111.「ブス」とは何か

神名龍子


 今月18日に、漫画家の藤野美奈子さんの講演会に行った。藤野さんと私とは、哲学では同門であり、今回はそのご縁でお誘いを頂いたのである。テーマは「みんな避けてた見た目の話」。藤野さんは数年前に、哲学者の西研さんと『不美人論』(径書房)という対談本を出しており、このテーマは「女性と美醜」と言い換えてもよいかもしれない。

 この講演会は新宿区の男女共同参画の一環として企画されたものらしい。講演後に藤野さんとお話したら、担当者から「ブス」の定義を聞かれて困ってしまったそうだ。

 この種の問いには、いくつかの困難が付きまとう。そのひとつは、「美」と「醜」の間に境界線を引けるのかという問いが必ず出てくることである。「定義」という言葉が出てきたら警戒を要する。たとえば幾何学なら「円」の定義というものがあり、それに当てはまる図形と、当てはまらない図形とがある。それが、「円」と「円ではない図形」との境界線だ(ただし、これも相対化しようと思えばいくらでも可能なのだが)。

 ところが美醜の問題では、そもそも「美」や「醜」の定義が難しい。だから「ブス」の定義も難しいのである。あまり深く考えない人なら、たとえば「顔の悪い女」と答えるかもしれない。しかしこれでは、「顔の悪い女」と「そうではない女」の境界線をどこに引くのかという問いは、依然として残ってしまう。

 講演後、藤野さんと春日武彦さん(心理学者)との対談があったのだが、この対談でもやはり二人とも「う〜む…」という話になってしまった。ただし、人間が「美醜」という価値基準を持っているということ、それ自体は否定できない。藤野さんも春日さんも、それは同意見だった。


 「ブス」についての考察は、数学などでいう「定義」とは異なる方法で行なわれなくてはならない

 「ブス」の定義を問われて答えられない人でも、「ブス」という言葉が理解不能だというわけではない。つまり誰でも「ブス」という言葉を、何らかの意味において了解しているのであり、それをが何であるかということを、内省から取り出してみる必要があるのだ。

 私の考えでは、顔の物理的な造形の良し悪しは「ブス」の本質ではない。「ブス」とは差し当たり「エロスと無縁の存在」ということになる。この場合の「エロス」というのは、性的な意味に限らず、人間にとっての「よい」とか「よろこび」「快」など、プラスの価値をもたらすものの総称と考えて欲しい。

 「ブス」が「エロスと無縁の存在」であるということには、さらに2つの意味がある。ひとつは「他者にエロスを与えることが出来ない」という意味であり、もうひとつは「本人自身がエロスを享受できない」という意味だ。したがって、「ブス」とは「他者との関係においてエロスのやり取りができない存在」ということでもある。つまり「ブス」とは、他者との関係のありようや、他者関係における可能性を表す言葉なのだ。たとえば「性格ブス」という場合の「ブス」も、やはりこの意味だと考えると納得できる。

 とはいえこの語は、やはり通常は女性に対して、顔の良し悪しと関連して使われることが多い。それは確かなのだが、単なる物理的な造形の良し悪しをいうのではない。この場合には、「他者との間でエロスのやり取りができそうにないと直観されるような顔」を「ブス」と呼んでいる。もう少し突っ込んでいえば、「お前は他者とエロスの交歓はできないだろう」とか「これまでもエロスと無縁な人生を過ごしてきたに違いない」ということを、一方的に決めつけるような評価なのだ。

 もちろん、相手が初対面の女性であれば、あくまでもこれは第一印象による評価に過ぎない。その評価が当たっているかどうかは別問題である。

 しかし、「ブス」という語を投げつけられた女性にとっては、「お前はエロスと無縁な存在であり、人生を楽しむことを断念して生きなければならない」と一方的に宣告されているに等しい。つまり「彼女」は「ブス」という語を投げつけられることによって、自身の人生の可能性を否定される。「ブス」という語が女性を傷つけるのは、ここにその本質がある。


 もちろん、これが第一印象からの判断であれば、この判断は後に変更される可能性もある。うろ覚えではあるが、小林よしのりの旧『ゴーマニズム宣言』に次のようなエピソードがあった。

 文化祭の準備で、一人で絵を描かなければならなかった小林が、その準備がまったく出来ていないことに気がつく。絵の具を使おうにもパレットがない。そのとき、「ブス」だと思っていた同級生の女の子が、私の手のひらをパレットに使ってといって、小林に両手を差し出した。小林の目には、それまで「ブス」だと思っていたその女の子が、たちまち輝いて見えたというのである。

 もちろんこの場合でも、小林の目に、この女のこの顔が「美人」に移ったわけではない。造形についての認識は変わらないはずだ。しかし、この時点で彼女は、もはや小林にとって「エロスに無縁な存在」ではなくなっている。彼女の行為によって、小林は既に彼女からエロスを受け取ってしまっているからだ。そのため、彼女の顔はそのままでも、もはや小林は彼女を「ブス=エロスに無縁な存在」と認識することができなくなったのだ。

 小林自身はここまで分析しているわけではないが、これは「ブス」について考える上で重要なエピソードであろう。ただし、「ブス」呼ばわりされている女性が、同じ効果を狙って親切の押し売りをしても、失敗する可能性が高い。上記の小林のエピソードに登場する女の子のように、計算ずくではない好意や善意が必要なのだ。

 「悪女の深情け」という言葉があるが、この場合の「悪女」とは道徳的な善悪のことではなく、顔の悪い女という意味だ。このことわざは「醜い女は美人に比して愛情や嫉妬心が深い」という意味であり、「ありがた迷惑」の類いの言葉として用いられる。こういう場合、男はしばしば恐怖して逃げる。


 「ブス」が他者関係についての概念である以上、極論すれば生まれついての「ブス」は存在しないともいえる。もちろん第一印象で「ブス」とみなされやすいかどうかは、生まれつきの要因にも大きく左右される。しかし重要なのは、自分の容姿が「ブス」であるかどうかではなく、自分の生き方が「ブス」であるか否かということだ。したがって「ブス」は挽回し得る。

 「社会」なり「男性」なりを恨んで生きることは、自分が「ブス」であることを絶えず再生産していることに他ならない。これはセクシャルマイノリティが抱える問題にも共通する陥穽で、対抗主義(告発・糾弾型の運動)が、ますますマジョリティとの溝を深める悪循環しかもたらさないのと同型なのである。

L.Jin-na


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