13.男と女の非対称

神名龍子


 これは以前に、「女装の身体誌」の「7.性本能の封印と脳の性差」で述べた事とかなり重複しますが、男性と女性とでは、ある普遍的な性差が、傾向の違いという形で存在します。もちろん身体レベル、つまりセックスレベルでの違いは当然ですが、そこから派生して、かつ「社会的・文化的」とは言えないという意味で、ジェンダーとまではいえない中間レベルにおいての性差があるのです。

 男性でしたら、例えばまずある女性を見かけたとします。この最初の段階ではその女性の「見かけ」しか判らないわけですから、まずは「見た目」に興味を持つ、つまり惹かれるわけですね。もし最初に後ろ姿を見かけたのでしたら、前に回って顔を見たいと思うとか、さらにその女性に触れてみたいと思うとか、話し掛けてみたいとか、次の段階のアプローチを望みます。その段階でいきなり触れれば痴漢になりますし、話し掛ければナンパになるかも知れません。まぁ、最近はテレクラが増えたりしていることもありますし、最初の接触が視覚ではなく聴覚(声を聞く)である場合もあるでしょうが、その場合には、やはり顔を見てみたいと思うのではないでしょうか。

 要するに男性のエロス性(性的な欲情に限らず、もっと広い意味で、よい・悪いのよいとか、本当・ウソの本当とか、美醜の美などを求める気持ち)の実現は、「見る」事から始まってさらに次の段階へ進もうとします。しかしどんな女性に対しても見かけたら必ず惹かれるというわけではありませんし、惹かれる度合いの強弱の差もあります。惹かれる度合いが弱ければ興味が持続せず、次の段階に進まないという事になります。つまりこれは、まず男の方から「選ぶ」という事でもあります。

 興味を持ったところからさらに次の段階へ進もうとするのは、「見た目」から始まってさらにその女性の全体性へと手を伸ばそうとしているということです。最終的にこの男女がどのような関係になろうとも、まずはこのような身体的契機(見る)によって始まるといってもよいでしょう。痴漢であれ恋愛であれ、この点は同じです。また、ポルノや買春などは反対に、最初から相手の女性の全体性へは到達し得ないという前提の上に成り立つもので、いわば制限されたエロス性の一部だけの実現であり、完全な実現の可能性を最初から断たれているわけです。

※ところで、それらに対する非難の中に「女性の体をその人格から切り離して商品化しているのが許せない」という意見があります。しかし私の考えでは、これらの場合には逆に、人格から切り離されているからよいのではないでしょうか。言い換えれば、(これは私自身のゲイバーなどに勤めた経験も含めていうのですが)現代では人格から切り離すことで初めて「性」を商品化しうるのであって、人格まで含めて商品化されたのでは、売る方も買う方もたまったものではありません。

 話がそれたのでもう一度まとめると、男は女との出会いでまず、身体性を性的信号として受け取ります。それはエロス的・全体的関係へ向かう可能性として受け取られます。痴漢であれ恋愛であれ、その始まりは基本的に同じであって、この事自体に是非の評価を与えることは不可能です。ですが、男性側の身体性の性的信号の了解の仕方とそれに基づくエロス的な意志の表出によっては、フェミニズムの主張を参考にするまでもなく、女性から嫌がられる場合があります。これが男女双方の「好み」程度のレベルのズレなら、せいぜい「ふった」「ふられた」くらいのものですが、場合によってはさらに深刻な事態を引き起こすこともあります。このズレについてはのちほど、女性側の傾向について述べる中で言及しますので、両者を比較して検討してみてください。

 ここではまず最初の契機において、男女の「見る・見られる」という非対称な関係を押さえておく必要があります。「見る・見られる」と書くと男性が能動的で女性が受動的ともみえますが、女性の側も「見られる」事を意識した上で、化粧をするとか洋服を選ぶなど、いかに「見せる」かに気を遣います。つまり「見る・見られる」は同時に「見せられる・見せる」でもあって、どちらにしても非対照的な構造であることには違いありませんが、どちらが能動的でどちらが受動的だと固定して見ることは出来ません。

 また多くの女性が、より美しくなる(よりよく見られる)ことに、幸福の一条件を見出そうとする指向を捨てない限り、この非対照的構造から降りることは不可能でしょうし、けっしてジェンダーレベルの何らかの性差がなくなる事もありえません。しかし実際には多くの女性が、化粧や服装にこったり、身や飾ることにエネルギーを使ったり、美容産業の繁盛やエステティックサロン、ビューティケアの広告の氾濫・・・と、誰から強制されたわけでもなく、このようなエロス的価値構造の再生産者としての道を選んでいるわけです。「5.イーミックとエティック」で紹介したように女装者が「結果としてかれらは性別秩序の維持に貢献する」(上野千鶴子)のも、私が化粧をし着飾って店に出たのも、フェミニズムの論理に従ってではなく、多くの女性たちと同じ理由で同じ行動を選らんだ結果として当然のことです。

 さて、「女装の身体誌」の「7.性本能の封印と脳の性差」で述べたような男女の普遍的な傾向の違いというのは、どこからくるのでしょうか。それは上に述べたことも含めて、男女の性的な在り方の違いに大きな理由があると考えられます。

 男の性は思春期において器官的なものとして、戸惑いと共に訪れます。この「器官的」ということがやっかいで、簡単に言えば、男性器の「一回やったらしばらく休み」という性格がエロス的関係を連続的なものにすることを難しくし、誰にでも使いうる道具性と抽象性が特定の相手に向かわせることを難しくさせます。これが女性にとって迷惑なことはもちろん、男性本人にとっても戸惑いを与えます。これを克服するためには、愛情とは別の、「男は心に決めた女性を生涯面倒を見る」といったモラルが必要で、いわゆる「男らしさ」というのは、男性の性的条件から課せられた、一つの倫理的な行動条件ではないかと思います。

 それに対して女性は、連続的な物語の中に生きるため、エロス的関係もまた連続的なものになり、しばしば男性の非連続的エロス的関係と浮気とに苛立ちを覚えることになります。これは男性の「一回やったらしばらく休み」とは対照的に、女性は性そのものが性交だけに終わらず妊娠、出産、子育てと連続しているため、男性よりも連続的な物語の中に生きやすいのだと思います。これだけは私も真似が出来ません。これは言い換えれば、男性が女性そのものを対象にするのに対して、女性は自分と相手の男性との関係の中で生きているといえます。つまり「快感」や「欲望の満足」よりも、自分が誰とどのように結ばれる(エロス的合一)かという方に重点があります。男性の場合には性と生活がどこか分断しているところがあるんですが、女性の場合には性と生活が連続しているといってもよいでしょう。逆にいえば、男性が仕事や政治など、社会を舞台に活動しているのは、それらの世界を男性が独占したというより、男性が家庭から放り出される存在であるという面があることを忘れるべきではありません。ここに、男性の男性としてのアイデンティティが、女性の女性としてのアイデンティティよりも脆弱である理由をうかがうことが出来ます。

 これは「お龍さんの徒然草 98'」の2月16日付の回に書いた、「東アジア交流協会」での経験ですが、この中でヌード写真を見て欲情するかどうかについての男女の違いという話が出ました。この日の参加者には、それぞれ複数の男女がいらしたのですが、男性の場合はやはり多かれ少なかれヌード写真で欲情できる。しかし女性の場合にはそうはいかないんですね。私も「例えば新宿2丁目にはホモセクシャル向けに男性のヌード写真を売っていますけど、それが一般的に女性にも需要があるとは思えない」といったところ、女性の方たちはうなずいてくださったのですが、男性側はそれが不思議に思えたようです。私がそれに気がついたのは、男性向けのエロ漫画とレディスコミックの違いに興味を持って見比べたことがあったからです。

 同じエロ漫画のように見えても、重点の置き方が異なりますし、男性向けのエロ漫画雑誌の場合には漫画だけでなく女性ヌードの写真の載ったページがあることが珍しくない(というよりない方が珍しい)のですが、レディスコミックにはまずそういうページはありません。これは女性に性欲がないのでも、性欲を抑圧されているのでもなく、女性の性欲にとってそういう写真はあまり需要がないということだろうと思います。レディスコミックにしても、ドラマや女性週刊誌の記事にしても、どうしても物語(設定とストーリー)重視なんですね。それぞれ男女とも、最初はお互いが理解できないようでしたが、この違いを説明したところ、皆さん納得してくださいました。

 男女の間には異文化といってもよいくらいの相互の無理解があるんですね。これが判らないと、共存どころか敵対的になったりもするわけです。これは、異民族や国家間の争いと違って、お互いになまじ近くにいるものですから、かえって気がつきにくいのです。つい、この差異を忘れて相手が自分たちと同じ価値観で動いているかのように錯覚してしまいます。実際にそういう部分も多々あるわけですが、それがいっそう誤解に拍車をかけていることも多いと思います。

 もしかしたら、男と女は最大にして、人類が最初に持ち、最後までなくなることのない異文化圏なのかもしれません。


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