16.個人に属す「性」

神名龍子


 内容が前章と重複しますが、大事な点だと思いますので、「性」が個人に属すものであるという事と「近代」について、もう一度まとめ直してみたいと思います。

 『ユリイカ』1998年2月号(青土社)の特集「ポリセクシャル −性とは何か−」の中に、三橋順子さんと、石井達朗、石川武志両氏の三者による対談記事「ヒジュラに学べ!−トランス社会の倫理と論理−」が収められています。その中で、「近代以前の日本におけるトランス系社会(稚児や陰間茶屋)の有り様と明治以降の抑圧による崩壊」について、三橋順子さんは軍隊の存在とキリスト教を大きな原因として挙げられているのですが、これを私なりに言い換えてみることにします。

 「軍隊」と「キリスト教」を私なりに別の言葉に置き換えると、これはそれぞれ「近代」と「弱者の論理」ということになると思います。

 近代というのは、さらに市民社会や国民国家、資本制などに置き換えてもよいのですが、その共通点は、ひとりは「一人」として数えられるという「人間の均質化」ですね。市民・国民として、兵士として、労働者としての個人は基本的に「一人」という数字に還元されます。ただその初期においては、男女の区別がまだ現代よりも大きく残っていて、「男一人」とか「女一人」として数えられました。女性に選挙権がなかった頃の選挙民や、女性が軍人になることが出来なかった頃の兵士などは、その顕著な例です。

 近代において男が「男」であり、女が「女」であるように求められたのは、ここに理由があったと思います。男が女になったり、女が男になったりしては、ひとりを「一人」として数えることが出来なくなってしまいます。

 それは近代以前でも同じではないかと思われるかもしれませんし、私自身、西洋の歴史についてはあまり知らないのですが、少なくとも日本では事情が異なります。個人は性別によって規定されるよりも、身分(必ずしも「階級」の意味ではないことに注意)によって「自分が何であるか」が決まります。武士はどんなに貧しくても武士であることを貫こうとします。織豊時代に国人や地侍という階層が消滅したためだと思いますが、江戸時代の武士は鎌倉時代のように土地を所有することがありませんでしたから、商人でないことはもちろん地主でもありません。そのため社会的な身分と富の分離という、非西洋的な社会現象が起きる。起きるだけでなしに、時代を追ってその分離がますます進んで行くわけです。

 こういう社会では、性別が同じだからといって武士も商人も同じ「男一人」と数えることは、どうしても無理があります。また、商人の家では必ずしも男子が跡継ぎとは限りません。商才のない実子(男子)に跡を継がせて店をつぶすよりも、番頭・手代の中から有能なものを選んで娘婿にして跡を継がせることも珍しくなかったようです。また武士の妻も、現代の会社員の妻(主婦)とは違います。見た目には同じ専業主婦のように見えますが、武士の妻は家にいても「武士の妻」であって自分の亭主とは一蓮托生。居場所は違っても一心同体で、間違っても長州藩士の妻が「亭主は亭主、アタシはアタシ」といって薩摩藩へパートタイムの仕事をしに行くなんてことはありえません(笑)。日本の場合「近代」はこのような社会から生まれたのではなく、接ぎ木のように輸入した制度ですから、このような社会は「前近代」というよりも、はっきりと「非近代」というべきでしょうね。

 ところが近代になると、次第に「個人」というものが浮かび上がってきます。浮かび上がるのはよいのですが、「個人」が藩や家から切り離されるだけでなく、「個人」から「機能」が切り離されます。ここでいう「機能」とは、つまり兵士とか労働者としての能力ですね。「個人」のうちのある特定の「属性」といってもよいでしょう。あるいは国民という「単位」になります。すると「性」も含めてプライベートな部分が残ります。これを言い換えれば、各個人が「社会的存在」と「プライベートな存在」に分裂するということです。この分裂なしには近代は成立しませんし、近代的「平等」もありえません。

 ところが人間は社会的な存在であって、他人の目から自分がどう映るか、自分が自分の属する社会の中で「何」であるかということを抜きにしては、「自分」を捉えることが出来ません。そのため「社会的存在」としての自分がアイデンティティの核になります。そのために、社会的に無視される「プライベートな存在」としての自分と、アイデンティティの核となる「社会的存在」としての自分の間に矛盾を引き起こします。

 これは誰にでも多かれ少なかれ心当たりがあることと思いますが、これを MTF の場合でいうと「社会的存在」として男である自分と、「プライベートな存在」として女(性自認が女)である自分との間に矛盾を引き起こすわけです。具体的な現象としては特殊ですが、原理としてはごく普遍的なものだと思います。

 そして、これが「近代以前の日本におけるトランス系社会の、明治以降の抑圧による崩壊」の構造だろうと思います。つまり「軍隊」というのはその中の一つの具体例であって、その背後に潜む真犯人は「平等」なども含めた「近代」の原理そのものだということになりますから、近代化が進めば進むほど、個人は「社会的存在」と「プライベートな存在」との分裂が進み、それに伴ってトランス系の問題も進むと考えられます。

 とはいえ時代を逆戻りさせることは出来ませんから、今後の見通しについては絶望的なのかというと、そうではありません。その鍵がもう一つのキーワード、「弱者の論理」なのです。

 「弱者の論理」というのは、キリスト教にせよマルキシズムにせよ、その要諦は個人が自己中心性を捨てて社会全体のために働くことにあります。それは個々の欲望よりも上位に位置する、絶対正義からの要請(や命令)という形をとります。誤解のないようにいい添えておきますが、私が「女装の精神誌」などで書いていることも、それと似たような倫理性を多分に持っています。ですが、あれはあくまで本人が「強く」なるための方法として書いているので、「弱者の論理」とは目的と手段が(価値観が)逆なのです。このあたりが判りにくいかもしれませんが、例えば「全体のため」に動く場面でもそれが「目的」なのではなく、自分が「強く」なるために目先の欲にとらわれることを排除して、いわばトレーニングとして自分に負荷を掛けるような「手段」であって、両者は似て非なるものです。

 「近代」の場合にひとつ問題なのは、その「個々の欲望」が絶対正義によって認められた点にあります。マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、キリスト教、特にプロテスタントに特有の「禁欲」の考え方が、資本制の成立にとって不可欠だったという結論を示しました。「禁欲」つまり欲望の否定が、反対に利潤追求を目的とする資本制を生み出したという事です。これを逆にいえば、欲望の追求は倫理という自己規制によって支えられているのであって、「平等」や「自由」を求めることもまた「しばられない」ことを意味するものではない、ということになると思います。

 もちろん、この抑圧的な側面を持つ「平等」や「自由」も、資本制と前後して市民社会の中から生まれたものです。例えば、恐怖政治や徴兵制を生み出したのはフランス革命です。個人から「機能」だけを切り取る「近代」が「自由」と「平等」という絶対正義を背景に国民国家を作り、徴兵制を生み出したのであって、それらが「自由」や「平等」を抑圧するものとして生まれたのではないことを、再確認しておく必要があります。

 ところが現代では、それが崩れつつあります。「社会的存在」優位の時代から、徐々にではありますが「プライベートな存在」優位な時代へと推移する途上にあると思います。つまりアイデンティティの核が「社会的存在」から「プライベートな存在」へと移りつつあるわけです。もっと簡単にいえば、何がステイタスになるかという価値観の変化、もしくは多様化ですね。

 ここで一つ注意しておきたいには、社会的な立場を多く男性が占めていたのは事実ですが、それを男性優位社会と断じて攻撃するような考え方はあまりに短絡的だということです。これは「社会的存在」の優位を認め、自己の「社会的存在」と「プライベートな存在」との分裂を促進しているという点で、むしろ時代に逆行する「近代的」思想です。女性が社会的立場を得られるように求める(選択の幅を広げる)事もさることながら、現在では「社会的存在」の「プライベートな存在」に対する優位という問題を優先して考えない限り、「近代」から逃れることは不可能だろうと思います。

 「プライベートな存在」優位な時代への推移というのは、それがよいかどうかは別にして、具体的には離婚率の増加、終身雇用制の崩壊、企業の一員という正規の身分を拒否するフリーアルバイターの出現と増加、そしてゲイのカミングアウトやトランス系の表面化などに見ることが出来ます。一昔前なら「社会的信用」に関わる問題でしたし、今でもそういう傾向は多分に残っていますが、「一流企業」としての証券会社や銀行まで倒産する時代に入って、そういうものはますます解体される方向に進むだろうと思います。

 トランス系が具体的な現象としては特殊であっても、原理としてはごく普遍的なものだという事は、ここにも現れていると思います。トランス系が「性」に関わる存在であるとしても、必ずしも「性」を切り口に社会を見る必要はありません。このようにもう一回り大きな枠で見る事も可能です。つまりトランス系とは「性的少数者」であるだけではなく、もう一回り大きな枠で見れば「プライベートな存在」を優先させる「社会的少数者」の一種であり、「社会的少数者」といっても現在は増加傾向にある(というよりも、顕在化の傾向にある)ということですね。

 ある意味で思想よりも現実の方が先んじて「脱・近代」化しつつある現代では、自らを「弱者」と規定して「弱者の論理」にもたれかかっていると、時代の推移から取り残されることになると思います。「脱・近代」は同時に「脱・弱者の論理」=「強者への意志」でもあるのです。

 もっとも「脱・近代」といっても資本制は当分の間は残ると思いますが、労働者という立場から離れた自分が何であるかを捉えられなければ当然「プライベートな存在」を優先させることは不可能です。したがって自己を労働者(=弱者)として規定するマルキシズムのような「弱者の論理」では「脱・近代」が出来るはずがありません。なぜなら、「労働者」という「社会的存在」としての自己にとらわれている限り、「プライベートな存在」としての自己を優先させることは不可能だからです。

 もちろん分裂した「社会的存在」としての自分と「プライベートな存在」としての自分を再統合することが出来れば、なお好ましいと思います。社会的な混乱なしに自己の分裂による葛藤を解決することが出来るからですが、これは実際には難しいでしょう。おそらく「プライベートな存在」としての自己を優先させるという、過去に例のない時代を迎えて社会的な混乱を招きつつも、時代の推移に合わせる形で徐々に社会構造が変化して行くのではないかと思います。


PREV INDEX NEXT
[前章] / [ジェンダー素描] / [インデックス] / [次章]