神名龍子
と書きました。今でも、ある(たとえば日本なら日本の)ジェンダーのあり方が「セックス」と必然的関係にあるとは思っていません。これは各文化ごとに日本とは異なるジェンダーの在り方が存在するという事実と、それらのいずれが正しくていずれが間違いというものではない、という理由からです。例えば、日本人にとって日本のジェンダーの在り方がよいとしても、他の文化を持つ民族にとってそれがよいとは限りませんし、逆の場合も同じですね。
しかし、それだけではそもそもジェンダーとは何かとか、それが各文化の中でどのように編み上げられてきたのかということが判りません。判らないままに「ジェンダーには根拠がない」といって捨て去ってしまって、その後に何があるのかというと、はなはだ心もとない気がします。
一部のフェミニズムなどには、「性差がなくなれば性差別はなくなる」とか、ひどいのになると、「性差がなくならない限り性差別もなくならない」という意見さえあるようですが、このような主張を信じて能天気な予測を立てるのはあまりに無責任です。これは「10.「差別」について」でも、
と述べた通り、性差がなくなれば性差別がなくなるというのは、「差異」と「差別」の区別がついていない主張です。性差がジェンダーという形で後天的に作られるという事に寄りかかることで、実は差別というものに対してまともに考察することなく答えを焦った見解としか思えません。これでは先天的な差異を利用した差別、例えば白人の黒人に対する差別は、肌の色が同じにならなければ解消不可能なのかということになってしまいます。また、価値観の多様化の時代にあって、こういう考え方は時代に逆行するものです。なぜなら価値観の多様化は必然的に価値観の差異の多様化を生み出しますから、上の考えでゆけば、それは差別の多様化につながるからいけないということになります。これはやはり考え方として不充分で、あまりに素朴すぎるといわざるを得ません。
私たち T's は、現在の社会のジェンダーの在り方からすれば例外に属します。しかし、その社会に生きて行かなければならない以上、性急な現状の否定に走るのではなく、まずは現状をしっかりと把握することも必要です。その把握は、最初に「こうあるべき」という願望を持って、それに沿うように現状を解釈するのではなく、少なくともこの段階ではあくまでもニュートラルに、ありのままにものを見る目を持つ必要があります。そうでないと偏ったものの見方になってしまい、それは結局は私たちが現実離れをした浮薄な理念しか持ち得ないことにつながるからです。
考えてみると、ジェンダーに根拠がないのなら、ジェンダーアイデンティティに根拠があるわけがないし、ジェンダーをトランスするのもなんら必然性がないという事になります。するとこれは結局、私たちにとって自己否定になってしまう。
しかし、それでは私たちがトランスすることには本当に何も根拠がないのかというと、たとえ上手く言葉に出来なくても、そんな事はないということは私たちの一人ひとり、全員が実感として判っているわけです。ですからこれは、まず考え方とか、問いの立て方に何か問題があるのではないかと思います。
そこで次回以降はまず「ジェンダーはセックスを根拠としない」という点について、それが本当かどうか、私たちの実感を頼りに、そしてそこで使う言葉は正負いずれの価値的なアクセントを出来るだけ排して(出来るだけニュートラルにものを見て)、根本からとらえ直してみましょう。