神名龍子
目次
今月上旬に、ある一つのニュースを目にした。まずはそのニュースから紹介する。
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説得応じ大峰登山中止 性同一性障害の男女ら 女人禁制を守る修験道の根本道場、奈良県天川村の大峰山(山上ケ岳)登山を計画した性同一性障害の男女らを含むグループは3日、禁制維持の立場から登山しないよう求めた地元住民の説得に応じ、登山口の手前で計画を中止した。 グループは、立命館大非常勤講師の伊田広行(いだ・ひろゆき)さんらの呼び掛けに応じた性同一性障害の人や、女人禁制に反対する女性を含む約30人。 登山口の「女人結界」門で地元住民ら約50人が待っており、午前10時に到着したグループに桝谷源逸(ますたに・げんいち)洞川区長が「登山は遠慮してほしい」と申し入れた。涙ぐんで訴える地元の女性もいた。 グループ側は「何を基準に男女を分けるのか」「禁制維持をどうやって決めたのか」など疑問をぶつけたが議論は平行線をたどり、約1時間後、引き続き両者が話し合いの場を持つことで一致。グループは解散した。 参加した滋賀県彦根市の女性公務員(32)は、「女人禁制に賛成する地元の女性が多いのに驚いた。今日は納得できる説明がなく残念。お互いにもっと本音で思いを出し合った方がいい」と話した。(共同) (11/03 17:59) http://www.sankei.co.jp/news/051103/sha041.htm |
さらに翌4日の朝日新聞では、解散後にグループの女性ら3人が登山を強行したと報じている。
このグループがこのような「暴挙」に及ぶ以前の10月9日、奈良県において「女人禁制」と題するシンポジウムを開催している。主催は『「大峰山女人禁制」の開放を求める会』。まずはこのシンポジウムから検討して行くことにしよう。司会は源淳子。シンポジストとテーマは、
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となっている。まずは各人の主張を要約して紹介しつつ検討して行くことにする。
この人物の主張のポイントは2つある。まず一つは、伝統の根拠を否定することによって、伝統それ自体をも否定しようとするもの。もう一つは、性別の相対化、「性別二元論」の否定することによって、「女人禁制」の根拠を無化しようとするものである。後者について、別の言い方をすれば、これまでジェンダーフリーの文脈で性差否定が主張されてきた、その受け売りに過ぎない。
まず前者からいえば、上に引用した記事にあるように、大峰山は修験道の根本道場である。修験道とは、神道や山岳信仰、大陸から伝わった仏教、陰陽思想などの混合思想である。仏教の中でも特に密教の影響が強かったようで、天台系の本山派と真言系の当山派が確立した。神道と仏教とでは、基本的には「女人禁制」の意味が異なるが、混合思想である修験道では、その両方が「女人禁制」の根拠となっていると見て、まず間違いないだろう。
厳密にいえば、神道で「禁制」となっているのは「女人」ではなく「穢れ」である。血や死体も「穢れ」として忌むべきものとされている。女性には出血を伴う排卵の生理があり、そのために神域はしばしば「女人禁制」となる。しかし、女性それ自体が「穢れ」とされているわけではないので、生理中ではない女性が精進潔斎して立ち入る場合には、その限りではない。また本来ならば生傷を負った男性も「血の穢れ」の対象になる。
仏教ではどちらか一方の性を「穢れ」と見るのではなく(そもそも神道的な意味での「穢れ」という思想がないはずだ)、修行の場において男女を分けるということが戒律になっている。この点、キリスト教の修道院と同じことである。大峰山は男性の修行の場だから「女人禁制」になっているが、逆にいえば尼寺や修道女のいる修道院は「男子禁制」なのである。
森村はこのシンポジウムで、「女人禁制」の理由は何か、不浄だから? 修行の邪魔? 体力的な問題? 伝統だから? 伝統も基準は何?と聞くと誰も指摘できない。他も理由にならない、と述べたらしい。つまり「修行の邪魔」という戒律は理由にならないと述べているわけである。
これはつまり、「男子禁制」である修道女のいる修道院や尼寺に、男性が踏み込んでもよい、と明言したに等しい。これがいかに非常識な主張であるかということは、大多数の人達にとっては自明のことだろう。森村はあとで取り上げるように、性別概念そのものを相対化してもいるのだから、なおさらである。文句を言われても、何を基準として乱入者を「男性」だと判断するのか、と言い返そうということだろう。
それはそれとして、ここでいう「理由」とはどのような意味なのか。修験者や僧侶、尼僧にとっては、戒律は立派な「理由」である。もちろんそれは法律ではないのだから、異教徒を従わせる法的強制力はない。また、大峰山に女性が入り込もうと、尼寺の男性が踏み込もうと、それだけでは何ら物理的損害を与えるものではない。森村がいう「理由にならない」とは、せいぜいその程度の意味であろう。
しかし、ここで重要なことは、それだけが「理由」なのではない、ということなのだ。
近代原理においては、信仰は個人の内面の問題である。このことは憲法でも「信教の自由」という形で保障するとされている(第20条)。言い換えれば、各人の「人格」の問題だといってもよい。相互の「人格」の承認なくして「人権」という概念は成り立たない。だからこそ「信教の自由」が人権の一つとして存在しているのである。
これは逆にいえば、宗教上の理由(戒律など)で「ここには入らないでくれ」といわれている施設や地域に、「人権」を理由に踏み込むことは出来ない、ということなのだ。
もちろん「人権」の根拠は「人格」の相互尊重だから、宗教上の理由で他者の「人格」を侵害することも認められない。たとえばAさんが自分の家に入ることを、宗教上の理由で禁止することは出来ない。それはAさんの所有権なり占有権なりに対する侵害であり、それがとりもなおさずAさんお「人格」の侵害になるからだ。
しかし『「大峰山女人禁制」の開放を求める会』のグループのメンバーが、大峰山の「女人禁制」地域の所有権や占有権を有しているわけではなかろう。従ってこのグループのメンバーには、大峰山に踏み込むことで他者の「人格」を侵害する、いかなる正当な理由も存在しない。
もちろんここで、「大峰山は世界遺産に登録された人類共有の財産だ」と主張することは可能である。しかしそれなら建物に文化財としての価値があれば、尼寺に男性が踏み込んでもよいのかという話になる。またこの理屈で行けば、文化的価値を有るる施設や自然が豊かな場所は、宗教の聖域や禁域とすることが出来ないという話になる。つまり、宗教者は戒律を守るために、長年受け継がれてきて文化的価値を認められるに至った施設から追い出されても当然だという理屈になる。もちろん自然崇拝や山岳信仰を否定することにもなってしまう。『「大峰山女人禁制」の開放を求める会』は、そんな特権をどこから引っ張り出してきたというのだろうか。
ちなみに、世界遺産に登録された「女人禁制」の地として、他にギリシャのアトス山がある。欧州議会本会議から女人禁制を改めるように要請されたようだが、ギリシア政府もアトス山修道院(ギリシア正教)も、伝統維持の立場からこれを拒否している。ユネスコの見解は、地域の文化を尊重するとして「女人禁制を解くか続けるかは、地元の人たちで考えてほしい」という姿勢だそうである。つまり世界遺産として登録されることは「女人禁制」の解禁を強制する根拠ではないということだ。
次に、性別の相対化へと話を移そう。森村は何をもって「女人」と判断する基準とするのかを問いかける。書類上の性別? 外見? 染色体? 外性器の形状? 性自認? そのいずれも人間を「性別二元論」でカテゴライズする根拠とはなり得ないことを強調する。
しかしこの主張には、すぐに思いつくだけでも、二つの大きな欠陥がある。まず一つは、この主張が性同一性障害や同性愛といったセクシャルマイノリティ当事者の実感からも乖離したものだということだ。同性愛者も、人間を「性別二元論」でカテゴライズする。そもそも「同性愛」と「異性愛」ということ自体が、人間を「同性」と「異性」とに分類する「性別二元論」に基づいている。
また性同一性障害当事者で、いわゆる特例法に基づいて戸籍上の性別変更をした当事者は、既に200人を越したと、この夏に漏れ聞いている。もちろん、この特例法に定められた要件の緩和ないし撤廃を目指す当事者団体も少なくない。そのいずれもが「性別二元論」を前提とした戸籍制度の適用を望む性同一性障害当事者なのである。性別を相対化したり、「性別二元論」を否定することが、多くの性同一性障害当事者の望みを否定する主張になっていることは、まったく疑う余地のない事実である。
もう一つの欠陥は、ここで述べられているような性別相対化の主張が、「性別」というものについて真正面から考えたことのない、現実から乖離した理屈に過ぎないということである。性同一性障害の当事者の足元から立ち上がった思想ではない、全く別の動機で作られた「性差否定」の受け売りをしているのだから、当然といえば当然である。
もし森村の主張が正しいのであれば、そもそも性同一性障害は存在しない。「私は男ではなく女だ」という当事者に対しても、森村は「あなたは何を基準として自分を『女』だというのか」と反論しなければならないはずではないか。そもそも森村自身、何を基準として「トランスジェンダー」を名乗っているのだろうか?
ここで一度、森村の主張を脇におこう。現実には私達(セクシャルマイノリティであろうとなかろうと)が他者の「性別」をどのように捉え、判断しているのか。これは誰で経験していることだから、その経験を内省してみれば、誰にもわかるはずである。
まず言えることは、私達はここに挙げられているような、多様な種類の性別(書類上の性別、外見、染色体、外性器の形状、性自認、等々)について、一つひとつ吟味などしていない、ということだ。つまり「あの人は書類上は女で、外見もやっぱり女で、染色体は…」などと考えたりはしない。通常は、ほとんど瞬時に他者を「あの人は男(女)だ」と見て取っているはずである。
しかもその際には、どれか一つの種類の性別だけを見ているわけではない。もちろん「書類」や「染色体」は論外として、外見だけでも「身長」や「体つき」、乳房の有無、しぐさ、服装、声、話し方…など、複数の要因を見て取る。そのいずれもがどちらか一方の性別を指し示していて整合性が取れていれば、「あの人は男(女)だ」と思う。
たとえば身長190センチ、Tシャツにジーパン姿で、ゴツイ、乳房のない身体であることは一目瞭然、声は低く…という人を見れば、そのいずれの条件も「あの人」が「男」であることを指し示していてどこにも矛盾がない。そういう場合、私達に「あの人は男だ」ということが「妥当」するのである。
ここで重要なことは、「あの人は男(女)だ」という判断において、この「男(女)」という概念は、書類上の性別、身体的性別、性自認、性役割、性指向といった、様々な種類の性別の内の、「どれか一つ」ではないということだ。私達は他者の性別を、上記のように総合的判断として受け取っているのであって、様々な種類の性別のどれか一つを取り上げて認識しているわけでは、全然ない。
様々な種類の性別を並べ立てることで「性別」概念を相対化するという手口の、その「手品のタネ」がここにある。 様々な種類の性別を一つずつ挙げていって、あなたのいう「性別」とはこれですか、それともこれですか、と訊ねてみれば、結局は「そのどれでもない」という話になる。そこで、「ほら、性別というのは根拠のないものでしょう」という話になる。これは、
ということを暗黙の前提とした詭弁に他ならない。実はこの前提が誤っていて、私達が普段意識している「性別」は、総合判断として意識されたものなのだ。だからどれか一つに絞ろうとすると、どの種類の性別を取り上げても違和感を感じてしまうことになる。
この手口に引っかかる人が多いのは、私達が普段、自分自身でそういう「性別判断」を行っていることを意識していないからだ。他者を見て、様々な要因がいずれも「男」なら「男」という同じ性別を指し示しているときは、それでも問題ない。
しかし時々、整合性のない人がいる。たとえば、一見して女性かと思ったけれども全然胸がなくて、長髪でひげの生えない男の子なのか、それとも胸の小さい女性なのか、どっちだろう、と迷ったりする。そんな経験も、誰にもあるだろう。
これは一瞬にして見て取った複数の要因のすべてが、どちらか一方の性別を指し示していない場合に(つまり複数の要因の間に整合性がない場合に)生じる迷いである。そういう時に、私達はふだん自分でも意識していない「性別判断」を、意識に上らせ、意識的に判断しなければならなくなる。そのような経験を思い出して内省してみると、私達が通常、どのようにして他者の「性別」を見て取っているかがわかる。
「当事者」が性自認の性別に見られるようになろうとするときや、演劇等で異性を演じる場合にも、これを利用する。どうすれば「男(女)」に見えるかということの、工夫の使用がある。しかしこの「工夫」は、「性別」を相対化するために行なうわけではなく(笑)、むしろ逆に、私達がふだん、このようにして「男/女」の「性別判断」を行っているという事実があって、初めて可能になるものなのだ。社会全体が「性別」を相対化するようになれば、性同一性障害当事者は、どうしたら自分を性自認の性別で見てもらえるのか、その方法を失ってしまうことになる。
伊田は女人禁制の「伝統」を「相手の痛みを感じない」感性だとして切り捨て、「女人禁制」は人を序列化する、内部から解体する風潮が大事、宗教的な教義の見直しが必要だという。簡単にいえば、宗教はその教義や戒律を、ジェンダーフリーに沿うように、自主的に改めるべきだ、ということだろう。
なお伊田は、上に紹介した肩書きは「立命館大学非常勤講師」となっているが、日本女性学会幹事でもあり、「左翼」であることを自任して、「ジェンダーフリー」や「家族解体」、「北欧型の新社民主義的な福祉国家路線」を主張している人物である。
近代思想というのは「個人」から始まって、その「個人」がどのように結び付いて「家族、市民社会、国家」を形成して行くかを考える。
しかし、伊田の主張の要点は、人間の(性別も含めた)あらゆる属性を否定して、ただ「個人」として扱うことにある。つまり伊田のいう「個人の自立を大事にする」とは、出発点としての「個人」ではなく、結論としての「個人」であり、近代思想とは逆に「家族」や「国家」を解体して元のバラバラな「個人」に戻そうということだ。これが彼の思想の核になっている。しかも彼は、そのような「形式」のみをゴールとして考えている。
私も、「男(女)はこうあるべき」を外側から押し付けるような意味での「固定的な性別役割」ということには反対する。だが、個々人がそれぞれ自分の好きなことを選んだ結果として、主婦を望む女性が圧倒的に多くなったとしても、それが不当だとはいえない。「もっと多様な生き方があるはずだ」ということを外側から押し付けるのも、「固定的な性別役割」の不当さと同じことだからだ。どちらも「個人」を尊重しているとはいえない。
「自由」な社会というのは、各人が自分の志を立ててそれを自助努力で実現して行けるような社会である。だから、まず「これこれの志を持つべし」という押し付けもおかしいし、同じ志を持つ人が多いからという理由で、それを「多様性に反する」と批判することも不当だ。それは結局は「多様性」を「個人」の上位に位置する超越項として置く思想である。つまり「多様性」という神の司祭になって、人々を従わせようとしているに過ぎない。大峰山の宗教よりも、こういう「多様性」真理教のほうがよほど抑圧的であり、人権を損なう思想になっているのだ。
もう一点。おそらく彼はかなりポストモダンの影響を受けていて、フェミニズムのみならず、ポストモダンの視点からも様々なカテゴリー概念を否定しようとしている人物なのであろう。
ポストモダンのモチーフの一つは、反真理主義である。そのため、あらゆるカテゴリー概念を否定する習性が、ポストモダニストにはある。なぜなら、カテゴリー概念というのは要するに分類概念だから、「あれ」と「これ」とを分類する、その分類基準が必ず存在するということを前提としている。
固定されたカテゴリー概念(つまり「男」と「女」のように常用されるカテゴリー概念)が存在するということは、その分類基準が固定されているということでありポストモダニストには、その「固定された何か」を「真理」とみなして攻撃する習性があるのだ。
別の言い方をすると、ポストモダンでは、世界は混沌(カオス)であって、それを人間が勝手にいろいろなものに切り分けて(分節して、カテゴライズして)いるに過ぎないと考える(ただし、この考え方自体が一種の「真理」として置かれていることには彼らは無自覚である)。
また伊田は、「スピリチュアリティ」という概念を持ち出し、それを、
| 人間と世界を「知性、身体、精神」だけでなく、「たましい」のレベルを含めてトータルに考える視点、「動植物、生態系、他国・他民族を含む世界、他者、過去、未来」などとのつながりで私を捉える視点、自分の心の奥底レベルで生きる意味を考える視点、近代合理主義の枠を超える視点、生の有限性/死(ときには宗教)を入れる視点などの総合 |
と説明している。これも要するにあらゆるカテゴライズを拒否する、ポストモダン思想を背景にしていると思われる。このカテゴライズ否定は、現在ではしばしば「平和」や「倫理」を説くのに利用される。たとえば「国家」や「民族」というカテゴライズをするから、戦争や民族同士の反目・紛争が起こるのだという(だからこのような思想は必然的に、反共同体という性質を帯びることになる)。
これが「性別があるから性差別が起こる」という考え方と同型であるということは、容易に見て取ることができるだろう。要するにカテゴリーがあるからカテゴリー間の争そいが起こる、といっているに過ぎない。
だが、たとえば「民族」という概念一つ取り上げても、それには根拠があるということが、よく考えればわかるはずだ。といっても、それは「伝統」ということではない。まず人間が頻繁に行き来する範囲は、空間的にある程度限定されざるをえない、ということである。もちろんこの限定は、交通が発達した現在ではかなり緩いものになっているが、それでも東京から大阪へ行くのとブラジルへ行くのが、まったく同じだと言うことはない。
特に、言葉が通じる範囲というのは、行き来しやすい。それは単に移動しやすいというだけではなくて、訪れた先で言葉が通じれば、そこでの行動の自由が遥かに広がるからだ(言葉が通じなければ買い物一つも満足にできない)。そのためこの地上に、一定の人間が行き来するエリアというものが、複数形成されてゆくことになる。そういうものが歴史的に形成されてゆく。それを、カテゴライズの否定という概念操作のみで、なかったことになどできるはずがない。もしそれを強行しても、人々に混乱と不便を強いる結果になることは、目に見えている。
そうである以上、必然的に「われわれ」という範囲が認識されることになる。それと同時に「われわれ」に含まれない人たちが共同体の「外側」として意識される。ポストモダニストはそれを「排除の思想だ」と非難するが、人間が共同体を形成することには、必然性があるのだ。だが、これだけでは異なる共同体同士が争い合う理由にはならない。カテゴライズが争そいや差別の本質であるわけでは、全然ない。
争いの原因は、利害対立である。だから、カテゴリー概念を否定してもそれは争いの本質的な解決にはならず、再び利害対立に根ざしたカテゴリー概念が発生するだけだ。争いの解決は、利害調停の原理を見つけること、それをよりよいもの、より現実的なものに鍛え上げて行くこと、これ以外にはない。
もちろん、性別というカテゴリー概念を否定して男も女も一緒に大峰山に登ろうといっても、それで世界が平和になる道理など、あろうはずがない。
この人物は、とりたてて「女人禁制」の問題を語ることもなく、ひたすらフェミニズムのプロパガンダを語り、その中には当然、いわゆる「バックラッシュ」批判も含まれていた。そこでこの人物を取り上げるためには、これまで述べてきたこととは別の事柄についての説明が必要になる。
この人物の前述の肩書きは「テレビ・プロデューサー」となっているが、VAWW-NET(バウネット)ジャパンの運営委員で松井やより提案の「女たちの戦争と平和資料館」運営委員長、「女性国際戦犯法廷」の当事者でもある。
ここで名前の出てきた「松井やより」とは、既に故人であるが、いわゆる「従軍慰安婦問題」を作り出した張本人の一人だ。池田が運営委員をつとめるバウネットジャパンも、元々は松井が被率いていた団体であり、この団体が中心になって2000年12月に「女性国際戦犯法廷」が開かれた。
「女性国際戦犯法廷」といっても、何ら公的な機関とは関係なく、もちろん法的根拠もない、ただのフェミニズム団体による告発・糾弾運動の一環としてのイベントに過ぎない。入場者は事前に、この裁判に全面的に賛成し、一切の批判を行わないという誓約書を提出させて実施された。
こんな茶番劇を、NHKが『問われる戦時性暴力』という番組で放送したわけだが(2001年1月30日)、松井はその放送内容が気に入らないからと、NHKを訴える裁判を起こしてもいる。あまりの偏向ぶりに驚いたNHKが、公正を期すために反対意見を持つ学者のコメントを差し挟んだのが悪いというのである。
入場者から誓約書を取ったことといい、これでは、いかなる批判に対してもそれに堂々と反論するわけではなく、最初から批判を封殺することしか考えていないと指摘されても当然であろう。
なぜこんな説明をしたかというと、池田がこのシンポジウムで並べ立てた数々のウソの中に、この問題も含まれているからだ。
バウネットジャパンはNHKの放送内容を「番組の改ざん」と決めつけた上で、その「改ざん」の裏に政治家の介入があったと主張し始める。それを鵜呑みにして取り上げたのが朝日新聞だった。NHKはそれを否定し、それ以降、NHKと朝日との争そいにまで発展した。この「NHK番組改変騒動」については記憶している人も多いかと思う。
池田はこのシンポジウムで、NHKで放映された「女性国際戦犯法廷」番組の改竄に政治家の介入が明らかになった、と主張したようだが、事実は全く逆であることが、シンポジウムに先立つ10月1日に明らかになっている。
ここでいう「政治家の介入」とは、自民党の安倍晋三・中川昭一の両氏が放送前日にNHK幹部を呼びつけて圧力をかけたということになっている(朝日新聞では本年1月12付記事日)。これについて朝日新聞は今年の10月1日に、自らの取材不足を認め「不確実な情報が含まれていた」とする見解を発表した。
これは、朝日が外部識者で作った「NHK報道」委員会の審議結果をもとにしたものだが、しかし、1月の記事が「政治化の発言が圧力となってNHKの番組内容が変わった」と指摘した点については「今も変わらないと考えています」(「朝日新聞の考え方」)としている。池田が10月9日のシンポジウムで、「政治家の介入が明らかになった」と主張したのは、このことを指しているのだろう。
しかし、この結末に納得しているのは、実は、朝日新聞社自身とフェミニストだけなのだ。この問題では他の全国紙すべて、つまり読売、産経に加えて、フェミニズムの主張に熱心な日経や毎日までが、朝日の「見解」の杜撰さを指摘している。各社の社説の見出しは以下の通り。
朝日が「外部識者で作った」という「NHK報道」委員会は、どのようなものだったのか。この委員会は4名の委員で構成されていたが、少なくともその内の2人は、朝日新聞に常設されている「紙面審議会」や「報道と人権委員会」との兼任、つまり「身内同然」の人物だったことがわかっている。また何よりも、「政治化の発言が圧力となってNHKの番組内容が変わった」と主張できるだけの証拠を、朝日新聞はいまだに提示できていない。
もうひとつ、重要なことを指摘しておこう。池田はその当時、なんとNHKエンタープライズでこの番組を企画制作した、張本人(プロデューサー)だったのである。つまり一方では「女性国際戦犯法廷」を開催した張本人(の一人)でありながら、その報道の担当者にもなったということだ。放送の公共性・公正中立を犯しているのは、明らかに池田自身ではないか。もしNHK側に批判されるべき点があるとすれば、このような人物に番組製作を任せたということにあるのではなかろうか。
もちろん、この事件そのものは直接には大峰山とは関係ない。しかし、今回の大峰山の騒動を起こしたグループが、どのような者達の集まりであるかということを知る上では参考になるだろう。ついでに池田の、他の主張をもう少し取り上げてみると、
>国論二分のまま1970年代より右派マスコミは歴史教科書批判や東京裁判批判を、1982年には文部省の検定で「侵略」が「進出」と修正、アジアの日本批判が過熱。
などとも言っている。ところが1970年代や1982年といえば、まだ「慰安婦問題」など存在しなかった頃の話なのだ。存在しないものに対する「バックラッシュ」などあり得ようはずがない。なぜこれが「『慰安婦』問題へのバックラッシュ」だというのか、まったく理解不能である。
またこの時の「侵略」→「進出」の書き換えが虚報だったことも、現在では明らかになっている。上に名前を挙げた松井やよりが、1998年10月31日の『朝まで生テレビ』に出演した際にも、司会の田原総一郎から「松井さんたちが(慰安婦問題を)国際問題にしてるんですよ」「あれは日本発ですよ!」と喝破されて黙り込んでしまったことがあった。教科書問題も、それに先立つ「日本発」の問題なのである。
さて、そもそも「宗教」とは何かということについて、この問題に関する部分について考えてみよう。私自身は信仰心を持たない人間だが、それでも他者の信仰を、このように無条件に無下に扱おうとは、全く思わない。
人間いとって「真・善・美」という価値観を持つことは普遍的なことであり、私自身はたとえば「真」や「善」を求める上で、哲学という方法を用いている。宗教もまた、「真」や「善」を求める人間の営みという点では同じことである。
もちろんある種の宗教に対しては、その戒律や道徳に対して「息苦しくてたまらないな」と思うことはある。しかし信仰者が自ら選んでその息苦しさ(あくまでも私から見て、の話だが)に身を投じることは、基本的にはその人の自由である。ただ、その「息苦しさ」を私に押し付けようとしたり、それによって私の日常生活の邪魔をしてくれなければよいのである。お互いがそのような形で尊重し合う限りにおいて、信教の自由は認められるべきである。
上に紹介したように伊田は、宗教的伝統を「相手の痛みを感じない」感性だとして切り捨てている。しかし、地元の人達の信仰心を踏みにじって大峰山に女性を入れろと談判したり、「涙ぐんで訴える地元の女性」を見たときに、彼らにどれほどの「相手の痛みを感じ」る心があったというのだろうか。
彼らにとって最も大切なことは、(表向きのスローガンはどうあれ実質的には)自らが奉じる政治的「正しさ」であり、「他者」はそれに従わせる対象に過ぎず、そのために「他者」がどれほどの「痛み」を感じようと、全く斟酌することはない。
そういう行為こそ「人権侵害」と呼ばれるにふさわしいものである。
もうひとつ「信教の自由」について述べておくと、近代社会においては、政治的「正しさ」は、宗教とは別物である。つまり宗教的「正しさ」によって政治決定がなされることがないのと同様に、政治的「正しさ」によって宗教を変えることはできないのである。
なぜなら宗教とは、それがいかに大きな教団を組織しようとも、基本的には個人の「内面の自由」の問題に他ならないからだ。つまり各個人が自分なりの「真」や「善」を追求する営みである宗教に対して、政治的「正しさ」が介入することはできない、ということ。
概して日本人は、政治的「正しさ」と宗教とを区別して考えることが苦手である。
近代思想が生じた西欧では、「国家」や「政治」は世俗のものだ。そして個人の内面の問題(道徳等)を宗教が担当するという分担があった。のちにそれが明確化して「政教分離」という概念が生まれるわけだが、この考え方はキリスト教(カトリック)では「二王国論」といって、ローマ帝国の時代からある。キリスト教は人々が「神の国」に入ることを担当し、政治は地上の(世俗の)国家を担当する。いわば政教分担論である。
ところが日本では少なくとも明治維新以降終戦まで、「国家」が道徳をも担当したために、この区別がなかった(あったとしても弱かった)。つまり国家が道徳の基準になっていたのである。そのため、特に「国家」ということを強く意識する人たちは、それが右翼でも左翼でも、「国家」の問題を自我の問題と切り離して考えることができない。
一例を挙げると、左翼がよくいう「戦争責任」の話がそれだ。日本は戦争でひどいことをしたのだから、日本人は誰でもその責任を負っているという言い方がある。「日本人なら〜すべきである」というのは、つまりは国家主義・民族主義である。ただ、何をすべきかという部分で、たとえば右翼なら「天皇陛下のために尽くすべきだ」という代わりに、左翼は「アジアの人たちに詫びるべきだ」を代入しているに過ぎない。
この場合の右翼と左翼の違いは、右翼が自分達の主張を国家主義・民族主義だと自覚しているのに対して、現在の左翼にはその自覚がないという点にある。だから左翼は「世界市民」のようなことを言いつつ、そこに「日本人なら〜すべきである」型の道徳も併置させて、何の疑問も抱いている様子がない。
しかも日本では、戦後社会への転換期において、「解禁」されたマルクス主義が一世を風靡したという戦後史がある。「宗教は阿片だ」というマルクス主義は、もちろん自分たちの政治的「正しさ」を宗教の上位に置く思想である。
たとえば伊田は左翼を自称しているくらいだから、「女人禁制」に対しては「人を序列化する」と批判しても、本来は政治思想とは別物であるはずの宗教を、政治思想の下位に置くという「序列化」には何の疑問も感じていないだろう。
序列化とは、複数のものを同一の基準で扱うということである。したがってこの騒動を巻き起こした発想もまた、政治思想と宗教とをひとつの価値基準で扱うという点では、戦前の日本の特徴を色濃く受け継いでいるといわざるを得ない。
つまり、自分が「真」や「善」を求める営みを、彼らは決して「国家」から切り離すことができないのである。「国家に尽くす」代わりに「国家を批判・否定する」という方法を選んだとしても、「真」や「善」を求めるに当たって「国家」の存在を必要としているという点では、まったく同じことなのだ。
彼らは常に「国家」に反対し続けていなければ、自我を保つことができない。つまり自分が「真」や「善」に近づいているということを感じ取ることができない。だか、「国家」であれ「他者」であれ、誰か(何か)に石のつぶてを投げ続けなければ自我の安定を保つことが出来ない個人が、健全な存在だとは、私にはどうしても思えない。
既に何度も指摘してきたことだが、「差別」の動機もアイデンティティ補償である。この『「大峰山女人禁制」の開放を求める会』のような人々がいる限り、日本から「差別」という問題がなくなることもあり得ないはずである。
大峰山の地元の人たちは、それを「国家」から区別された「宗教」に求めることができる。事実、彼らの宗教は「国家」とは無関係に存続してきた。伊田が強調する「個人」という点から見て、より「国家」からの独立性が強いのは、むしろ大峰山の地元の人たちの方だと言ってよい。
