神名龍子
もし、「差異がなくならなければ差別がなくならない」としたら、どういうことになるのか。例えば身体的な差異に基づく差別、つまり黒人差別などを無くすことは絶望的である、という結論が導かれるということは既に書きました。では、社会的、文化的に定められた差異についてはどうでしょう。
ここ数年、文部省によるものか教師たちによるものか知りませんが、「個性」というこ事がやかましく言われるようになりました。しかし個性というのも一種の「差異」ですね。では、「個性を伸ばす教育」は「差別的」なのでしょうか。これは差別的な面と、そうではない面との両面があると思いますが、これについて非常に「差別的」に感じるのは、では無個性、つまり「平凡」であるということは、そんなに悪いことなのかということですね。ひるがえっていえば、なぜ「個性」なのか。
その前にもう少し根本的な部分として押さえておきたいのは、「自由」と「平等」とは相反する理念であるということです。「自由」ばかりを伸ばせば競争社会という面が強くなりますから、これはどうしても「差」が出ます。つまり結果的不平等になる。反対に「平等」を重視しすぎればどうしても個々の自由は制限されざるを得ません。ですから社会の秩序を保つためには、「自由」も「平等」も無制限ではありえません。たとえば経済でいえば、「自由競争」とはいっても、そこには競争のルール(制限)が必要になりますし、そのままでは貧富の差が広がる一方ですから、累進課税などの制度を設けて、ある程度は差を縮めるということが必要になります。一方、がんばっても怠けても結果がまったく同じというくらい、なんでもかんでも「平等」ということにしてしまえば、競争などはアホらしいということになって社会全体が停滞します。社会主義国の社会が、反対に労働を軽視する儒教文化と同様、やはり停滞するのは、人間の「やる気」という数字に置き換えることの出来ない「非科学的」な要因を無視したためだと思います。
そうすると、やはり社会に何らかの差異は必要なんですが、ただ現代ではその差異をはかるモノサシ(価値観)が多様化しているために「ある程度の自由」が保証されているわけです。反対に価値観が一種類しかない世界、例えば「貧富の差」だけが社会的な差異として認められる社会(金儲けや出世だけが「価値」であるような世の中)だったら、とても息苦しいでしょう。これは「貧富の差」に限らず他のどんな差異であっても同じ事です。私たちは、あるAという価値観において「敗者」になっても、他のBという価値観では勝者になりうるという可能性があるから、「自分はこれがやりたい」とか「これだったら負けない」というものを持つことが出来るのです。
しかし実際には「個性」なんかわざわざ強調しなくても、「平凡」な人間というのは存在しないんです。すべてにおいて平均点が取れるようなバランスの取れた人間なら、それも立派な個性でしょう。そういう人間はもっとも平凡なようでありながら、いざ探してみると誰でも一長一短あって、なかなか見当たらないものです。
教育というのは(私は大学は知りませんが、少なくとも高校までの教育は)半人前の存在(子供)が社会の一員になるためのルールや知識を教えるものですから、画一的なのが当たり前です。教育が画一的であることを非難するのも不見識な話ですが、「個性を伸ばす教育」という語義矛盾を平気で掲げることが出来る教育者は、それ以上に不見識だと思います。
また、個性というのは教育によって伸ばすことが出来るのかというと、そもそもこの事自体がとても疑問なわけです。「個性を伸ばす教育を」といわれ始めてからの数年間、教師が自分のどのような個性を伸ばしてくれるのかと期待している中学生や高校生がいるのかというと、おそらく、いない(笑)。現実に教育者に可能なのはせいぜい、「個性が伸びるのを邪魔しすぎない教育」くらいが関の山でしょう。個性を伸ばしたければ極端な話、教育をやめてしまえばよいのです。その証拠に、私のように教育から「落ちこぼれた」者の方が、幸か不幸かいつも「個性的」だといわれています。私とならべて名前を挙げるもの変な話しですが、シュバイツァーもエジソンもアインシュタインも「落ちこぼれ」だったそうですね。
ところが「個性」を求めているのは、教育者だけではないんですね。企業が個性的な人間を求めるとか、雑誌の記事なんかでもファッションやライフスタイルなど、複数の分野で「個性」ということをいい始めています。ここから、現代の社会には、平凡を恐れる・・・というより、「没個性」を恐れさせる何かがあるのではないかと疑うことが出来ます。
その一つが「平等」だと思います。正確にいえば、何でもかんでも平等であるべきだという「平等という概念の暴走」です。麻雀でいうと、初めの配牌も同じなら、親も席順も認めないというくらいに「平等」を徹底すると、ゲームそのものが成立しなくなります。では最初の配牌や席順だけで麻雀の成績が決まるかというと、これはよほど徹底して運任せの麻雀を打たない限り、そうはなりません。運の他に各人の「技量」というものがあるからです。ところが最近は学校でも試験の点数を付けないところがあるそうですね。
しかし、人生の配牌(どういう家に生まれたかなど)が一人ひとり異なる上に、学校で身につける「技量」まで平等を装ってみても何の意味もありません。法律で保証する平等とは、教育に関して言えば「教育を受ける機会の平等」であって、教育結果の平等まで保証しているわけではありませんし、第一そんなものは法律であろうと、どんな人間であろうと、保証のしようがないものです。
成績の善し悪しや科目ごとの得手不得手というものは、現実にあるものですから、それを覆い隠してみても、それは「弱者の論理」としての欺瞞にしかなりません。それを喜ぶ生徒がいるとしたら、成績が悪いために親や教師から怒られなくて済むからというのが一番の理由でしょう(それで本当に怒られずに済むのかどうかは、はなはだ疑問ですが)。
しかしそれは、親や教師がその生徒を「成績」という価値観でしか見ていないことを示すものであり、親や教師はその点を反省して自己を改めるべきなのであって、試験の点数や順位を付けないというのは、彼らが自分を改めることなく済むような、責任逃れのゴマカシでしかないのです。こういうゴマカシをしていながら、自分は「平等」という理念を大事にしていると思い込んでいる教師がいたら、生徒こそいい面の皮です。
こういう平等の暴走、つまり悪平等があちこちで起きて「みんな一緒」ということになれば、どこか他の面で他人との差異を見つけたくなるのが人情で、「個性」というのはこのような悪平等の反動でしょう。なぜなら悪平等は必然的に自由競争を否定し、葬り去ろうとするからです。これは昨今問題になっている「イジメ」の動機のひとつにもなっているのかも知れません。
近代教育だけでなく、近代というのはさまざまな面で人間の均質化を伴います。法の下の平等というのは、誰もが国民として等しいということを意味します。時々「脱近代」を謳った本を見ることがありますが、そのほとんどは近代資本主義や近代家族制度を批判する小手先程度の批判でしかありません。本当に近代を疑うのであれば「自由」や「平等」という、近代を支える根本的な理念から疑う必要があります。それが出来ないのは、その本の著者が少しも「脱近代」していない証拠で、逆に「平等」を振り回しながら「脱近代」を謳うのは、最低の近代批判です。
選挙はすべて一人一票、徴兵制がしかれれば大男も虚弱な男も等しく「一人」として数えますし、また労働者という側面でもやはり、ひとりは「一人」として数えられます。これは近代の市民社会、国民国家の大前提です。さらにさかのぼって、そのような社会を生んだ西欧のキリスト教を見ても、「神の下に平等」という意味で、やはりひとりは「一人」ですね。同じ平等でも、犬猫や草木にも仏性がある(悟りの可能性がある)と説く大乗仏教や、年数を経た祖霊が鎮守と一体化してしまうような神道のように個別の命が同時に一つの大きな命でもあるというような宗教感を持つ世界では、こういう社会は成立が難しかっただろうと思います。ちなみに「平等」という熟語は仏教用語から採ったものだと思いますが、その本来の意味は、もちろん近代の理念としての「平等」とは別ものです。
近代になって理念的にも制度的にも、ひとりの人間が単に人間を数える単位としての「一人」に還元されてしまうようになると、どこか他の側面で「自分が自分である」事を確認しなくてはなりません。アイデンティティということが近代以降になっていわれるようになったのも、このためではないかと思いますし、割り切って言えば「個性」もその言い換えのようなものです。近代よりも前の時代で、そういう事を言わなかったのは別に個性が抑圧されていたからではなく、その必要がなかったからです。
日本の例でいうと、武士であれば武士としての手柄を人一倍立てる事さえ出来ればよく、他の面で没個性的であっても、それによって武士としてのアイデンティティが揺らぐことはなかったでしょう。他の職業でも同じですね。キリスト教社会でも儒教社会でもなかった日本では、古くから腕のよい職人が非常に尊敬されたり、また一国の国司のような家柄でも当主が馬の鞍を作ってそれが珍重されるような、おそらくは世界的に見ても特殊な社会を作りました(儒教社会においては「士大夫は身を労すものではない」という思想があり、これは近隣といえどもかつての中国や李氏朝鮮などでは考えられないことなのです)。このような近代以前の日本では、一人ひとりの人間を誰彼なしに等しく「一人」として見ることは不可能です。そのため身分だけでなく、各人が持つ職能や技術、つまり「自分は何が出来るか」ということが、アイデンティティの機能を果たしていた事になります。
さらに言えば、このような近代的な「人間の均質化」は、人間を一個の社会人として、文字通り社会的な面ばかりを見るために、「性」や個人の悩みというような、均質化し得ない個別の問題を切り捨てる傾向がありました。私は一部のフェミニズムが謳うような悪平等にはまったく同意するつもりはありませんが、この意味ではやはり近代というのは「性」に対する抑圧を本質的に持っていると思います。
例えば、身体的に「男」として生まれれば、将来「男性社会人」として社会に組み込まれるべく扱われます。その際には男性の「性」の部分については見ないか、見てみないふりをします。だから家庭でも学校でも「性」についてはあからさまに教えませんし、これについては私もそれでよいと思います。かえって学校なんかで「性教育」と称して画一的な教え方をするのはもっての他ですし、「性の開放」なども余計なお世話です。なぜなら「性」とは人間にとって恥ずかしい(羞恥心を伴う)ものなのです。
ですから私は「中学生・高校生の男子は親や教師に隠れて、コッソリ隠れてドキドキしながらエロ本を見なさい」といいたい(笑)。それは「性」が、基本的に親や教師の介入させる世界ではなく「個人」に属するものだからです。その上、あからさまな「性」など面白くもおかしくもないし、ではそれゆえにあからさまな「性」は健全なものになるかというと、そうはいきません。
数年前にライターとしての仕事で、AVを1日に11本見るという経験を月に1回、数ヶ月に渡ってやったことがありますが、こうなると、ドキドキのドの字もなくて、味気ない無味乾燥の労苦でしかありません。まぁ、AVというのは男性向きに作られているので、私の場合は多少は仕方がない面もあるのですが(更衣室の盗撮ビデオの評価なんかボロクソ書いてやった)、これは他のヘテロセクシャルの男性のライターでもまったく同意見で、他人(男性)がうらやむような仕事でないことだけは確かです。
「性」というのは学校で知識として教えるなどもっての他で、限られたものをコッソリ隠れ見ることで、ドキドキする感情を持て余しながらも、その「ドキドキ」も込みで覚えた方がよいのです。
話がそれましたが、ここでいいたいのは「性」が社会的に無視され、個人に属するものだということです。では、「性」は個人に属するものであるから、T's が社会的に認められなくてもよいのかというと、そうならないのが「性」の面白さでもあり、同時にやっかいなところでもあります。
売春などのように現実に男女が接するような場合と違って、メディアという形で商品化される「性(ポルノ)」は、大量生産品であるために、どうしても売れ筋というというものが決まってきますし、また上記のように男性にとって「性」とは飽きるものでもありますから、常に新しいものを取り入れる必要もあります(男性はそれによって「性」に飽きることから逃げ続け、なんとか自分の「性」を奮い立たせようとする)。
このように「性」が配布される中で、個人に属するはずの「性」が、社会的にあるまとまった現象の中に組み込まれるという、一見矛盾した結果を招くことになります。少なくとも「ニューハーフ倶楽部」や「シーメール白書」などの雑誌が廃刊されずに続いているのは、それがニューハーフを性(エロス)的対象として見る男性がそれなりの数、存在しているからですし、直接に男女(?)が接するニューハーフヘルスの増加もそれを物語っています。
また、それ以外にも「性」に関する情報はさまざまな形で配布されます。この【EON/W】も広い意味でその一つですが、近年では埼玉医大の性転換手術(性別再判定手術)に関する記事がそうですね。近々(ニュースソースの正確性に問題があるので断言はしませんが、早ければ来月くらい?)に手術が行われそうだという報道もあります。教育が、これら商品流通や報道に追いつくのは至難の技でしょう。
商品流通や報道による「情報」が何をもたらすかというと、これは漠然と言えば社会の変化を知ることが出来るということですが、それは同時にアイデンティティの変化を促します。アイデンティティというのは社会生活という「関係」の中でこそ必要なものであって、もし人間が絶海の孤島に一人で暮らすとすれば必要のないものです(実際にはそのような場所で一人で過ごすとしても、かつて所属した社会からの救出を待つとか、上官の命令を守り続けて戦争が終わったのも知らずに「任務」を続行するなど、何らかの「関係」の中に生きるものですが)。ですから、自分が属す社会や環境が変われば、「その中においての自分」も、多かれ少なかれ変わらざるを得ません。それが出来なければ、通常は「社会に適応できない」とみなされます。
アイデンティティの変化には、さまざまな形で「性」もその要素に含まれます。なぜなら、「性」が個人に属するといっても、その実現は他者とのエロス的「関係」においてなされるものだからです。それまでは生まれながらの女性でなけれ嫌だと思っていた男性でも、社会の変化によって、「でもニューハーフならいいか」と思うようになるかも知れません(だから現にニューハーフヘルスが増え続けることも出来る)。
それを逆手に取るならば、積極的に情報を流すのも T's にとって有効な手段です。それは書籍・雑誌やインターネットでもよいし、女装者が街中を歩くのも情報配布の一形態です。2月に紀伊国屋書店で行われたセミナー「性を越境する− 異装がもたらすゆらぎ −」で、三橋順子さんが、「リードされる(読まれる、T's であるとばれる)形で街中を歩くことが、『ゆらぎ』を与えることになる」というお話をされていまして、これは T's の中でも TS の方は嫌がると思いますが(^^;)、考え方としては正しいといわざるを得ません(ただ、これはあくまで手段の一つであって、必ずしもそうしなければならないとか、他に方法がないというのではないので、念のため)。
このセミナーの後、【EON】上で、「リードさせるというのはつまり、リークするということですね」と書き込んだところ、この「リーク」という言葉を気に入られたようで、いずれどこかで「リーク女装」という言葉が見られるようになるかも知れません。
なおここでは、MTF が世の男性に与える「ゆらぎ」について書いています。これは「13.男と女の非対称」でも書いたように、生においての「関係」の在り方や、性的・非性的エロス性の在り方が男女で異なるため、「男」と「女」を入れ替えても単純に同じ事が言えるということにはなりませんから、注意する必要があります。
前述の通り「性」は個人に属すものですから、その個人が持つエロス性や性別役割についての考え方などを、従来の社会運動のような形であからさまに変更するように迫ると、これはどうしても抑圧的になります。しかもそれを被抑圧者(弱者)のような顔をしてやる。そういうものを押し付けられた方は、たとえ言葉の上では押されても、直観的にはその矛盾を見抜きますし、その分だけ強く反発しますから、これは大変にまずいやり方です。三橋順子さんの「リーク女装」のような考え方は、近代社会が個人から切り離した個々の「性」を狙ってるという点でも、またそれゆえに従来のような社会運動型の欠点を克服しているという点でも、とても上手い方法ですね。
つまり、前者が「絶対正義」を振りかざして、個々人に対して外部からの命令もしくは要請という形で「性」についての考え方の変更を強制するのに対して、後者は個々人がそれぞれ自分の考え方を編み直すような形へと、抑圧感を与えることなく社会においての「関係」を変更しようとするものです。
この方法で気を付けるべき点は、これを T's の内部差別の原因にしないことです。この方法が実行可能な TV や TG が実行部隊となって実施する。それと同時に、この方法を嫌がる T's には強要しないし、そういう人たちを非難しない。また反対にこの方法を取らない人達は実行部隊を非難しない。上に書いたように、おそらく TS の人達は特にこの方法(リーク)を嫌がるでしょうが、そういう人達は手術を受けられるように自分の人生だけなんとかすればよいし、また現実的にもそれが精一杯だという場合が大半でしょう。
しかしそれはまた「性転換手術、近々実施」という報道のような、別手段によって社会に働きかけていることにもなりえるわけですから、それぞれの立場に、それぞれの役目があると割り切り、それを果たせばよいのです。揃うはずのない足並みを、下手な悪平等を振り回して、T's 全体が同じ行動をしなければならないなどと考えたら、私が常々「弱者の論理」とか「絶対正義」と書いているものになってしまい、かえって上手くありません。
そのためには、「『性』は個人に属している」という基本を忘れないことです。私たちは、T's という性的な共通点を持つ以上、「集団」ではなく、基本的に一人ひとりの「個人」なのです。日本の前近代の例と同様、一人ひとりが「自分は何が出来るか」を考えて果たせば、それが結果的に他の人のためにもなる、そういう方法を模索して行かなければ、先がなくなるでしょう。