113.「子なし」要件の緩和に向けて

神名龍子


「子供なし」の条件は合憲=性同一性障害の性別変更で初判断−最高裁

 性同一性障害と診断されたものの、子供がいることを理由に男性から女性への戸籍上の性別変更を却下された兵庫県尼崎市の大迫真実さん(51)と奈良県生駒市の森村さやかさん(47)=いずれも通称=が申し立てた特別抗告について、最高裁は29日までに、棄却する決定をした。
 最高裁は決定理由で、子供がいないことを性別変更の条件とした性同一性障害特例法について「子のある者に性別変更を認めた場合、家族秩序に混乱を生じさせ、子の福祉の観点からも問題を生じかねないなどの配慮に基づく」と指摘した。
 その上で「合理性を欠かないから、国会の裁量権の範囲を逸脱せず、憲法の平等権などに違反するとは言えない」との初判断を示した。
 第3小法廷(田原睦夫裁判長)が19日付、第1小法廷(泉徳治裁判長)が22日付で決定を出した。

(時事通信社 10月29日 14:01)

 私はこの記事の2名のうちの前者は知らないが、「森村さやか」に関していえば、そもそも「彼女」が戸籍上の性別変更の申請をすることが理解できない。

 女人禁制の大峰山(奈良県)という山がある。ここに一昨年、女人禁制に反対する女性や性同一性障害の当事者を含む約30人のフェミニストの集団が押しかけ、意図的に禁を破ろうとした「事件」があった。この「大峰山事件」は当時もこの「ジェンダー素描」で取り上げたが、そこにも示したとおり「森村さやか」はこの時のメンバーである。

 「大峰山事件」に先だって、このグループはシンポジウムを開催しているが、「彼女」はそこでも伝統否定と、性別の相対化を主張している。「何を基準に男女を分けるのか」と主張した人物が、戸籍上の性別を女にしてくれとはどういうことなのか? 私は当時も、

 もし森村の主張が正しいのであれば、そもそも性同一性障害は存在しない。「私は男ではなく女だ」という当事者に対しても、森村は「あなたは何を基準として自分を『女』だというのか」と反論しなければならないはずではないか。そもそも森村自身、何を基準として「トランスジェンダー」を名乗っているのだろうか?

という指摘をしたはずだ。性差の相対化を主張した「彼女」が裁判所で、何を基準として自分を「女」だと主張することができることができるだろうか。「彼女」の特別抗告を否定したのは、司法の判断に先だって、まず「彼女」自身の主張だったのである。このような過去の経緯があるから、私はこの記事を読んでも、少なくとも「森村さやか」にはまったく同情の余地はないと考える。

 今はなぜか削除されてしまっているが(苦笑)、gid.jpの公式見解で私が「性差否定には与さない」と書いたのも、この矛盾を犯さないためだ。それが5年近くも前の話である。とっくの昔に指摘しておいた矛盾を、今ごろになって演じて見せてる人がいることが理解できない。


 ただし「森村さやか」個人についての判断評価と、特例法の要件の妥当性とは、まったくの別問題だ。「彼女」のような自業自得のケースはむしろ例外であって、子のいる当事者も基本的には救済対象に含まれるようになることが望ましい。しかしそれは単純に「子なし要件」の撤廃を主張するということではない。

最高裁は決定理由で、子供がいないことを性別変更の条件とした性同一性障害特例法について「子のある者に性別変更を認めた場合、家族秩序に混乱を生じさせ、子の福祉の観点からも問題を生じかねないなどの配慮に基づく」と指摘した。

 この最高裁の判断は、まったく正当なものだ。フェミニストや、その影響を受けた性同一性障害当事者は、この点についても、家族概念を相対化することで対処しようとする。しかし、これは家族秩序の混乱を懸念する司法判断と真っ向から対立するものであり、予期し得る将来に渡って受け入れられる可能性はない。

 私の考えでは、むしろ家族概念の本質を明らかにすることが必要だ。詳細は省くが、どんなにさまざまな態様の家族が存在するといっても、そこにはその集団を「家族」と呼び得る共通事項がある。これを現象学では「家族」の意味本質といい、既に「『家族』とは何か」で示した、

  1. 家族秩序(性愛的な横の関係、親子という縦の関係、インセストタブー)
  2. 相互承認による成員の存在基盤
  3. 財産の共有(経済的基盤、相続)
  4. 同居しているかその意志がある

のことだ。この4点が「家族」の意味本質である。世界には、時代や文化の違いによって様々な形態の家族(と呼ばれる共同体)があるが、私たちはこの4点が「ある幅をもって」認められる場合に、その共同体を「家族」と呼ぶことに同意する(違和感を感じない)ことができる。

 「ある幅をもって」というのは、たとえば1番目の項目には「擬制」という考え方がある。たとえば養子は、実際には血のつながりのない親子を、血のつながった親子と同じように扱うという「擬制」である。上記4点を基本原則とした上で、さらに「擬制」という一種の特例を加えて、家族制度というものは成り立っている。

 子供がいる性同一性障害の当事者に、戸籍上の性別変更を認める。しかも家族秩序を混乱させることなく認める。そのためには上記のような、家族の基礎原則を確認した上で、「擬制」という考え方を用いる他にない。

 さらにいえば、いわゆる「子なし要件」を完全に撤廃する必要もない。たとえば現在の「子なし要件」はそのままに、この要件の除外事由を1ヶ条加えるような改正をすればよい。改正から施行までは1年間とし、施行日以前に生まれた子供がいる場合に限って、戸籍上の性別変更を認めるのだ。

 これなら現在「子なし要件」にひっかかる当事者は、すべて救済される。しかも改正から施行までに1年という期間を置けば、その時点で当事者の配偶者または本人が妊娠中であっても、救済対象に含まれる。施行以降に子を作った場合には自己責任だ。この規定では、救済対象が増えることはないから、この条文によって性別変更をする当事者は数十年以内にゼロになり、その後は自動的に現行の家族秩序に戻る。

 戸籍変更した当事者の子は、同じ性別の両親を持つことになるが、それは「擬制」として扱う。つまり異性間に生まれた子である「かのように」扱うとする。これはあくまでも「性同一性障害についての特例」であることが前提だから、必然的に同性婚を認めなくてはならないという理屈にはならない。

 ただし、もし将来に日本で同性婚が認められるようになるとしても、やはり同じ「擬制」の考え方を使うこともできる。いずれも家族秩序の基本原則を前提とした話であって、家族概念の相対化とは相反する考え方だということが、以上の根本である。

 性同一性障害当事者の救済を、既存と制度と矛盾なく実現しようとするならば、おそらくこれが私に思いつく唯一現実的な提案だ

 この場合、保守派にとってのメリットは、家族秩序を基本原則として明示できるという点にある。保守派にとってのメリットがある以上、彼らと折り合える可能性も開かれるだろう。セクシャルマイノリティと保守派は、ア・プリオリに敵対関係にあるわけではない。対抗主義的な先入見を排除して、双方に「利」があるような案を考えれば済む話なのだ。

 どんな保守派でも「擬制」そのものは否定できない。なぜなら、やはり「擬制」である養子縁組というのは、日本にも近代以前から存在する制度だからだ。だから問題は、性同一性障害に関して生じる問題を「擬制」という考え方の中に含めることを承認するか否か、という点にある。私の上記の考えは、フェミニズムなどに見られる家族の相対化ないし否定ではなく、むしろ家族秩序を積極的に認め、その原則を明文化して確立しようというものだ。

 また現状でも、個人名を挙げての批判はともかくとして、性同一性障害やトランスジェンダーなどのカテゴリーそのものを攻撃するような意見は、保守系のオピニオン誌にも見ることはない。今の特例法も、ジェンダーフリー派の「過激な性教育」を問題視していた自民党の議員が、積極的に後押しをしてくれていた。保守派とセクシャルマイノリティとの対抗図式は、現実から乖離したフィクションに過ぎない。せいぜいフェミニズムシンパが批判の対象になっているだけで、性同一性障害というカテゴリーそれ自体が敵視されているわけではない。

 もちろんこれは、私のアイデアだけで実現するというものではない。この案が実現する背景には、国民的コンセンサスが必要である。この案は単に保守派のみを利するばかりではなく、多くの人々がそれなりに「家族」であることを生きている、その基本原則を尊重するものだ。

 この案に対する理解を国民的コンセンサスという形で得るためには、旧来のような「弱者」を特権化する主張であってはならない。「弱者」の特権化は、「平等」や「対等」という近代理念に反するがゆえに、理解が得られないのが当然なのだ。

 そればかりでなく、既に特例法によって戸籍上の性別変更を終えた人がこの社会に存在するということを、アピールすることも重要だ。もちろん「それゆえの社会的混乱」が生じていないこともアピールも伴っての話である。

 このような「事実の積み重ね」によって人々の意識は変化し、理解が得られやすくなる。おそらく現状では、上記の案くらいまでは理解が得られるのではないかと思う。かつて自分が在籍していたからほめるわけではないが、その意味では今年の2月に読売新聞で報じられたgid.jpの発表は、とても好ましいものだった。

 この報道ではgid.jpが、それまでも要件の「完全撤廃」や「即時撤廃」といった主張から、「緩和」に改めていた点も評価できる。これはよい判断だった。旧来の社会運動のようにいたずらに理想理念をもてあそぶのではなく、あくでも現実を踏まえて徐々に「緩和」を押し進めてゆくことで、着実に成果を上げてゆくことが肝要なのであり、けっして焦ってはいけない。その都度、救済できる人を確実に救ってゆくことが、次のステップに進むための「事実の積み重ね」となるのだ。

L.Jin-na


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