』の中で、「価値のシンボルとしての父」ということを書いているが(P27)、父親も、そうではない人も、「社会的に共有される価値観とは何か」ということがわからなくなっているのが現代の状況である。それは「価値観の多様化」ということから始まっている。

 したがって私の考えでは、「父性の復権」のためには、父親に向かって「父性」を説くだけではどうしようもなくて、社会的な価値観や規範ということを根本から捉え直す必要がある。それは心理学の仕事ではないかも知れないし、心理学だけで「父性」を復権させるのは、おそらく無理だろう。

 林氏がどういう意図で『父性の復権』を書いたにせよ、もしこの本が社会に有益に働きかけるとしたら、それは個々の父親が「父性」を身につける努力をするようになることではなく(少なくとも、それだけではなく)、より根本的な問題解決を目指すものとしての、社会的な価値観や規範の捉え直しを目指すムーブメントが起こる、そのきっかけになる場合だろうと、というのが私の考えである。

この「捉え直し」というのは単純な復古主義などではなく、価値基準について根本から考え直すということ。

 もっとも、これは「父性」だけの問題ではなく、他の、たとえば教育の問題でも同じことだ。教育の目的が「子供を一人前の社会の成員にすること」であるとすれば、「どういう社会が望ましいか」という像が定まらないかぎり、「どういう教育をすべきか」も決まるわけがない。

 たとえばマルクス史観による教育やジェンダーフリー教育というのは、「結果平等」という社会観社会間を前提にした教育であり、この場合には「結果平等」という社会観が、一部の人間の信奉するイデオロギーでしかないことに問題がある。ゆとり教育はもっと愚劣で、教育問題を「教えるテクニックの問題」に矮小化してしまったことの産物に過ぎない。そういう教育を受けた子供たちがゆくゆくはどういう社会人になるのか、ということは考えられておらず、学校という閉鎖空間の内側の都合からひねり出されたに過ぎない。これなどはまさに「社会観の喪失」がもたらした「現象」だといえるだろう。

 話を戻すと、林氏がこの「父性の不足」の原因について語っているのが、『父性の復権』の中では主として「五.現代社会と父性」である。「父性の不足」の原因が「価値感覚の喪失」(P191)だということは、林氏もきちんと指摘しているし、私なりに付け加えればそれは単に「父性の不足」だけの問題ではなく、さまざまな分野で多くの問題を生み出していると思う。

 ただ、この本ではその根本的な問題をどうするかということを抜きにして、父親へのアドバイスという形での語られている(「六.父性復権への道」)。もちろん私は、そういうものが無用だというつもりはない。また社会的価値観や規範をどのように捉え直し、立て直すかということについて、それを考える責任を、林氏一人に押し付けることにも妥当性はないはずだ。

 それについては「われわれ」の、つまりこの社会の問題として考える必要がある。林氏だけが、あるいは世の父親たちだけが考えればよいというものではあり得ないし、その解決を心理学という分野に限定して求める必要も、全然ない。この本に欠けている問題は、欠けていることを責めるのではなく、欠けているものを埋める努力によってのみ解決することが可能なのである。

L.Jin-na


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