神名龍子
−序−
先日ある方から、「性同一性障害とは何か、またそこでどんな問題や苦しみがあるのか」ということを把握したいのだが、このHPの中から適切なものを推薦して欲しいという依頼をいただいた。しかし考えてみると、このような基本的な依頼に応えられるようなものがない。このホームページは最初は、T's の当事者向けとしてスタートしたので、あまりに初歩的なことが割愛されていたのである。途中で方針を変更して門戸を広く開いた際に、「T's用語概説」という用語集を設けはしたが、これは語の意味がわかるだけのものに過ぎない。
そこで今回、ごく基本的な説明を追加することにした。遅きに失した感はあるが、まったく知識ゼロの人にもわかる「簡単な説明」のレベルを目標とした。今となってはかえってこのような説明を書く方が難しいのだが、理解の一助として役立つのであれば幸いである。
「性同一性障害」という語は、もともとは精神疾患の名称であり、疾患分類基準(ICD や DSM などの種類がある)によって、その定義は異なっている。
それとは別に、現在マスコミなどで使われている語としての「性同一性障害」は、「身体の性別と性自認とが異なっており、性転換を望んでいる人」というくらいの意味で使われている。この性質のために、生活上の様々な場面で不便や苦痛を感じるなど、社会不適応に悩むことになる。
という法定要件により、戸籍上の性別を変更できない人も多い。このため、要件緩和を要求する当事者運動が展開されている。また、性別変更ができない人のために、公文書などから可能な範囲で性別欄の廃止や、性同一性障害治療への健康保険の適用などの要求運動も同時に行なわれている。
私には具体的な被差別経験はない。なぜ差別を受けた経験がないかというと、「ここでこのような言動をしたらまずい」ということが、あらかじめわかっているからだ。つまり私は社会の常識をわきまえた上で、それに従ってきたのである。
しかしそれは、辛い経験をせずに済んだ、という意味ではない。
自分の在りようを隠し続けなければならないストレスや、隠し続けなければならないことの「後ろめたさ」を抱えて生きてきた。私だけでなく、ほとんどの T's は同じ経験をしているだろう。
ここで「社会の常識」を逆転させようと考えると告発糾弾型の運動(対抗主義)になる。これはかなりナイーブな発想だ。実際には、T's である自分自身の欲望(かく在りたい)も、価値観や常識を自分が、社会と共有していることが前提となっているからだ。10年前から指摘し続けてきた通り、そこまで掘り下げて考えなければ先はない。だから私は、左翼型の社会運動に範型を求めることなく、自身で考え続けてきた。
欲望とは「非・自己選択的」なものである。なにもセクシャルマイノリティばかりの話ではない。たとえば私たちは、「コーラを飲みたくなろう!」と決意した結果として、自己選択的・自己決定的に「コーラを飲みたい」と欲望するわけではない。欲望が発生する過程を、自分自身の内側に向かってモニターできるわけでもない。
欲望とは「私」に対して、「私」の外側から到来するものなのだ。そのくせ、それは確実に「この私自身の欲望だ」と確信されるのである。
要するにセクシャルマイノリティの辛さとは、自分自身の欲望と、自分が社会と共有する常識との間に生じる葛藤である。あるいは、自分自身の欲望と、社会や家族からの期待との間で引き裂かれることの辛さである。
もちろん、この辛さは社会や家族からの「かく在るべし」ないし「かく在れかし」に、自分自身が答えようとする気持ちがあるということが前提になっている。それにも関わらず、自身の欲望に従えば、社会や家族からの期待に「応えたいけれども応えることができない」という立場に置かれること。これが「辛さ」や「後ろめたさ」の本質(少なくともそのひとつ)なのだろう。
これはセクシャルマイノリティだけの問題ではない。たとえば「親の家業の跡を継ぐことを期待されているのに、自分には他に就きたい職業がある」という場合にも、同様の「辛さ」や「後ろめたさ」が生じるだろう。
たとえば言語哲学にヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)という人がいる。オーストリアの財閥の当主の家の息子で、たしか五男ではなかったかと記憶している。彼の兄たちは音楽の教育なども受けたのだが、幸か不幸か、長男から四男までいずれも才能に恵まれていたらしい。その全員が音楽家になることを希望したのだが、長男は財閥を継がなくてはならないので、音楽家になることができない。その絶望から自殺してしまう。すると今度は、後継ぎの役目が回ってきた次男が、音楽家になることをあきらめなくてはならなくなる。こうして兄弟の上から順に三男までが自殺してしまったところで、ようやく父親があきらめ、四男はピアニストになることができた。
セクシャルマイノリティの場合には、自身の欲望が「性」という恥部に関わる問題であることが、いっそう自己主張を困難なものにしているという違いはある。しかしこその点を除けば、次々に自殺したヴィトゲンシュタインの兄達と同じ構造の悩みを有しているのではないか。
自分の在りようを隠し続けなければならないことのストレスや後ろめたさについて、さらに考えてみる。
上記のとおり、私は「ここでこのような言動をしたらまずい」ということが、あらかじめわかっており、社会の常識をわきまえた上で、それに従ってきた。私の考えではこの判断は、日本の倫理の特徴と結び付いている。
この場合の特徴とは、キリスト教道徳との比較の上でいっている。キリスト教道徳ではその教義上、個人の「魂」を問題にする。キリスト教道徳における禁止を破れば「罪深い魂」という話になる。これはキリスト教道徳における禁止が、神の教えとされているからだ。「罪」とは神に対する罪であり、神はいついかなる場合にも「私」を見ている。だからキリスト教道徳における禁止は、いついかなる場合にも適用される。
これに対して日本の道徳は「いついかなる場合にも適用される」ものではなく、TPOに依存している。たとえば売春は素人女性ならばすべきことではないが、遊郭という「場」では公認された。親の困窮を救うために遊郭に入ってお金を作り、親を助ければ「罪」どころか「立派な娘」であり「よい話」とされる。もちろん年季が明ければ、遊郭を出て素人(堅気)の女性として生きて行く。そうなればもはや遊女としての振る舞いは許されない。
つまり日本では規範が複数存在し、その都度に従うべき規範は「場」や立場などによって決まる。
「江戸時代の日本は歌舞伎の女形に見るように女装に寛容であったが、明治以降の近代国家になってそうではなくなった」という主張がある。しかしこれは正しくない。明治時代の太政官布告・「違式かい(=言+圭)違条例」(いしきかいいじょうれい)の62条に、
という規定があった(明治6年)。ここでも「俳優歌舞伎等」は例外として明示されており、けっして禁止されていない。誰でも知っていることだが、歌舞伎も女形も、明治になって絶滅したわけではないし、現代でも存在する。したがって、女形の存在を根拠として「江戸時代の日本は女装に寛容だった」というのなら、同じ理由で現代の日本もまた女装に寛容だといわなくてはならない。
それどころか実際には逆に、常に男装して暮らしていた女性が遠島になったという江戸時代の記録もある。つまり売春と同様、江戸時代でも異性装はTPOによって許されたり許されなかったりしたことがわかる。
現代では、女装(異性装)それ自体が刑罰の対象になることはないが、一般的な規範意識において、やはり異性装が許されたり許されなかったりする。
そして、たとえ意識化・言語化は困難であっても、(T's であるか否かを問わず)私たち現代の日本人もこの規範について、実は「知っている」。なおかつ、この規範のありようは、T's にも、そうではない人達にも共有されているはずだ。だからこそ「ここでこのような言動をしたらまずい」という判断が可能になり、この社会の中でその判断がそれなりの有効性を持つのである。
ではこの「異性装が許されるTPO」は、どのようにして意識化・言語化が可能になるのか。
「異性装が許されるTPO」をいくつか挙げて、その共通点を抽出するという方法が考えられる。その際に抽出すべき共通点とは、その場における異性装の「意味」である。つまり、その「場」に居合わせる人達にとって異性装がどのように受け止められているかということ。
歌舞伎であれ、ニューハーフがいる店であれ、そこを訪れる人は異性装者(女形やニューハーフ)がいることを知っている。
この「知っている」とはどういうことか。「なぜそこに異性装者がいるのか」を知っているということだ。言い方を変えれば、「そこにいる異性装者がなぜ異性装をしているのか」を知っているということでもある。知っているだけではなく、異性装の理由について、それなりに納得できている。だからこそ、怪しまない。
女形は歌舞伎の上演の必要上「そこにいる」のであり、「異性装をしている」のである。観劇者はそのことを知り、かつ、納得している。
店を訪れた者にとってニューハーフは、他の業種の店では味わうことの出来ないエロス(よい、楽しい)を提供してくれる者であり、そのためには「そこにいる」ことと「異性装をしている」ことが必要条件だと納得しているはずである(普通は)。
そのニューハーフが昼間(店の営業時間外)に買い物に出かける。たとえばそれが新宿であれば、「彼女」を見かけた人は、「彼女」達が勤める店がその街に何軒かあることを知っている。そういう店に行った経験がない人でも、知識としては知っているだろう。したがって「彼女」達がその近辺を歩くこともあるだろうということも、(珍しがりはするかもしれないが)それなりに納得されるのである。
以上のような例では、いずれも異性装者の存在がそれなりに許容される。漠然とでも事情が理解でき、見た目にも不快ではないという条件があれば、異性装者は比較的に許容されやすい。TPOに関わりなく常に適用される宗教道徳上の禁忌に触れるわけでもなく、欧米キリスト教圏に見られるような「ヘイトクライム」の標的とされることもない。これが異性装をめぐる日本社会の特徴である。
逆にいえば、自分が T's であることを隠そうという判断が働くのは、これらの条件が欠けている場合なのだ。
また、T's 本人が「自分が周囲の人達の目にどのように見えているか」を過剰に気にしてしまうこともよくある。特に初心者にその傾向が強いのだが、この過剰な自意識を周囲に投影して、「この社会は抑圧的な規範が支配している」と思い込んでしまう。すれ違う人達が、自分を嘲笑し、あるいは非難の眼差しを自分に向けているかのように思えてしまい、内心に恐れを抱き続ける。
しかしたいていの場合、これは当人自身が女装禁忌を内面化しているために起こる反応に過ぎない。原理的には神経症とよく似ている。「社会の存在する抑圧的な規範」が幻想であり、その正体が自分自身の内に身体化している規範であるということを、自覚する必要がある。
T's に対する許容は性別によっても傾向が異なる。一般に女性のほうが許容度が高く、これは男女が本質的に「見る/見られる」という非対称性を持つことに由来する。
たとえば女性にとって、もはやMTF(男→女)は自分を「見る」性別ではない。そのため男性に対して持つような構えや警戒心を必要としない相手として認識されやすい。
反面、MTFは男性に対しては「見られる」性になる。「見る」側の男性にとっては性的な引力を感じさせるが、自分が見ている相手が実は男性であると知っている「彼」は、その引力に抗おうとする。つまりMTFは男性にとって、引力と斥力とが葛藤する原因となる。「彼」は目の前のMTFが自分の葛藤の原因であることを直観的にでも理解しているために、葛藤の原因を遠ざけようとする(引力への抵抗としての斥力と、葛藤の原因を排除しようとする斥力とが2重に働く)。
これはあくまでも一般論であって、現実にはすべての男性が必ず T's を遠ざけようとするわけではない。たとえば前述のように「なぜ自分の前に T's がいるのか」という了解が可能な場合には、男性であっても許容度が高い。たとえば新宿の普通のバー(ニューハーフの店ではないところ)で、たまたまニューハーフと居合わせたとしても、「まぁ、新宿で飲み歩いていれば、こういうこともあるだろう」と納得できる人が圧倒的に多い。
